6.喪失と代償(2)
* * *
ラヒアックが執務室を出てから時間は大して過ぎていないはずだ。どうやら王太子は、彼が知らせるより先にユニカが捕縛されたことに気づいたらしい。
(ヴィクセルさんの援護に――)
そう考えたものの、目の前には剣を拾い上げられたルウェルが悠然と立ちはだかり、先ほどとは立場が逆転していた。
この場での最良の選択はヴィクセルを置いて逃げることだ。
けれどヴィクセルをけしかけたのはローデリヒ。そして、魔女捕縛の命令書を作った時点で城を離れるという指示に従わず、いずれ処刑されるあの娘を自らの手に掛けたいという思いに駆られ、ユニカを追ってきたせいでこの状況が作り出されてしまった。
逃げるべきだ。
しかし、踵を返すことが出来ない。時間が過ぎては不利になるだけなのに。
ルウェルに斬られた腹からの出血のせいで左腕が震えそうになっている。まだ新しい肩の傷も痛み出した。
相対しているルウェルが思いのほか冷静であることが更にローデリヒを追い詰めていた。手負いのローデリヒをこのまま放っておけばじきに大人しくなることをルウェルは分かっている。だからいつも通り気の抜けた顔で、しかしローデリヒの動きを確実に縛る間合いで剣を構えなんの手も打ってこない。
こちらから仕掛けるのは無謀だ。脇腹の傷を押さえながらローデリヒは牙を噛む。
そうしてルウェルと睨み合っているうちに、通路の奥へ駆け込んでいった法衣の男がユニカを抱えて戻ってきてしまった。
「伝師殿、これを持って先に外へ。入り口には近衛兵がいるはずです。これを見せて兵舎の医務室まであなた方を警護するよう伝えてください」
王太子もその後ろにぴたりと寄り添っていた。彼は王家の指輪を外し、手が塞がっている伝師の代わりに青白い顔で抱きかかえられているユニカにそれを握らせた。
魔女は死んでいない。
ヴィクセルは失敗したのだ。
紙のように真っ白な手が指輪を握りしめるのを見て、ローデリヒは腹の底がかっと熱くなった。
震えかけていた左手に力を込め、ルウェルの向こうの彼らに躍りかかる。
「おっと! やめとけよローディ、そのけがで!」
当然彼らへ剣が届くはずもなく、待ち構えていたルウェルがその一閃を受け止めた。
だがローデリヒは身を引かかない。ディルクはルウェルの刃を弾いてユニカに迫ろうとする。
「どうぞ進んでください。あれは私が押さえますので」
「あいつも近衛の兵なんじゃないのか?」
「部下をまとめきれていないのはお恥ずかしいことですが、彼にも事情があるようです」
「まったくだな。責任をもってどうにかしてくれ」
鼻で嗤った伝師が進み出るのと同時に、ディルクはルウェルと迫り合うローデリヒに容赦なく斬りかかった。片手で受け止めるには重い両手での斬撃で続けざまに剣を弾き、やがて壁際へと追い詰める。
「二対一はちょっと卑怯な気もするけど、仕方ねーな」
押さえつけられるローデリヒの首筋に、ルウェルは仕上げといわんばかりに刃を宛がった。
身動きが取れなくなってもまだ、ローデリヒはユニカを睨み続けていた。目の前にいるディルクやルウェルはまるで目に入っていないかのように。
朦朧としてきたユニカの視界の隅にぎらぎらと光る騎士の瞳が映る。
しかしそれもほんの刹那のことだった。エリーアスが彼らの遣り取りにまったく構わずその場を離れてしまったからだ。
みなぎる殺意を怖いと思うことも出来ないくらい、ユニカの思考はぼんやりしていた。
それでも分かる。あの騎士の目に殺意が溢れている意味が。
エリーアスの腕の中で揺られながら、ユニカはぽつりと呟いた。
「私、彼の〝誰か〟を殺したのかも知れないわ」
それを聞いたエリーアスはわずかに歩調を緩めた。しかし、呟いたユニカを見るでもなく、再び地上を目指して脚を速める。
「お前は悪くない」
「……そんなことない」
殺したのは、私だもの。
呟いたユニカを無視しながらも、エリーアスは唇を噛んだ。
「卿がこんな無謀な真似をするとは」
