4.見えない流星(3)
「殿下」
翌日の午前。
呼ばれて、ディルクははっとなった。目の前の少年に焦点を合わせる。
青ざめた顔で机の向かいに立っているのは、昨日ユニカの部屋へ押し入り、偽の命令を遂行してしまったライナだった。
ディルクの机の上には、小さいながらも細工を凝らした宝飾品がずらりと並べられていた。ライナ隊の近衛兵がユニカの部屋から押収して、自分の懐へ収めようとしていたアクセサリーの数々である。
隊員の一人が宝飾品を持ち去ってきたことをぽろりと漏らし、そこからラヒアックに詰問されたほかの隊員も耐えきれずにこれらを提出してきた。
都合が悪かったのはライナだ。ラヒアックがこの旨をディルクの前で説明すると、彼はみるみるうちに血の気を引かせていった。隊員たちの行いに少しも気づいていなかったようだ。
「偽装の命令書に従ってしまった件は君に落ち度があるとは言えなかったが、これは別問題だ。押収品を自分の懐に入れるのはただの盗み。隊員にはそれぞれ窃盗の罪を問う。彼らを監督できなかった君にも小隊長として責任をとってもらう」
ディルクは努めて穏やかに言ったが、ライナは気を失うのではないかと思うほど緊張したまま返事もしない。
「そしてラヒアック。卿にも、任命責任を問う」
「は……」
畏まって頭を垂れるラヒアックの声に、ライナはようやく目を覚ましたように顔を上げる。
「お待ちください! 隊長は関係ありません! 俺……私が隊をまとめきれなかっただけの話で、」
「君を小隊長に任じたのはラヒアックだ。それも、君の伯父、ベアケル将軍たっての願いをきいてということらしいな。優秀な人材の情報交換が出来る武官同士の繋がりを悪いとは言わないが、ラヒアックは友人の願いをきくという私情を挟み、能力のない者を役職に就けた。そしてその結果、陛下をお守りする近衛の秩序を乱した。責任は重い」
さっきより強い口調でディルクに言われ、ライナは萎むように肩を竦めていった。
慕っていた上官や伯父の面子を潰すことと、今の立場を失う予感が恐ろしく、また悔しくて堪らないことだろう。
「ライナ隊は本日付で解散。押収品を横領しようとした者は近衛を罷免した上で処罰する。残る隊員はひとまずほかの小隊へ振り分けろ。これはラヒアックに任せる。ライナ、君は小隊長の任を解く。そしてあらゆる任務に携わることを許可しない。私がよいと言うまで兵舎で待機するように」
騎士解任を言い渡される――そう予想していたライナと、同じことを考えていたラヒアックは二人揃って目を瞠った。
きょとんとする彼らを余所に、ディルクはもう手許の羊皮紙に目を落としている。
「殿下、あの」
「なんだ?」
「俺だけ、待機? どうしてですか? それが処分? なんで、俺だけ、お目こぼしなんて」
「お目こぼしか。いい言葉を知っている。だが、それがただではないということも覚かなくてはな」
「え……?」
ディルクは宝飾品をユニカに返すため、ティアナが持ってきた化粧箱に手ずからそれを収めていった。
「この国の近衛は甘い。君主を守る盾であり剣である近衛兵がこんなばかな真似をするなど、公国では考えられなかった」
そして、ぼそりと呟かれた王太子の言葉は、直前に放った不気味な言葉の説明ではなかった。
しかし、近衛をまとめる立場にあった二人はわずかに身せせりして反応した。言わずもがな、ディルクの言葉は彼らの神経を逆撫でするものだった。
「膿をすべて出し、排除したい。そのためには近衛の兵、特に騎士が自ら動いて貰いたいと思っている。君を処罰しないのは、正直、外務副大臣である君のお父上を敵に回したくないからだが……どうだろう、ライナ。君やラヒアックの経歴に傷がつかないよう特別な配慮をしてやりたいと思うんだが、対価は支払ってくれるだろうか?」
ぱたん、と、宝飾品を収めた箱を閉じる音が場違いなほど軽やかに響く。ディルクはその箱を脇へよけ、微笑みながら少年騎士を見上げた。
ライナはしばらく呆然としていたが、やがて唾を呑み、恐る恐る頷く。
「そうか、解ってくれてありがとう。難しいことは言わない。私とラヒアックに少し協力して欲しいだけだ。本当はルウェルに任せていたんだが、あれは宮に置いてきたから代わりが必要だったところでね」
昨夕、ライナを下がらせたあとで決めた作戦を告げると、彼は再び真っ青になった。
ライナ隊の兵がユニカのアクセサリーを盗んでいたことなど、今は毛の先ほどの問題でもない。
