6.喪失と代償(3)
* * *
近衛の兵舎に着く間際、ユニカはディルクとエリュゼが後を追ってきていることに気づいた。
背中を濡らす血の感触がひどく冷たい。そして傷口の周りが無数の針で刺されているように痺れていた。エスピオナが使っているという毒のせいだろうか。
こちらに追いついたエリュゼは、ユニカを抱えるエリーアスの顔を見た途端目を丸くした。
「エリーアス伝師!」
「エリュゼか」
二人と一緒に屋根の下へ駆け込んだ彼女は、自分の頭に積もった雪をそっちのけでユニカとエリーアスについた雪を払い落とす。
ユニカはのろのろと顔を上げて気心の知れた僧侶を見上げた。なぜエリュゼを知っているのかと訊きたかったが声が出ない。心なしか息もし辛い。
「ユニカ様、どうなさいました? お顔の色が……」
エリュゼは不自然に乱れるユニカの呼吸を目敏く見つけ、そしてユニカの肩に赤黒いしみがあることにも気づいた。
そのしみに触れ、エリュゼは自分の指についたのが血だと知る。
「これは……!」
彼女は血のついた手を握りしめると、後ろで自分の雪を払い落としていたディルクを振り返った。そして、あろうことか近衛兵が見ている前で彼を突き飛ばした。
「このようなことがないようにと殿下にお任せしたのに! なぜですか! なぜまたユニカ様がおけがをなさるのです! ユニカ様をこんな目に遭わせたのは誰です!? 今すぐここへ連れてきて殺してください!!」
不意を突かれたディルクは思わずふらつくが、近衛兵に支えられ、彼らに押さえつけられるエリュゼをきょとんとしながら見つめ返した。
「落ち着けって。気持ちは分かるけどユニカなら大丈夫だ。休ませればこの子ならすぐに治る」
「そういう問題ではありません! お約束くださったと思ったのに! わたくしがおそばを離れなければ、こんなっ」
エリーアスの言葉も撥ね除け、エリュゼは羽交い締めにされながらディルクに吠えかかる。
ユニカはそれを不思議に思いながら眺めた。いつも淡々とユニカの世話をしてくれるのがエリュゼだ。こんなに取り乱した姿など見たことがない。
「悪かったエリュゼ、ユニカに危害が加えられるのを防げなかったのは確かに私の落ち度だ」
兵にエリュゼを放させると、ディルクは残りの雪を払いながら奥へ進むように一行を促した。
医務室の休眠室には、先日ルウェルにけがをさせられた兵士が静養している状態だったので、予定を変えて使われていない部屋の一つへユニカを運び入れる。
「毛布と清潔な水と布をたくさん。大至急持ってきてください」
兵舎にいるべくもない貴族の娘に指図されると、命じられた近衛兵は怪訝そうに眉を顰める。しかし彼女がいずれかの家の当主であることを示す勲章を着けているのに気がつき、彼らは敬礼していそいそと部屋から立ち去った。
「ユニカ、苦しいのか」
ユニカの呼吸は浅く細かい。ぐったりした彼女を寝台に寝かせると、エリーアスもその異変に気がついた。
「エスピオナが使うのは人の身体のあらゆる動きを麻痺させ、呼吸すら奪う猛毒。普通の人間ならとっくに窒息して死んでいます。毒は即効性だ……今が一番苦しいかも知れません」
エリーアスの隣にかがみ込んだディルクは無防備に投げ出されたユニカの手を拾い、冷え切ったその指をゆっくりと開いていった。
強張ってはいるが硬直はしていない。この毒に犯され、身体中が石膏のように固まり、やがて呼吸も心臓の拍動も戒められ悶死する人間をディルクは見たことがあったが、ユニカの症状はそれよりはるかに軽かった。
「おい、勝手に触るな」
「指輪を返して貰うだけです」
ディルクはユニカが握りしめていた右手をゆっくりと開くと、中から転がり出てきた王家の指輪を受け止めた。ついでに右手の傷がほとんど塞がっていることも確かめる。
