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天槍のユニカ  作者: 暁子
第2章 籠の中の争い
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4.見えない流星(2)

 美味しいと思ったのは最初のキッシュだけだった。あとは何を食べたのか思い出せない。


 ディルクがずっと気遣わしげな眼差しで見つめてきていたことは知っていたが、ユニカは頭の中を巡る大好きだった人々の記憶に打ちのめされていた。


 もうここにいない人たち。ユニカの手から零れ落ちた幸せな時。


 それらが〝今〟に結びつくことはないと思っていたのに。


 暖炉の前のソファに戻ったユニカは、切なくてもどかしい思いに胸を締め付けられながら黒檀の箱を抱いた。


 養父アヒム、そして亡き王妃クレスツェンツ。彼らに繋がるものがあるのは懐かしくて嬉しい。けれど同時に、もう彼らに触れられないことを思い出す。


 どうしていいのか分からなくなる。せめて過去の温もりに近づこうと彼らの形見を強く抱きしめることしか出来ない。


「どうぞ」


 声を掛けられ、ユニカは瞼を持ち上げた。目の前には暖炉の火を透かした透明な葡萄酒が差し出されていた。手の主はまだ部屋を立ち去ろうとしないディルクだ。


「これは?」


「葡萄酒だよ。少々曰く付きだが美味いんだ。飲んでみないか」


 ブリュック侯爵家が治めるタールベルク領邦の葡萄酒である。登城禁止の処分を言い渡された新当主は、ディルクの機嫌を取るため彼が一度「美味しい」と褒めた葡萄酒をはじめ、様々な品物をしつこく贈り続けてきていた。


 興味のないものは送り返しているが、この葡萄酒を気に入ったのは事実だったので、ディルクは何の反応も示さず自分の懐に納めている。見返りを与えてやる予定は今のところない。


 そんなことを知らないユニカは、〝曰く付き〟というところに引っかかりを覚えながらも杯を受け取り、香りを確かめてみる。甘く爽やかなよい香りではあるが……。


「お酒は、あまり」


「飲めない?」


「前に飲んだ時は、美味しいと思いませんでした」


 クヴェン王子の葬儀の際に口にする機会があったけれど、濃厚な赤紫の液体は薄暗い葬祭堂の中では血にも見え、また渋くて辛いばかりで、一口含んだだけで飲みくだすのもやっとだった覚えしかない。


 これはその時の葡萄酒と違い、淡い黄色で香りもとても優しいけれど。


 ユニカは杯を返そうとするが手を押し戻される。


「試してみなさい」


 そう言う彼も杯と瓶を手にしており、自分の分を注ぎながらユニカの隣に腰掛ける。


 なぜ隣に座る、と思いながらも、ユニカは杯の中身を少しだけ舐めてみた。


「どうかな」


「酸っぱい、けど、甘いような……」


 確かめるようにもう一口啜るユニカを横目に、ディルクは満足げに自分の杯に口をつける。


「さっきの質問の答えを聞いてもいいか?」


「質問?」


 さっきのと言われても、どの問いのことを言っているのか分からなかった。


「君の名前をつけたのは誰なのかと訊いただろう?」


 ユニカは緊張しながら、すぐ隣の青年の顔を見上げた。


「そんなに重い問いかな、これは」


 ユニカの強張った表情にディルクは困惑したようだった。


「私から訊いてばかりなのもよくないな。なら、君は興味がないかも知れないが私のことも話そうか。私にも育ての親がいたんだ。ディルク・ヴェッツェルという名前は彼につけて貰った」


「彼……?」


 〝彼〟ということは、ディルクの言う育ての親も〝父親〟だろうか。


 ユニカの表情から少なからず警戒の色が消える。黒檀の箱に添えた手にはわずかに力が籠もったが、彼女は続きを促すように青い目を大きく開いてディルクを見つめ返してきた。


「君主の子は臣下に育てられるものでね。私の後見は、シヴィロ王家に所縁のある公国の侯爵がついてくれた。学問も武術も馬術も彼に習った。五つか六つになる頃までは彼のことを本当の父親だと思っていたんだが、違っていたらしい」


「大公殿下がいらっしゃるのに。父君がお二人いると思っていらしたのですか?」


 幼子の勘違い。そういう可愛らしい思い出話だと思って、ユニカはついくすりと笑った。


 しかしほんの一瞬、ディルクの笑みが引き攣れる。いや、見間違いだろう。彼はすぐにおどけた表情で肩を竦めて見せた。


「周りの子供たちにも、複数の従者や男の教師が付き添っているところを見ていたからな。きっとどの家にも父親は二、三人いるものなんだろうと思っていた」


 ふうん、と相槌を打ちながら、ユニカは複雑な気分だった。ユニカには、そんな可愛らしい勘違いをしていた思い出はない。


 君の両親は亡くなってしまったから、私が今日から君の父になる。養父にはそう言われた。あるのは少し悲しいが温かい、そんな出会いの記憶。


「殿下の育ての父君は、今も公国にいらっしゃるのですか? こちらへ来ていただけばお心強いのでは。殿下は軍のお仕事に就かれたそうですし」


「もう子供じゃないんだ。初めての土地は心細いなんて言ってもついてきてくれなかっただろう。彼が生きていても」


「……そうでしたか」


 あまりに自然な表情で切り出された話だったので、ユニカはディルクの言う後見人の貴族が鬼籍の人だと思わなかった。自分から作ってしまった気まずい雰囲気に耐えきれず、息を詰めて縮こまる。


