1.レセプション(3)
「見ましたか、陛下のあの目つき。僕を見るのと兄上を見るのとであまりにも温度差がありませんでしたか? 陛下と血が繋がっていなくても、僕は父上の代理として兄上に付き添ってきたんですよ? 義弟の代理ですよ? 大公の代理ですよ? 信じられない、あんなにあからさまな差別をするなんて。……くそじじぃめ」
王に拝謁し、昼食を終え、もうじき始まる儀礼に備えてディルクとエイルリヒは控えの間にいた。ディルクは爪でテーブルを叩きながら式次第の確認をし、喚いているエイルリヒを無視している。しかし最後の一言は聞き捨てならない。
「エイルリヒ、やめろと言ってるだろ。聞かれたらどうする」
「心配ありません。マティアスがそこに立っています」
唯一の扉を塞ぐように、黒ずくめの侍従が控えている。彼は〝耳がいい〟ので、扉の向こうに人が接近すれば気づく。動かないし喋らないということは誰もいないのだろう。
「あれは王の態度ではありません。肉親を亡くして偏屈になった寂しいご老人の態度です。裏で僕や父上の悪口を言うならお好きにすればいい。こっちだってそうしてやるのですから。でも、人前でああも冷たくされてにこにこしているしかなかった僕の悔しさが、分かりますか!?」
身を乗り出してくるエイルリヒに温い視線と溜め息を返し、ディルクは首を振った。
言うものの兄の共感など求めていなかったエイルリヒはディルクの反応も最後まで確かめずテーブルの上で握った拳をぶるぶると震わせる。
「許せない、帰るまでに同じ目に遭わせてやる、くそじじぃ」
彼の主張は、どうしても『くそじじぃ』という、またしても卑俗な言葉に落ち着くそうだ。
「陛下はまだ『爺』といえるほどのお歳じゃないぞ」
「関係ありません! 顰め面で口髭が似合っているんだから充分老人です!」
「お前の理屈は本当に自由だな」
特に王を庇うわけでもないが、ディルクはさすがにそこまで言う気にはなれない。ついさっきが初対面だったが、実の伯父である。世継ぎに指名するはずだった息子を喪った彼は温かく甥を迎えてくれた。
ディルクの母はシヴィロ国王の妹にあたる王女だった。二十数年前、彼女は当代のウゼロ大公へ降嫁しディルクを生んだ。それ以来、ディルクはもちろんのこと、母もシヴィロ王国の土を踏んだことはなかった。
シヴィロ王国はおよそ三百年前に建国し、ウゼロ公国の建国はそれに遅れること八十年。四代国王の王弟が臣籍に下り、大公位と領国を与えられたのが公国の始まりだった。そのような歴史から、ウゼロ大公はシヴィロ国王の臣下の一人であるとされる。
大公家は王家の門葉であり、両家は頻繁に血を交え、シヴィロ王家に後継のいないときにはウゼロ大公家の最も重要な子、嫡子を、世継ぎとして王家に迎える取り決めをした。
この度のディルクの王家入りは、その三例目である。およそ百二十年ぶりの出来事だそうだ。
王とディルクの対面に列席した大貴族達の様子を見ると、各々が少なからず動揺しているようだった。貴族に限らず王城の中に勤めるあらゆる地位の者達は、突然舞い込んできた隣国からの風をどう扱えばよいか分からず困惑していることだろう。
恐らく、〝彼女〟もまた。
「それにしても、さっきのあれは惜しかったですね」
「ストールの落とし主のことか?」
「この城に入って、ほかに面白いことがありましたか?」
「まだストールを落とした彼女が『天槍の娘』だとは確認出来てないだろう」
「いいえ、違いありません。あれは王の寵愛を受けている者に相応しい品でした。そういえば、ストールを取りに来た娘は落とし主ではなかったんですよね?」
エイルリヒにも言わなかったのだが、ディルクの様子から彼はそのことを察していたようだ。
ストールを受け取りにきた娘と、窓辺に現れたあの娘は違う。髪色や年齢などの外見は確かに似ていたが、衣装の色も違うし、なにより女官の娘からはストールに染みついている香りがしなかった。
「まあ、王家の財で養われながらあの平凡さでは、天槍の謂われが真でも偽でも失望します。どう見てもその辺にいる貴族の娘でしたからね。きっと、〝彼女〟からはもっと特別な気配がするはずです!」
「お前、今日は本当にはしゃいでるな……」
いつも以上に一言も二言も多い弟に呆れ、ディルクはエイルリヒから身体ごと顔を背けた。
「それで、一瞬見えた〝彼女〟はどんな娘でしたか?」
背を向けた兄の背中に取りつき、まるで幼い子供のようにディルクの肩に顎を乗せるエイルリヒ。
「なかなか美人だった」