それより気になるのは、ライナが遂行した命令の、つまりユニカが調べられた理由だ。
命令書はやはり見つかっていないが、ライナからの聞き取りでその内容は分かった。
ユニカを陥れるための安い策。昨夕にはそう思ったが、夜の内に事情が変わった。
『私は間違いなく王家に仇をなす者』
彼女の言葉を思い出し、またぼんやりと考え込んでしまっていた。紙に押しつけたままのペン先から黒いシミが広がっていることに気づいて、ディルクは溜め息を吐き、書き損じた文字を掻き消す。
ユニカの言葉が本当で、またユニカにかけられた疑いも真実であれば、仕方がない。生きた彼女を手許に置くことは無理だろう。
それはこの先にある選択肢の一つに過ぎないはずなのに、彼女の首があの華奢な肩から落ちることを想像すると不意に思い出されるのだ。
泣きながら助けを求めて眠る、ただの寄る辺ない娘。黒檀の箱を抱き、縮こまりながら暖炉の炎を見つめていた心細い後ろ姿。
異能が宿るとはいえ、彼女はあまりにも普通の娘だった。
そしてさらに分からないのは、昨日王に渡された一枚の羊皮紙の意味。
百合の意匠の縁取りが施されたそれは、教会が発行する戸籍証書である。
ユニカのための盾である、と王は言った。彼の言うとおり、これほど強い盾はない。あらゆる謀略がこれの前に弾き返されるだろう。
だが、なぜ王はこんなものを用意したのか。
王が玉座を退く時、その命を貰う。それがユニカと王の約束であるということは、王は自分の命を狙う娘に贅沢な暮らしを与え、またこうして守ろうとしていることになる。
命乞いでもしているのだろうか。しかし約束を不服と考えているなら、異能の者とはいえ娘一人、排除することなど簡単であろうに。
また、ユニカも退位の時に命を貰うなどという時間のかかる約束をしている。
分からない。彼らは一体、お互いのことをどう思っているのだ?
考えながらまた手が止まっていた。カミルかルウェルでも部屋にいればぼんやりとしていることを指摘してくれるのだろうが、執務室にはディルクのほかに誰もいない。
自分が戸惑っていることに気づいてたディルクは、いら立ちを露わに書き損じの紙を握り潰した。
ライナが押収した物品もまとめて行方を暗ましており、ユニカにかけられた容疑の証拠がなんなのかも分からない。
トカゲの尻尾を掴んでいること以外、様々な点で後手に回っている。
ゲームは勝つからこそ面白いというのに。
早く次の鍵を手に入れて形勢を覆さなければ。
* * *
例によってユニカは昼近くに起き出した。
朝、きちんと起きるのは苦手である。エリュゼがいると無理に起こされることも多いが、朝食の代わりにお茶とヨーグルトを舐め、また昼まで寝ることもしばしば。
今日は誰にも起こされなかった。
寝台の上で身体を起こしたきり、ユニカは動こうとしない。昨晩はよく眠れず輾転としていたせいもあり、髪がぼさぼさはねているのが見なくても分かる。それを手櫛で梳き、彼女は水差しに手を伸ばす。
ユニカは昨晩のことを後悔していた。
秘密をもらしてしまうなんて。
王が玉座を退く時、その命を貰う。ユニカの血を求めてきた王が提示した対価は、彼自身の命だった。
王は、いかに賢君と謡われ、政が善く人々に敬愛されていようと、ユニカには恨みの対象でしかない。
彼は八年前、ユニカを含め王国南部の人々を見捨てた。
王が賢君であるならば、国の善き父であるならば、あの時、なぜ疫病に襲われた二つの領邦に救いの手を差し伸べてくれなかったのか。
彼と王妃がともに動き、もっと早くペシラへやって来てくれたら……。
養父も、キルルも、村の人々も、あんな死に方をせずに済んだ。
ユニカも普通の子供でいられたかも知れない。
けれどユニカは普通ではいられなかった。
家族や人々を焼き滅ぼしたのもユニカ。
都合のよい恨みだということは分かっている。けれどどうしても、中央での混乱を収めるために養父たちを切り捨てたあの男が憎くて仕方がなかった。
関門を封鎖し、罹患者ごと病を王国の南部に封じ込めると決定したのが王だと知った時、本当はすぐにでも殺してしまいそうだった。
しかし王は言ったのだ。今、王が死ねば、世継ぎは幼く、国が乱れる。
だから待て、余の治世が終わるのを。
それまで王城で、そばで待つことを許す。暮らしを保証し、自由も制限しない。代わりに治世を全うするための、ユニカに宿る癒やしの力を分けて欲しい。
これは王とユニカが、お互いに諒承し合った対等な取引。
けれど部外者の王太子は、あれを聞いてどう思っただろう。