 その様子を見てディルクは苦笑しながら項を掻いた。


「いや、こういう暗い話をしたかったわけじゃないな。ただ君の名前の話を――」


「失礼いたします」


 食器を片付けた召し使い達が出て行ったところだったが、ティアナ一人がとって返してきた。彼女の後ろから二人の人物が連れだって入ってくる。


 侍従長ツェーザルと、小さな杯に血抜きの針、火酒の瓶を持った医女だった。それに気づいたユニカの表情はますます強張った。


「殿下、感心いたしませんね。夜も更けてきたというのに女性のお部屋にいらっしゃるとは」


「一緒に食事をし終えたところだ。お前こそ何をしに来た?」


「陛下のお使いにて、ユニカ様にご用が」


 若い侍従長はディルクに事務的な笑みで応えると、許しを得ようともせずにユニカの正面へと歩いてきた。炎の作り出したツェーザルの陰が無言でユニカを覆う。一礼すると、彼はその場所を医女のために空けた。


 医女は緊張した様子でユニカの前に屈み、火酒を染みこませた綿を取り出す。


 いつもの儀式だ。ユニカも黙って手にしていた杯と黒檀の箱をテーブルに置き、左腕を差し出した。


 が、その袖をまくり上げようとした医女の手をディルクが押さえた。


「ツェーザル、今日はやめておかないか」


「私が決められることではございません」


「ユニカはけがをしている」


「それは存じませんでした。どちらを?」


 尋ねられてもユニカは答えなかった。代わりに、ディルクが半ば強引にユニカの右手を掴み、包帯が巻かれているのを見せる。


「お身体の具合もお悪いのでしょうか」


「いいえ、問題ないわ」


「ユニカ」


 彼女は叱るように声を低くしたディルクの手を解き、自ら左腕をまくって肌を露わにした。


「陛下とお約束したことです。殿下は口を挟まないでください」


 当人にそう言われるとディルクは押さえていた医女の手を放すしかない。火酒で清められたユニカの肌に、銀色の針が刺さるのを苦々しい顔で見守る。


 血を採り終えた医女が立ち上がると、再びユニカの前にはツェーザルが立った。


「本日は、近衛隊の中で出どころの分からない命令が遂行されてしまったこと、陛下は大変遺憾なこととお考えです。ユニカ様にはご不快な思いをなされましたでしょう。代わってお詫びいたします」


 ツェーザルは誰に代わって詫びているのかはっきりと言わなかったが、ディルクは不快に思いながら王の側近を睨んだ。


「この件は近衛長官である王太子殿下に調査が一任されました。つまり、何者が西の宮への捜査を命じたのかまだ分かっておりませんので、ことの次第が明らかになるまで、ユニカ様は西の宮にお戻りにならぬようにとの陛下からのご命令です」


「心配しすぎではないかしら」


「ご命令です」


 気に障るほど柔らかい口調と表情で、ツェーザルは反論を許さなかった。ユニカもそれ以上は言い返さない。


「殿下には、一刻も早い本件の解決を期待します」


「分かっている」


「頼もしい限りです。それではお二人とも、お休みなさいませ。殿下は、必ずご自分のお部屋にお戻りくださいね」


 ディルクが首肯するのを見届けると、侍従長はゆったりと微笑み直して医女とともにその場を去った。ティアナは二人のために淹れてきたハーブティーをテーブルの上に置いていく。


 ユニカは袖の上から針を刺された場所をさすった。


 大丈夫、もう痛くはない。けれど。


 ディルクが席を立ったと思ったら、どうやら出ていったのではなくハーブティーを取りに行ってくれただけらしい。甘い香りを漂わせて彼はユニカの隣に戻ってくる。


「私の名は、私の生みの親がつけました。父か母か、それは分かりません。私も、誰も覚えていなかったし、知りませんでしたから」


 ユニカはカップを受け取り、口を開いた。


「女神の名などつけたから、私にはこんな力が憑いたのだわ」


 ディルクは何か言葉を返そうとしたが、すかさずユニカは続ける。


「でも、大切な人たちが呼んでくれた名前だから、嫌いではないの」


「……美しくてよい名だと思うよ。君によく似合っている」


 渡されたカップの水面を見つめながら、ユニカはふっと笑った。ディルクの言葉が嬉しかったのか、自嘲したのかは分からなかったが、ディルクは初めてユニカの本心を聞いた気がした。