エリーアスの足音が遠ざかっていくと、ようやくローデリヒは眼前のディルクに焦点を合わせた。
そして首筋にあてがわれたルウェルの剣を右手で掴み押し戻そうと試みるが、指には感覚がなく、右肩から先には強いしびれが走りそれは叶わない。
「ユニカが温室の前で襲われたのは、私の入城から間もない日だった。衛兵に化けていたのは卿だろう、ローデリヒ・ブレンナイス。その時ユニカに焼かれた右腕は思うように動かない。左肩にも私が投げた短剣で傷を負っていたはずだ。傷はもう治ったか?」
「まだ痛みます。ですから、事務方への異動をとお願いしていたのですが」
「もったいないことだ。このような愚かな計画に荷担しなければ、卿もいずれは義父君と同じ『ブレンナイス将軍』と呼ばれる地位にまで昇っていただろうに」
ディルクは目を細めて笑う。そしてローデリヒに押しつけた剣を引きながら、誰もいない通路へ向けて鋭く叫んだ。
「ライナ!」
「え、いるの?」
「いるはずだ。ローデリヒを見張らせていたから。そのまま隠れているつもりか? 出て来なさい」
ディルクの声の余韻が石の通路に反響し虚しく消えていく。
辺りが重たく静まりかえると、どこからか靴音が聞こえた。そして、少し離れた別の通路への入り口から、青ざめた若い騎士が姿を現した。
「こちらへ」
彼は素直にディルクの前までやって来ると、恭しく跪いた。
「君には、ローデリヒが城外へ出ようとするなら止めろという命令しか出していなかったはずだが、彼が剣を抜いた時にルウェルを援護すべきではないか? ローデリヒを捕らえる理由は話してあったはずだ」
ライナはしばらくの沈黙の後、唸るように口を開いた。
「殿下は、なぜ『天槍の娘』を肩を持つのですか。あの娘を気に入られたからですか? ローディに怪我をさせたのはあの女なんでしょう? どうして処罰されないのですか」
「今の話を聞いていただろう。先にユニカを襲ったのはローデリヒだ。彼女は自分の身を守ったに過ぎない」
「でもあの女は、もともとこの城にいてはいけない魔女です! 陛下に取り入り、クヴェン殿下を――」
「確証のないことを言うものじゃない。口を慎め」
下を向いたまま訴えていたライナの言葉は途中で切れた。
遮ったのはディルクの言葉ではない、剣だ。騎士のおとがいの下へ滑り込むように差し出された切っ先は彼に顔を上げるように促す。
冷たい感触に誘われるままライナが顔を上げると、ディルクは彼の前に屈み込み視線の高さを合わせて囁いた。
「彼女は魔女だから何をしてもいい。そう思って、宮の捜査を命じられた時に必要以上にその場を荒らし回る部下を止めなかったのか? ライナ」
肩を掴まれ、ライナは息を呑んだ。そんな彼を突き放すと、ディルクは立ち上がって剣を鞘に収めた。
「やはり君に隊をまとめる器はない。ラヒアックも早まったことをしてくれた。ルウェル」
「おー」
「ローデリヒを衛兵隊の兵舎に移して手当を。監視はザームエル衛兵隊長に依頼して用意しろ。ラヒアックには任せられない」
「あいよ」
「ライナ、君はローデリヒの移送を手伝い……それだけでいい。終えたら私のところへ来なさい。私もしばらく近衛の兵舎にいる」
ディルクは言い終わらぬうちにうずくまったライナを避けてその場を離れた。
「じゃあローディ、とりあえず剣は放してくれるか?」
ディルクの靴音も消えると、ルウェルは同僚の首筋へ更に強く剣の腹を押し当てた。ローデリヒは正面を見つめたまま頷きもしない。もちろん剣を握りしめたままだ。
「放さないとくすぐっちゃうぞ」
喉を掻き切るわけにもいかないのでそう脅かしてみるが、やはり彼は無反応だ。
「うーん、参ったな。あ、ライナ。お前の出番だぜ。剣を預かってやれよ」
ライナはびくりと震えた。そして親しかった同僚と新参の騎士を交互に見る。
ローデリヒの顔は雪のように青白くなっていた。脇腹から流れた血が近衛の赤い隊服を黒く染めている。手当を急がねばならないのは一目瞭然だった。
