2.いてはならぬ者(1)
ウゼロ公国から新しい世継ぎを迎えて、六日。
ユニカは西の宮に籠もりきりで過ごした。
表や高官の屋敷では連日新しい王子を歓迎する宴が催されている。そのため城内の人の動きも激しい。こういう変事があるとき、ユニカは大人しくしているに限る。
ユニカも憂鬱に過ごしていたが、彼女の侍女たちもまた不満を募らせて過ごしていた。
表は賑やかなのに自分たちはいつにも増して暇を持て余している。ユニカの世話を命じられている以上、声を掛けられないからといって外へ遊びに出ることも出来ない。ユニカの部屋から続きになっている控えの間でお茶を囲みお喋りに興じているが、侍女たちの本音はそれにも飽きてきたというところだ。
今日もユニカは朝食を断って、ずっと二度寝に耽っていた。
さすがに寝過ぎたらしい。眩しい日差しに誘われて起き出してみると腰や背中が痛い。
時計を見れば、針は一応午前中といえる時間を指している。ユニカはぼおっとする頭で、図書館へ行って本を取り替えてくることを思いついた。
上着を羽織って寝室から出ると、控えの間から笑い声が聞こえてきた。声の主は二人。今日は三人が控えているはずなので一人足りない。ユニカが見て見ぬふりをするのをよいことに、侍女たちはとうとう交代で遊びに行き始めたのかも知れない。
水を飲もうとテーブルに近づくと、ドライフルーツの盛り合わせが水差しと一緒に置いてあることに気づいた。
皿にはカードが添えられていて、それには先日会えなかったことへの詫び、今晩は時間がとれること、そして部屋に籠もるユニカを気にかけているということが短く書いてあった。差出人の名前はないが、裏に有翼獅子紋の判が捺してあったので、王からの手紙だと分かった。
ユニカはドライフルーツの中から木苺を摘んで食べる。甘酸っぱさで目が覚め、思わず頬が弛む。
天気もいい。やはり出かけよう。図書館へ行くくらいなら、まさかウゼロ公国の使節と鉢合わせることもあるまい。
わざとノックをせずに控えの間の扉を開けると、それぞれにお茶とお菓子を口に入れていた侍女たちは驚いてむせ返りながら立ち上がった。
「フラレイ、テリエナ、リータ……はいないのね。外へ出たいわ、支度を手伝って。それと、テーブルの上の果物はみんなで食べていいから」
口を押さえて頷きながら、フラレイとテリエナはドレスや洗面具を取りに方々へ散った。
ユニカは王からのカードと銀の皿を手に持って、一人化粧台の前に座る。カードを銀皿に置いて、ユニカはそれを見つめながら自分で髪を梳き始めた。
彼女の視線の先で、何かがぱちっと音を立て弾ける。ほとばしった青い光がカードの上に散り、やがて生まれた小さな火がカードを呑み込んでいった。
* * *
連日の夜更かしのせいか、カミルの新しい主は疲れているようだった。
主はどんなに前日の就寝が遅かろうと定刻に起き、午前中はシヴィロ王国の国法を勉強している。午後には各役所の高官のもとへ挨拶に行き、夕方から支度をして、今日も誰だったかの屋敷で行われる夜会に招待されていた。あれ、誰の招待だっただろうか。
ディルクの予定を把握し管理するのが侍従であるカミルの仕事だった。予定は全部手帳に書いてある。しかし手帳がない。
「手帳を探しているなら、ここにあるが」
ポケットというポケットを引っ張り出していたカミルはびくりと跳ね上がって振り返った。主が机の隅をペンで指し示しながら呆れて笑っている。
「二時間前からそこにある」
「申し訳ありません!」
今朝、一日の予定をディルクと確認したときそこに置いたのだ。途中でディルクに贈りものが届いたので、慌てて対応に出てそのまま……自分の懐にしまった覚えがない。
「なくさないように気をつけなさい」
「はい……」
カミルはしゅんと項垂れながら手帳を懐にしまい入れた。反省することに頭がいっぱいで、夜会に招待してくれた相手の確認をすっかり忘れ。
お詫びの気持ちを込めて、彼はディルクの手許で冷めていたお茶を淹れ直しにかかる。
カミルの悄然とした後ろ姿を見て思わず笑いを漏らしてから、ディルクは再び法典と注釈書に視線を落とした。
クヴェン王子の死は突然で、ディルクがシヴィロ王家に入ることになったのもまた、急な話だった。