「少しの間耐えてくれ。君ならきっと大丈夫だ。一緒にいるよ」
ユニカはぼんやりしながらディルクの優しげな笑みを見上げた。どうしてそんな顔をするのだろう。王の命を狙っているユニカに向かって――罪人を捕らえるべき彼が。
握られた手があたたかく、ぎゅっと力をこめられたのが心地よかった。ユニカは呼吸の苦しさを忘れるためにその手を握り返すが、別の人物がディルクの手からユニカの手を奪い取った。
「エリー……」
ディルクを追い払ったエリーアスがユニカの髪や頬を撫でてくる。撫でられた皮膚にさえ嫌な痺れがざわざわと這っていくが、よく知っているエリーアスの手も温かい。
ユニカはほっとしながらもつれる舌を動かし、どうにかして喉を震わせた。
「エリュゼを、知って、いるの?」
「まぁ、割かし長い付き合いだな。エリュゼが王妃様の召使いだっただいぶチビの頃から知ってる。それにエリュゼはお前の後見貴族の一人だぞ。王妃様から聞いてなかったのか?」
ユニカは視線だけを動かしてエリーアスの後ろに佇む〝侍女〟を見つめた。彼女はそれに気がつくとばつが悪そうに顔を背けてしまう。かわりに答えたのはディルクだった。
「ユニカは知らなかったようですよ。エリュゼはずっと彼女の侍女のふりをしていましたから」
「なんで侍女のふりなんか」
「それは……」
「ユニカは卿が味方である理由を知りたがっている。なぜ黙っている必要がある?」
エリュゼはしばらく緘黙していたが、やがてエリーアスの隣に膝をついて、横たわるユニカに視線を合わせた。
「わたくしは、侍女として王妃クレスツェンツ様に仕えておりました、エリュゼ・プラネルトと申します。プラネルト家は王妃様のご生家であるエルツェ公爵家の分家の一つです。王妃様が身罷られる直前、父から家督と爵位を継ぎ、今はわたくしが伯爵家の当主。そして王妃様のご遺言により、ユニカ様のおそばに仕えております」
少しずつ気が遠くなる中、ユニカはエリュゼの言葉を聞きながら彼女が初めてユニカの前に現れた時のことを思い出した。
エリュゼが西の宮へやって来たのは昨年の秋。クレスツェンツの喪が明けた頃だ。クレスツェンツの葬儀のあと、ずっと鬱ぎ込んでいたユニカはあの日、久しぶりに口を開いた。
エリュゼは王妃からの形見分けだと言って、養父の手紙と日記が収められた黒檀の箱を持ってきた。それを受け取るようしつこく話しかけてきたのに応えて、ユニカは「分かったからお茶を淹れて、喉が渇いたの」と言ったのだ。
「ユニカ様はわたくしを新しい侍女だと思われたようで。ろくにご挨拶も済まないうちにお茶を淹れて差し上げたのを覚えております。それ以来、そのまま侍女としておそばにおりました」
「なんだそれ、誤解があれば解けばよかっただろ」
ユニカはその通りだと思ったが、エリーアスの言葉にエリュゼは悄然とうなだれる。
「後見と申しましても、わたくしに政治的な力はないも同然です。わたくしに出来るのはユニカ様のご領地の管理と身の回りのお世話くらい。とても後見役と名乗り出るほどの働きはしておりませんでしたから、せいぜい侍女でいいと思い……」
エリュゼはユニカが王妃の思い出にすがり、王家の霊廟に逃げることを予測した。なぜそう考えたのかとユニカが問うた時、彼女は冷淡に「教える必要はない」と言ったが、たったそれだけの理由だったのか。
気が抜けた途端に瞼が重くなり、ユニカは堪えきれずに目を閉じた。
「じゃあ、王妃様がユニカに譲った遺産もエリュゼが面倒を見てたのか。ほったらかしでとっくに王家に没収されてると思ってたぜ」
「まさか。正式な手続きを経て譲渡されたご領地ですもの。現在の領主はユニカ様です。さほど収入のある土地ではありませんが、王妃様のお気に入りの避暑地をいただいたのですよ。……ユニカ様?」