突き放す効果は充分にあったと思う。言い捨てて寝室へ逃げ込んだユニカをディルクは追ってこなかった。
もしかしたら、ユニカを客人扱いするのをやめ捕らえに来るかも知れない。そうなったらどうしようか。
すぐにでも王を殺して……けれど、国が乱れ、人々の暮らしが壊されることはユニカの望むところではない。だから王との取引にも応じた。
しかし今はディルクという政治の分かる世継ぎがいる。目的を達成しても大丈夫かも知れない。
いや。きっと、国王の殺害を企んだ罪でユニカだけが処刑されて、それでおしまいだ。
ところが、今日は正午近くになるまでいつも通りに時が流れている。
ユニカは恐る恐る枕元に置いてあった鈴を鳴らした。
ディルクの侍女がやって来るかもと警戒したが、ノックも忘れて寝室に駆け込んできたのはフラレイだった。
「おはようございます、ユニカ様! もうお昼ですけど……朝食、いえ、昼食はどうなさいますか?」
「食べるわ。その前にお茶をちょうだい」
「はい! あ、それと」
妙に機嫌のよいフラレイは一度主室へ戻り、二つ折りにされた便箋と、封蝋で閉じられた手紙を大事そうに運んできた。
「便箋が王太子殿下からの書き置きで、封筒が国王陛下からのお手紙です」
「殿下と……」
鼓動が乱れた。昨夜のユニカの告白についての反応がどんなものか、それを想像すると怖い。
「書き置きっていうことは」
「今朝、殿下がこちらにいらっしゃいました。侍女のティアナさんが殿下とご一緒に朝食をって伝えに来てくださったのですが、ユニカ様はまだお休みでしたから。それでお断りしたら、殿下が御自らこのお部屋に」
「私を起こしに来たの?」
「というより、しばらくユニカ様の寝顔を眺めて、そのお手紙をお書きになってから出て行かれました」
「ねっ――!? どうして寝室にまで入れてしまうの!?」
「え、だって、殿下が悪夢よけのおまじないをしたいっておっしゃるから……」
それを聞いた途端、ユニカは手の甲でごしごしと瞼を擦り始める。どちらに触れられたか分からないので両方ともだ。
悪夢よけのまじないとは、至って簡単なもの。眠っている人間の瞼にキスをするのだ。このまじないに必要なのは、子や伴侶、恋人に対する愛情のこもった唇。まじないとはいわれるが本質は愛情表現の方法である。
それを! 侍女の見ている前で!?
いい加減瞼がひりひりしてきたので手を止めたが、そのまま掌で顔を覆う。
ふざけた真似をしてくれる。
だからフラレイはにやにやしているのだ。自分はディルクに名前を覚えて貰えた上、仕えているユニカに対して彼が親密な態度を取っている。もしユニカとディルクが特別な関係ならば自分にもきっとよいことがある。そう思っているからに違いない。
「私は殿下の愛人ではないの! 勝手に寝室に入れたりしないで!」
誤解は広がる一方だ。顔を洗う準備をせよと命じてフラレイを追い払うと、ユニカは腹を立てながらディルクの手紙を開いた。
『可愛い眠り姫へ』
宛名を読んだだけで便箋を破きたくなった。が、ぐっと堪えて本文を読む。
『私の侍女たちに君の世話を言いつけてあるので、なんでも命じるといい。『ロマサフ』は明日の午前に届くそうだから続きはもう少し待って。退屈だろうが外出はしないように。エリュゼが迎えに来るまで大人しく部屋で待ちなさい。君の警護のために騎士を一人つけておく』
最後まで読んで、ユニカは大きく瞬きをした。何か読み落としがあるのではないかと思いもう一度文字を追ってみる。
しかし、手紙の中にユニカの昨夜の発言に言及する文言は一つもなかった。
(話を聞いていなかったのかしら……)
そんなはずはない。彼は間違いなく驚いていた。
手紙の最後を結ぶディルクのサインを、ユニカはそっと指で撫でた。以前、本と一緒に送られて来たカードと同じ字だ。
重大な告白を聞き流されたという虚しさは少しあったが、それより、ユニカはディルクの態度が変わっていないことにほっとしていた。
突き放すために言った言葉だったし、彼が何ごともなかったようにしていることは不可解ではあるけれど。
次にユニカは、王からの手紙の封蝋を割った。こちらの手紙もさして長くはない。いつも通り簡潔に書かれている用件は二つ。
昨日、西の宮へ近衛兵が捜査に入ったいきさつはまだ分かっていないことの報告。そして、午後からユニカに来客があることだった。
二つ目の用件を読んだ時、ユニカは無邪気な子供のように目を輝かせた。寝起きの気怠さは一気に吹き飛び、彼女は嬉しさに頬を紅潮させて寝台から飛び出す。