「ユニカ」


 何気なく、彼女の名が口をついて出る。


 呼びかけたつもりはなかったのだが、当然ユニカはディルクを見つめ返してきた。


 愛をこめて名を呼んでくれた人々がいても、やはり過去を思い出すのは辛いことなのだろう。青い瞳は涙をまとって、暖炉の明かりを弾くように潤んでいた。


 いつもなら相手の心をくすぐる台詞をすぐに思いつくはずのディルクだったが、深い闇の色を湛えた眼に思考を封じられる。


 一瞬戸惑い、言葉に迷った挙げ句、ディルクはユニカから視線をそらすことしか出来なかった。


「陛下とした〝約束〟というのは?」


 代わりに口をついて出たのは核心とも言うべき問いだった。ほころびかけていたユニカの表情が、またもとのように引き攣る。


「気に障る話題ばかりで悪いな。だが、私も知っておかねばならない。もし陛下のご体調が悪いために君の力を求めているのだとしたら主治医たちと協議しなくてはならないし、治療によって君が血を流す必要もなくなるかも知れないだろう」


「陛下の今のご体調など私が知っているはずがないでしょう。でも、どこかお加減が悪いのかも知れませんね」


「だとしたらおかしい。君の血に他者の命を救う力があるのは本当のようだ。ならば陛下のご不例はなぜ癒えない?」


「さぁ。私の血も万能ではないようです。……王妃様は亡くなってしまったわ」


「王妃様? クレスツェンツ様にも、血を?」


 ユニカは肯定しなかったが、否定もせずにハーブティーを啜る。


 これは「肯定」の反応だなと思いながら、ディルクも彼女に倣ってお茶を飲んだ。


「陛下のご体調も悪いとしたら、それも癒えていないということか……。エイルリヒは確かに助かったのに。まさか、譲位の話をなさるのはそのせいなのか……?」


 ディルクの独り言を聞き、ユニカはひくりと肩を振るわせた。


「譲位?」


「ああ、十年内にはなどとおっしゃって――」


「十年」


「しまった、これは誰にも言わないでくれ」


「ご心配なさらなくて結構です。私はその十年を待っているだけ、誰にも吹聴するつもりはありませんわ。殿下が国をお継ぎになった時には、もう私はこの城におりませんし」


「どういう意味だ? 待っているとは、何を?」


「質問ばかりなさいますね」


 鬱陶しげに吐き捨て、ユニカはカップのお茶を一気に干した。そして黒檀の箱を抱え、話はこれまでと言うように立ち上がる。


「そうだな。だが、これで分かるだろう? 私は確かに『天槍の娘』のことを色々と知っている。けれど君自身のことについては、まだ知らないことがたくさんあるんだ」


 ユニカを引き留めようとディルクが彼女の指先を遠慮がちに握っていた。


 ユニカはその手を払って、思い出の詰まった箱を両腕で抱きしめた。熱心なディルクの視線が心の隙に忍び込んでくるような気がしたからだ。


 思い出を盾に、ユニカは不思議な色の眼差しから目をそらした。


「『天槍の娘』は『私』です。おかしなことをおっしゃっているわ」


 どこか悲しげな目で、ディルクは縋るように見つめてきた。


 どうしてそんな顔をするのだろう。わけが分からなくていらいらする。


 お礼を言おうと思っていたのに。こんなことを言うつもりではなかったのに。


 ユニカは唇を噛みしめる。


「陛下とは、玉座を退く時にお命をいただく約束をしているのです。その日まで、血と引き替えにそばで待たせて貰っているの。私は間違いなく王家に仇をなす者――だから、軽々しく関わろうとなさらないでください」



* * *


 

 王の居室へ戻ったツェーザルは、医女から受け取った血の杯をユグフェルトの前に差し出した。


 彼はいつものごとく無言でそれを受け取り、書きものをやめて立ち上がる。


 背後にあった窓へ向き直り、寒さを防ぐための分厚いカーテンを引いて、硝子も凍りつく窓を開けた。


 流れ込んでくる冷気が風になって部屋の中をくるりと廻る。


「もし、あの娘にかかる疑いが真実であったなら、どうなさいますか?」


「あり得ぬ」


 机の片隅ではらはらとめくれる紙を振り返り、ユグフェルトは吐き捨てた。


「あれは、余の頸以外に関心はない」


 言い終わらぬ内に、ユグフェルトは窓の外へと手を伸ばした。


 彼の指先に支えられている小さな杯。降り続ける雪のひとひらが、赤黒いユニカの血の中へと落ちて、溶ける。


 消えた結晶を地に降り積もった雪の中へ還すように、王は杯を逆さまにした。


 闇の中、ユニカの血は砕けるように風に散っていく。


 盾はディルクに託した。


 猶子にした甥の思惑は未だ分からないが、ユニカを守ることに関して彼は協力してくれるはずだ。


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