「兄上……それはいいんです。ちゃんと娘の特長は覚えていますか?」
「覚えてるさ」
肩口に乗っていたエイルリヒの頭をわしわしと掻き回して追い払うと、ディルクは式次第を置いてテーブルに広がっていたもう一枚の紙を眺めた。
「会えば思い出す」
「……それを覚えているとは言いません」
「大丈夫。なかなか強烈な瞳だった。会えば、すぐに分かるよ」
「はあ。女性に関するアレコレは兄上の方がうんと経験豊富で確かでしょうからお任せしますけど」
事前に入手してあったおおまかな城の見取り図を覗き込み、ウゼロの公子二人は報告の入って来た場所に印を付けていった。
「王子の近くには住んでいなかったようですね。当然ですが」
「あと確認していないのが、このあたりか」
高い丘をまるごと城壁で囲ったエルメンヒルデ城。その中心部は内郭と呼ばれ、主要な儀式を行う大広間や大小の議場、各大臣らの執務室があるドンジョンと、王族の住まいである三つの宮殿に分かれていた。東西にある宮殿の内、西の宮にくだん娘はいると思われる。
西の宮とドンジョンの間には図書館や大庭園、温室など王家のプライベートな空間が作られているため、廷臣はその先へ入り込めない。秘密を隠すにはうってつけの場所だ。
ディルクの入城とともに潜り込んだマティアスの部下たちは、次にそこへ向かうと報告していった。
「あとは確認を取るだけ。〝迷い込む〟のは簡単そうだ」
ディルクは『図書館』と書かれた建物、そして周辺に広がる庭園を指でなぞる。
王は王家の空間を使い、政治の行われるドンジョンと彼女を隔てて守ってきたようだ。
しかし、この防衛線が通用するのは廷臣に対してのみである。今夜には国王の猶子となるディルクが西の宮に近づくのはあまりにも簡単だった。図書館へ行く道を間違えて宮殿に迷い込めばいい。
「お時間のようです」
呟くようにマティアスが言った直後、控えの間の扉を叩く音が響いた。
見取り図を静かに畳み、エイルリヒが懐にしまう。
ディルクは口許を笑みで歪め、長い上着の裾をさばいて立ち上がった。
その日、シヴィロ王国は無事に世継ぎを得た。
* * *
「クヴェン殿下がお亡くなりになればすぐにでも動くかと思っていたが……あの娘、王妃の座ではなく太子妃の座を狙っていたか」
蜂蜜と香辛料を混ぜた温かい葡萄酒の香りが部屋に充満していた。互いの顔もよく見えないたった一つの蝋燭の灯りに集い、彼らは話し合っている。
「ディルク様はすぐにお妃をお探ししてよいお歳。自分が目に留まればと考えるのは、あの年頃の娘ならば当然考えることでしょう」
「貴卿のご息女もそうであるように?」
控えめな笑い声が細波のように揺れる。しかしそれが静まったあとの沈黙はより重いものとなった。
「無系の娘とはいえ、両陛下がご養育遊ばしたとあって着飾り方はよく知っておる」
「着飾る道具も知恵も陛下がお与えになるから……」
「囲うならせめて城の外にしてくださればよいものを。早速あの娘は殿下の気を惹こうと現れて、」
「殿下のご入城から含めて立儲の儀礼であろう。女官と無系の娘ごときが近寄れる隙を潰しておかぬとは、貴卿の怠慢ですぞ」
「なんと! 本日の件は番兵の統率がなっておらぬが原因でしょう」
「その件の追求は、もうよいと陛下が仰せではありませんか」
「今肝要なるは、新しい王太子殿下があの魔女に陥れられる前に、魔女を〝遠くへ〟やることです」
力みながらささめきあっていた男たちはぴたりと黙りこんだ。不穏な何かを感じて葡萄酒を飲む者もいる。
「しかし、あらゆる毒が効きませんでしたな」
「いずれも体調は崩していたようだが」
「三日寝込むだけで回復されては意味がない。どころか、忌々しいことにあの娘の血は陛下が口になさる。下手をすれば陛下の御身にも危険が」
言った者は後悔しながら自分の杯を眺めた。薄闇の中で赤黒い液体が血に見えたのである。
吐き気を催している彼の隣の男が、決意して一つ頷いた。
「やはり心臓を貫いてしまうのが一番よい」
「しかしそれでは、」
「天槍に焼かれることを恐れぬ同志はおりますぞ」
あの娘が、一夜にして数百人を灰と炭に変えたという事件は、わずか八年前のこと。
『天槍に焼かれる』。それは決して古い記憶ではない。彼らは一様に息を呑んだ。
「西の宮へ近づくことになりますな。根回しを重ねる必要があるのでは」
「そのような時間もない。殿下が娘に接触する前に、王城から消し去るのです。そのために誰かが死ぬことになろうと」
自分たちでなければ、それでよいのだ。