来客はあるが、会うのは日を改めてからにし、今日は東の宮を出ないようにという言葉で手紙が結ばれているのをすっかり見落として。
「フラレイ、食事が終わったら出かけるわ。その支度も、」
弾んだ声でそう言ったユニカだったが、食事の準備で動き回る侍女たちの真ん中、つまり食事が並べられていくテーブルに既に座っている男を見つけ、彼女の言葉は不意に途切れた。
「外出するなってディルクの手紙に書いてあっただろ。つーか起きるの遅い。もう昼だぜ、お姫様」
頬杖をつき、不機嫌に唸るその男とは面識があった。図書館にてユニカが本でぼこぼこに殴った近衛騎士である。
うっと息を呑んだユニカを睥睨し、ルウェルは退屈そうに大きな欠伸をした。
* * *
カミルが怪我の休養から復帰しないので、王太子から各部署への伝達物を届ける仕事はティアナがやっている。
ドンジョンの勝手はよく知っていた。お遣いを終えたティアナは不自然ではない程度に方々へ寄り道し、官吏たちの様子を見ていく。
西の宮で起こった変事について、文官たちの間にはまだ情報が流れていないようだ。まあ、話が漏れていくのも時間の問題であろう。
昨夕の呼び出しのあと、兵舎でライナがローデリヒに掴みかかって騒ぎを起こしたそうだ。近衛隊の中では、昨日何が起こったのか察した者もいるのではないだろうか。
これはティアナと同じ王太子付きの侍女であるクリスタが、朝の内に恋人の近衛騎士から仕入れてくれた情報だった。
そろそろディルクのところへ戻り昼食のお世話をせねば。そう思ってティアナは主の執務室へと足を向ける。
廊下を曲がったところで、前方から彼女の上司にもあたる侍従長ツェーザルが歩いて来るのが見えた。
誰かを伴っている。この道を通るということは王のもとへ案内するのだろう。
黒い服を着ている。あれは僧侶の法衣だ。濃紫に金の縁取りのサッシュを着けているということは、高位の伝師。導主ほどの高僧直属かも知れない。王に接触しようとする教会の人間は、誰だ?
確かめておいて損はあるまい。伝師の名はあとで聞いてまわれば分かる。まずは顔を覚えておこう。
ティアナはやって来る彼らに向けて頭を垂れていたが、二人が通り過ぎる瞬間、咎められない程度のタイミングで顔を上げ、法衣をまとう男をさりげなく確認する。
そして再び顔を伏せるつもりだった。
しかし、ティアナは伝師のかんばせを見た瞬間息を呑み、顔を伏せることを忘れて思わず呟いた。
「――先生?」
ぴたりと、伝師の足音が止んだ。
彼は怪訝そうに眉を顰めて振り返り、まだ呆然としたままでいるティアナをじろじろと見つめる。
その目つきは彼女が想像していた優しい眼差しにはほど遠く、疑りを露わにした冷たいものだった。しかし瞳の色は、ティアナがよく知る深くて鮮やかな緑色。
「ティアナ」
ツェーザルに咎められ、ティアナは慌てて腰を折った。
「申し訳ございません。失礼いたしました」
客人を連れているので、ツェーザルは足早に立ち去るティアナを呼び止めることはしなかった。それ幸いといわんばかりにティアナは次の角を曲がると走り出した。
あの場から十分離れると、彼女はようやく立ち止まってどくどくと波打つ胸を押さえる。
驚いた。いや、驚いたどころではない。
黒髪に、緑の瞳の、あの容姿。最後に会ったのは十年以上前のことだが、忘れるはずもない。幼い頃の初恋の、憧れの君のものなのだから。
しかし、アヒムは死んだはずである。
「失礼いたしました」
「別に。ティアナというのは彼女の名前ですかね」
謝罪し、再び歩き出した侍従長について行きながら、男は侍女の消えた曲がり角を振り返った。
『先生』と呼ばれたことを気にしているようだ。
「ええ。王太子殿下付きの侍女をしている娘ですが、お知り合いでしたか」
「ティアナ、ティアナ、聞いたことがある気もするけど、珍しい名前じゃないからな。家の名は?」
「イシュテン伯爵家でございます。代々宮廷医をしている家系の」
「宮廷医……? ああ、なるほどね。〝あの〟ティアナか。それで『先生』。分からないものだな、すっかり娘らしくなって」
一人納得し、くつくつと笑う伝師をちらりと振り返り、ツェーザルはどういう意味かと無言で問いかける。
相手はその視線に気づかなかったようだ。侍従長は答えを求めるのをあっさりと諦めた。
ただ、厄介な時に厄介な客人が『天槍の娘』を訪ねてきたと思いながら、彼は伝師を王のもとへ案内した。