ライナはふらふらと立ち上がった。そしてローデリヒの左手に手を伸ばすが、彼が一層強く剣を握り直したのに気づいて、それを奪うのをやめた。
「ローディ、『天槍の娘』の部屋を調べろっていうあの命令……偽物だったのか? お前が書いたの?」
「そうだ」
覇気はないもののきっぱりした返事に、ライナは弾かれたように顔を上げる。
ルウェルがローデリヒの喉に押し当てていた剣の刃を立てた。
「それはディルクの前で喋ってくれりゃいいんだよ。ライナ、ちゃんと剣を奪れ」
ルウェルの声は聞こえたが、ライナにはなんと言っているのかは分からなかった。烈しく燃えるような決意をたたえたローデリヒの瞳に釘付けになり、ライナの喉からは震える言葉がこぼれてくる。
「じゃあ、あの女がクヴェン殿下を殺したっていう、捜査理由も全部でっち上げか?」
「それは俺には分からない。だが、魔女が処刑される前に、俺の……俺たちの手で殺したいと思った」
ローデリヒは闇の揺らめく天井を見上げて、初めてユニカの姿を見た時のことを思い出した。
それはごく最近だった。
クヴェン王子の葬儀でのことだ。
王都アマリアの郊外にある王家の葬祭堂まで、クヴェン王子の遺体と参列者が移動する、その警護にあたった時。
彼が守っていた馬車はユニカの乗る馬車だった。
初めはどの家かの姫君が乗っているのだろうと思っていた。けれど順序がおかしい。
クヴェン王子の外戚であるエルツェ公爵よりも前に並ぶべきは王家の人間。
しかし、現在独り身である王のほかに王族はいない。では、これに乗っているのは誰なのだろう。
ローデリヒは、ドレスの裾に足を取られてもたつくユニカが馬車を降りる時に手を貸した。黒いレースの手套に包まれた手を握って。
それでもまだ、この姫君が誰なのか思いつくことが出来なかった。
彼女を初めとする参列者が葬祭堂に入ったあと、ヴィクセルに耳打ちされてローデリヒはようやく知った。
「あれが『天槍の娘』だ」
彼女の手が重ねられた右手からぞっと鳥肌が立った。その嫌悪感は、長いこと眠っていた憎しみを呼び覚ました。
それが始まりである。
「殺したと思ったのに。あんなにしぶとい女だったとは。殺し損ねたどころか右腕を潰されて――これでは、俺を都に送り出してくれた父に合わせる顔がない。だからとどめを刺したかった」
「父って、ヘンリック殿のことか……?」
恐る恐る聞き返したライナに、ローデリヒは普段通りの、雑談をしているかのような微笑みを返す。それがさらにライナの胸をついた。
「違う。ペシラで官吏をしていた実の父だ。八年前に死んだ。魔女に焼き殺されて」
言い終えるや否や、ローデリヒは下半身を捻ってルウェルの腹を膝で蹴りつけた。
怯んだ相手の剣を押し退け自由になると、すかさず突きを繰り出す。狙いは定めなかったが、彼の剣はルウェルの左肩に突き刺さった。
「いってぇ……!」
ルウェルを壁に叩きつけると、ローデリヒは突き刺した剣を無理矢理捻る。そしてすぐにルウェルから離れた。ローデリヒがいた場所を刃が薙ぐ。
「くっそ、大人しそうな面してやってくれるじゃん」
「あの女を殺して、誰に不都合があります? あの女がこの城にいることの方がおかしいのです。陛下の御名には瑕がつき、廷臣の方々はその存在に惑わされ要らぬ争いを起こす。いなくなった方がいいでしょう。なぜ、殿下はお止めになるのか……ライナが言うように、やはり殿下はあのような女にも籠絡される軟弱者なのでしょうか」
「んだとライナ、てめぇまたディルクの悪口言ってたのか! そこで待ってろ、ローディのあとにぶん殴ってやる!」
ルウェルはそう怒鳴ると石床を蹴った。
飛び出す勢いに乗せて大上段から剣を打ち下ろす。それを受け止めたローデリヒは堪えきれずにルウェルの剣をいなして飛び退った。
ルウェルの左肩からも血が溢れ出ていた。彼が腕を振る度に滴が周囲の壁や床に飛び散る。
けれどローデリヒの脇腹の出血も依然止まっていない。血とともに彼の体力も奪われていく。
そしてとうとう、ルウェルの斬撃を受けきれなかったローデリヒの膝が折れた。その隙をルウェルは見逃さない。