ディルクの王家入りが承認されて間もなく公国を発ったので、シヴィロ王国の国法について事前に学んでくる暇は当然なかった。
いくら主従国とはいえそれぞれに君主がいるため、王国と公国の法規は似ているが細かい違いがある。ディルクは政治の舞台に立つ前に大急ぎでそれを頭に入れる必要があった。明日からは教師もつけて、本格的に法制について学ぶ。
王族には王族の苦労があるのだなとしみじみ思いながら、カミルはディルクの邪魔にならないようそっとカップを置いたつもりだった。しかしディルクはすぐに気がついて、顔を上げ微笑んでくれる。カミルも頬を弛めた。
以前から王子付きの侍従だったカミルだが、彼に任されていた王子の世話といえばもっぱら十一歳の王子の遊び相手だった。だから引き続き新しい世継ぎの侍従として仕えるように命じられてからは、しばらく重圧で眠れない夜が続いたものだ。
なんといっても、今度仕える相手は立派な青年なのである。すぐにでも王の政治を佐けられる、まさに世継ぎ。
カミルの仕事も遊び相手ではない。身の回りの世話の手配、予定の管理、公私を問わずディルクが関わる人々との間に入り取り次ぎや連絡をすること。
ディルクの暮らしすべてを補佐することになる。それは子供だったクヴェン王子の世話をするのとは比べようもなく重要な仕事だった。長くディルクに仕えることが出来れば、将来、カミル自身が政治に対して力を持つことも可能なのである。
それこそが重圧のもとでもあったのだが、ディルクの気さくな性格にカミルはあっさりと緊張を解かれ、惚れてしまった。
ちょっとしたアイコンタクトに照れつつカミルが満足していると、せわしなくノックの音が響いた。続いて「兄上ー!」と、まだ少し高い声が続く。
「エイルリヒ様ですね」
弟君の声もしっかり覚えたぞとアピールしながらカミルは扉を開けに向かうが、彼が取っ手に手をかけた瞬間。
ごんっ、と、痛ましい音を立ててエイルリヒが飛び込んで来た。彼はちらりと扉を振り返るが、その後は一目散に兄の傍へ走って後ろから抱きついている。
「俺の侍従を撥ねたぞ」
「え? 嘘。ああ、本当だ」
遅れて入室してきたエイルリヒの侍従・マティアスに助け起こされながら、カミルは鼻を押さえて悶え転げたいのを必死で我慢した。
「そんなことより、」
カミルに一瞥をくれただけで、エイルリヒは兄の耳にごにょごにょと何ごとかを囁いている。ディルクは一つ二つ頷きながら、やがてにやりと笑った。
「明日から教師も来ることだし、今日はこれまでにしよう。カミル、上着を」
「は、はい!」
外套を引っ掴んでディルクの傍に駆け寄ったカミルは、主が失笑しかけて顔を背けたのに気がついた。きっと鼻が赤くなっているのだ。それもこれも……と恨めしげにエイルリヒを見ればじろりと睨み返される。しかし冷たいエイルリヒとは違って、ディルクは涙を浮かべるカミルの肩を叩き慰めてくれた。
「下見はどうだった?」
「しっかり行ってきましたよ。まったく、公国使節代表の僕に手伝わせますか?」
「俺は忙しかったんだ、仕方ないだろう。お前はどうせシュテルン公爵にすべて仕事を任せているんだろう? 散歩がてらに行ったなら暇がつぶせてよかったじゃないか」
主が息抜きをしてくれるのはいい。疲れていたようだから。しかし兄弟とともに宮を出てしばらく、カミルは冷や汗をかき始めていた。
「殿下、恐れながら、どちらへ向かっていらっしゃるのですか?」
談笑しながら歩く兄弟は迷うことなくドンジョンの区画を超え、西側へ入ろうとしているように思えてならない。
「向こうに温室があると聞いた。硝子張りの大きな建物らしいな」
「中にはせせらぎもあるし、趣の違う四阿も三つありました。冬なのに花もたくさん咲いて、なかなかいい雰囲気で」
「屋根に雪は積もらないのかな」
「ドームになっているので滑り落ちていくみたいですよ」
「それはまた洒落たつくりだな。楽しみだ」
兄弟の会話にぎょっと目を瞠り、カミルは二人の進路を塞ぐためその前に飛び出した。
エイルリヒが不快感をあらわに睨みつけてくる。
「西の区画へは、まだ殿下をご案内しないよう、陛下からおおせつかっているのです。外郭に温泉水を引いた別の温室がございます。中は果樹園になっておりまして、」
「だから?」
「本日は、そちらへご案内しましょう」
「不要です」