エリーアスの問いに答えていたエリュゼはユニカが目を瞑っていることに気づいた。二人は思わず身を乗り出す。ディルクだけが冷静にユニカの枕元に歩み寄り、呼吸を確かめた。
「大丈夫、息はしている。今を乗り切ればユニカならきっとよくなるはずです。このまま様子を見ましょう」
エリーアスとエリュゼはそろって安堵の溜め息を吐き、しかし寝台の縁にとりついたまま離れようとしなかった。ディルクはそこにいても仕方がないと思い、机のそばから椅子を引っ張ってきて少し離れたところに座る。
「さて、エリュゼの事情は分かったとして、あなたはユニカの何なのですか、伝師殿」
彼についてディルクが知っているのはグラウン家出身の僧侶だということ、エリュゼや王妃クレスツェンツと浅からぬ縁があるということ。
何よりディルクの興味を引くのは彼に対するユニカの態度だ。いくら親しいとはいえユニカが黙って抱きしめられるほど心を許しているとなると、よっぽどの仲だ。
またエリーアスも、ユニカの異能についてだけでなく彼女が王城で暮らす事情もすべて分かっているようである。
興味を引かれる。そして気に障る。
ディルクは王家の指輪を手の中で転がしながらエリーアスの背中を見下ろした。邪魔になるなら排除するしかないが、教会関係者となると少々骨が折れそうだ。
エリーアスも王太子の視線が刺々しいことに気づいていた。彼は肩越しにディルクを振り返ったが、鼻で嗤っただけである。
「王族には関係ない」
伝師からは地下牢にいた時と同じ、王族に対してとは思えない不遜極まる答えが返ってくる。しかし、先ほどと違い代わりに答えてくれるエリュゼがいた。
「この方は、ユニカ様のご養父、アヒム・グラウン様のお従弟です」
「いとこ?」
ディルクが問い返すと、頷いたのはやはりエリュゼのみだった。エリーアスは黙って投げ出されたユニカの手を握っている。
彼もまた、アヒム、そしてクレスツェンツから、ユニカを託された者である。
* * *
ディルクが地下牢へ向かったと聞いたラヒアックは、エリュゼとともに彼のあとを追った。
現場へ到着すると目当ての人物はちょうど地下から出てきたところであり、向こうもすぐにラヒアックに気がついた。そして『天槍の娘』を運んだ兵舎へプラネルト伯爵と一緒に向かうと言う。その場を離れる直前、王太子はラヒアックにそっと耳打ちしてきた。
「ヴィクセルが自決した」
「なんですと……!?」
「静かに。状況はあとで説明する。彼の遺骸を運び出してやってくれ。ローデリヒの身柄はひとまず衛兵隊長に預けるようルウェルに言ってある。兵を騒がせないように頼む」
あまりに淡々としたその口調にラヒアックはわずかにいら立ちを覚えた。ヴィクセルはラヒアックにとって歳の近い後輩であり、信頼してきた部下だ。もっと説明が欲しい。
そんな彼の表情には構わず、ディルクは近衛兵二人とエリュゼを連れて降りしきる雪の中へ出ていってしまう。
まずは牢の中で何が起こったのか確かめねばと思い、ラヒアックは急ぎ通路を駆ける。
彼らの足音に混じり鋼を打ち合う音が聞こえた気がした。まだ誰かいるのだろうか。
最奥の監房に通じる通路へ飛び込んだラヒアックは、そこで目にした光景に立ち止まり息を呑んだ。
「ああ、隊長さん、ちょうどいいところに。ローディを捕まえてくれません?」
血に染まった剣をライナの身体から引き抜きながら、ルウェルが笑う。
支えを失ったライナの身体はそのまま壁に寄りかかり、ずるずると崩れ落ちていく。
ラヒアックに背を向ける形で、呆然とそれを見ている者がいた。近衛隊長の執務室にいたはずのローデリヒだ。
騎士達の間でいったい何が起こっているのか。
全容を知らないラヒアックは、薄闇の中に浮かぶ部下たちの姿を見つめながら立ち尽くした。