「大人しくしてもらうぜ!」
ローデリヒの左腕を狙う。串刺しにして剣を手放させるために。
しかし、この攻撃は思わぬ方向へ弾き飛ばされた。
ルウェルを阻んだ三本目の剣の主はライナだった。
「ライナ、お前な――」
「うるさい! ローディの言ってることは正しい……あいつは何百人も殺した、そんな魔女が城にいることの方がおかしいんだ! 王家の敵を滅ぼすのが俺たち近衛の役目なら、間違ってるのは殿下やお前の方だ!」
ライナはローデリヒを背に庇い剣を構える。ルウェルはそれを冷ややかに眺めた。
この若い騎士は、今し方ディルクに何を指摘されたのかまるで分かっていないらしい。
考え方が偏っていること、感情に任せた判断をしていること、それをまとめ役の器ではないと言われたのに。まとめ役どころか、私心を殺して主の剣でいなければならない騎士の器ですらない。
「クソガキめ」
左手の先まで血が伝い落ちてきた。ルウェルはそれを確かめるように指を擦り合わせてみる。
左肩の傷は刺された上に抉られたので、出血はなかなかひどい。やっぱり勝負事は時間も手数もかけるものではないなと思う。手加減は自分のけがのもとだ。
罵られたライナは敵意をむき出しにルウェルの間合いへ踏み込むタイミングを計っている。ルウェルには子犬が威嚇してきているようにしか見えなかったが。
「ライナ。お前、〝そっち〟に立ってる意味を分かってるのか? そこに立って俺に剣を向けてるってことは、ディルクの命令を無視して、俺を殺して、ローディにユニカを追わせようとしてるってことだよな?」
ライナは、そこまで考えてルウェルと対峙したわけではなかった。しかし、状況は彼が述べる通りである。
「ローディがユニカを追っていって、殺して、けどそこから逃げられると思うか? その場でディルクや近衛の連中に斬り殺されるだけだぜ。そーいう展開でいいのかよ。そうじゃなくても、早く手当てしないとローディは死ぬぜ」
ぐっと唾を飲み込んだライナだが、剣を下ろそうとはしなかった。彼は両手で柄を握り直し、肩越しにローデリヒを振り返る。
青白い顔の彼と目が合う。
ローディが死ぬ。そうかも知れない。これ以上血を流させるのは危険だ。
けれど王太子に捕まったら彼はどうなるのか。
騎士としての名は汚され、罪人として処罰される。どちらにしろ殺されるかも知れない。
確かに彼がやったことは――命令書の偽造は重大な罪だ。けれど、そうまでして彼が殺したかったユニカも罪人だ。
間違っているか? ローデリヒが。彼の方こそ正義ではないのか。
その果てにあるのが死であろうと、貫けるものがあるなら――
「行きたいなら、行っていいぞ。こいつは俺が足止めする」
ライナの言葉に、石床に突き立てた剣を支えに立っていたローデリヒは目を瞠った。
「おい、ライナ――」
「黙れ! 新参者にこの城の何が分かる! ローディが間違ってるはずがない、魔女は王家のためにも排除すべきなんだ! そのためなら、」
ガン!! とけたたましい音を立て、ルウェルの剣が石の壁を殴った。刃が闕けるのもいとわずライナを黙らせた彼の目には、先日と同じ炎のような殺気が揺らめいている。
「俺、そういうふうに仲間を死にに行かせるやつは大嫌いなんだよ」
ぽたり、ぽたりと血の滴る左手も柄に添え、ルウェルは剣を構え直した。その気迫はつい今し方までの彼とは明らかに違う。
「もういい、さがれ」
ローデリヒは薄ら寒いものを覚え、とっさにライナの肩を掴んだ。
「いやだ。……行けよ、早く。走れるうちに」
しかしライナは顔を背け、ローデリヒの手を静かに払う。
走れるうちに。ライナの声がローデリヒの脳裏に反響する。
そうだ、ユニカを追ってきた時点で城から無事に出られるとは思っていなかった。
それなら、もう一度ライナを利用してでも。
ローデリヒの脚に再び力が戻る。
彼はライナの背に頷き返し、地下牢の出口へ向けて駆けだした。
同時にライナとルウェルも床を蹴り、互いの胴を狙って剣を突き出す。