容赦なくエイルリヒに切り捨てられ、カミルはうぐっと言葉を呑み込む。
まぁまぁと弟の頭を撫でて宥め、ディルクが済まなそうに息をつきながら言った。
「悪いが人を待たせているんだ」
「え?」
カミルをやんわりと退け、ディルクは再び歩き始めた。エイルリヒもふんっと鼻を鳴らして兄に続く。
「ですが、陛下のおおせで、」
「お前が叱られるようなことにはしないよ」
「いいえ、そういうことを心配しているのではなくて」
「では、何を案じている?」
立ち止まって振り返ったディルクの眼差しは、口許の笑みに反して冷ややかだ。
「それは、私からは……」
口籠もるカミルを見て、兄弟はちらりと視線を交わした。互いにうっすらと笑ったように見える。そしてやはり西の区画へ向かうようだ。
さらに二人を制止しようとしたカミルはマティアスに突然腕を掴まれた。そのまま引きずられるようにして主たちの後ろをついていくしかない。
やがて温室に着こうというとき、カミルはまた驚き目を瞠った。
硝子張りの扉を開けて彼らを迎えたのは、カミルと同じ――元クヴェン王子付きで今はディルクの侍女をしている、部下のティアナだったのだ。
「待たせております、殿下」
ディルクは頷くと、彼女に導かれるまま温室へと入って行った。
中央にある四阿はせせらぎの上に建てられており、蔓薔薇が美しく絡んでいる。その中で小柄な人影が立ち上がった。ティアナは彼女とディルクに目配せすると、優雅に叩頭して主の前を退いた。
〝あの娘〟でないようなのでほっとするものの、カミルは落ち着かず主の背を見送り、そしてすぐ後悔する。
「僕らはあっちで待ちましょう」
真っ赤になって硬直するカミルをマティアスに引きずらせ、エイルリヒはティアナの案内で別の四阿へ向かった。
同じ女官職にあるティアナから呼び出され、リータはユニカの傍を喜んで抜け出してきた。
ユニカときたらウゼロ公国の一団が到着したあの翌日から部屋に籠もりきりで、本を読むかレースを編んでいるかの毎日だ。見ているこっちの目が疲れる。
ティアナはさして親しい相手ではなかったが、リータは面白いことを求めて彼女のあとをついてきた。
しかし案内された温室は王家の空間だった。自分たちのような女官だけで立ち入れる場所ではない。
少し不安になりながらも、リータはお茶の用意がされた四阿に座り、何も訊かず待つように言うティアナに従った。そうしている内に現れたのが、立儲の礼を終えてシヴィロ王国の世継ぎになったディルクだったのだ。
思わず立ち上がって彼を迎えるが、ディルクが四阿の屋根の内に入って来ると、胸が高鳴るあまり気が遠くなった。
ふらり、とリータが後退ったのに気がつき、ディルクは素早くかつさりげなく、リータの腰に腕を回しながら一緒に大理石の椅子に座る。
「また会えた」
耳許で囁いた彼の唇が、そのまま頬に触れる。動転しているリータにもはっきりと分かるほど腰に回されたディルクの腕の力が強まる。行き場なく胸の高さでさ迷っていた手が優しく握られる。
これは夢でしょう?
リータが気を失いそうになっている内に、そっと唇を塞がれた。二、三度吸いついてきた柔らかい感触に呆然としていると、目の前に青みを帯びた緑の双眸が現れる。それがディルクの瞳だと気づき、リータは口をぱくぱくさせて何か言おうとするがまったく声が出せない。
するとディルクは後ろめたそうに声を低めて言った。
「すまない。嫌だっただろうか」
我に返ったリータは激しく首を振って否定した。しまった、もう少し恥じらいを見せた方がよかっただろうかと打算を働かせるが、ディルクがほっと息をついて微笑んだので、その甘やかな笑みに再び思考を奪われる。
「殿下、わたくしを覚えていてくださいましたの……?」
「もちろん。私が城へ入った日にドンジョンへ忍び込んでいた子だ。あのあと叱られていないかと心配していたが、大丈夫だったようだな」
わざわざ調べてくれたのだろうか。リータの胸は喜びできゅうっと締めつけられる。
まったく相手にされなかったと思ったのに。そうか、あの場ではどうしようもなかったのだ。こうしてストールの持ち主のユニカではなくリータを探し出してくれたのが何よりの事実。
リータはすぐ近くにあるディルクの体温にうっとりと酔いながら、心の中では高笑いが止まらなかった。