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天槍のユニカ  作者: 暁子
第2章 籠の中の争い
35/62

2.追想の場所(1)

「見違えたぞユニカ! なんて可愛らしい!」


 王妃は、夏の陽射しのように明るく笑う人だった。


 巻き髪を高いところで一つにまとめている彼女の姿は凛として力強く、ユニカに向けられる屈託のない笑みにはいつもあたたかな慈愛が滲んでいた。


 初めてユニカを見た時、彼女は手放しで喜び、煤で汚れていたユニカを風呂に入れ、ゆったりとした子供用のドレスを着せてくれた。そして呆然としたままのユニカを化粧台の前に座らせ、高価な薔薇の香油を染みこませたブラシで丹念に髪を梳かしながら、少しも表情を変えることのない人形のような少女に辛抱強く語りかけ続けた。


「お前は薔薇の香油などつけなくても、不思議なよい匂いのする子だね。アヒムの手紙にはお前の自慢話ばかり書いてあった……会えて嬉しいぞ、〝アヒムの可愛い娘〟」


 王妃クレスツェンツが、ユニカにとって二人目の親である。


 出会ったのは、疫病で混乱を極めるシヴィロ王国は南部、ビーレ領邦の都ペシラの太守館でだった。


 王妃が生きていた頃、彼女がユニカの支えだった。


 王妃はユニカを王城に迎え、自ら教師となって、貴族の子女と同等の教養を与えるべく様々なことを教えてくれもした。


 彼女は多忙だったのでともに過ごした時間はそれほど多くはないけれど、亡くなった養父のことをよく知り、ユニカの名を優しく呼んで慈しんでくれたクレスツェンツは、ユニカにとって紛れもなく〝母親〟だった。







 涙を堪えようとすればするほど頭の中が熱くなり、ユニカの鼓動が乱れるのに合わせて周りでぱちぱちと稲妻が弾けていた。


 半地下の冷たい岩の廟の中に並んでいるのは、歴代の王とその正妃たちの冠である。王族は、死後アマリア郊外にある葬祭堂の地下王墓に埋葬されるが、歴代の君主とその正妃が生前に被った冠は王城内の廟に保管されていた。


 最奥にある二つの冠が初代国王と王妃のもの。手前にある冠ほど新しい。


 ユニカは祭壇から一番近いところにある王妃の冠の前で泣いていた。


 自分はこの城にいてはならない者。無為に王家の財を食み、王の名誉を汚す者。


 分かっている。誰から攻撃されても、蹂躙されても仕方がないことだ。だからユニカは何も感じないふりをして傲慢に振る舞っているしかない。


 しかし、分かっていてもユニカの砦はそれほど堅固ではない。


 近衛騎士の乱暴で容赦のない振る舞いに虚勢を張っていられなくなったユニカは、ここへ逃げてきた。


 たった一年前に亡くした、この血で救えなかった人の温もりを求めて。


 

     * * *


 

 クッションの効いた椅子に身体を沈めるようにして座るクレスツェンツ。拍子を取る彼女の手は骨と皮だけになっていた。


 座っているのも辛いはずなのに、彼女の表情は明るく、ユニカが扇と薄絹のストールを振って踊る姿を楽しげに見ている。


 しかし、肌の色は見る者をぞっとさせるほど青白くくすみ、艶のあった巻き髪も見て分かるほどにぱさついていた。


 ユニカは最後にひらりと扇を翻し舞を終える。すると広間にはクレスツェンツの弱々しい拍手だけが響いた。


 ユニカは王妃のもとへ駆け寄り、穏やかに笑う彼女の脚に縋りついてうずくまる。そんなユニカの髪を、クレスツェンツは満足そうに撫でた。


「さて、どこで披露しようか。この夏の大霊祭で、王城の舞手に混じってみるかい? きっと皆、舞踏の女神ヒイレニアが舞い降りたと驚くに違いない」


 クレスツェンツの膝に顔を埋めたまま、ユニカは激しく首を振る。


「恥ずかしがり屋だこと」


 くすくす笑う王妃の声が、ユニカは我慢ならなかった。どうして笑うのだと怒りがこみ上げてくる。


 髪を撫でてくれる王妃の手にはかつてのような瑞々しさがまったくなくて、その手に撫でられると、彼女の命がもはや残り少ないことを思い知らされる。


 このまま黙って泣くのを堪えているだけでは、二人目の大好きな養い親が死んでしまう。


 ユニカは意を決して顔を上げた。滲んできた涙をぬぐい、クレスツェンツをきっと見上げる。


 クレスツェンツは首を傾げながら、やはり笑っていた。ユニカの涙の理由を知っているだろうに。


「王妃様、どうかお願いです。私の血を飲んでください」


「何を言い出すのかと思えば……そんなことを出来るものか。友から預かった可愛い娘に傷をつけるなんて」


 クレスツェンツは困惑に表情を歪め、左右に首を振った。


「私の傷なんてすぐに治ります! 王妃様のご病気だって……!」


 ユニカは堪えきれなくなり、手と同じように痩せ細ったクレスツェンツの脚に顔を埋め、ついには泣き出してしまう。


 毅然としていなければ王妃は説得出来ない。そう思っていたのに、予想通り彼女に提案を拒まれたらとても我慢出来なくなった。


 二人目の親が死ぬ。目前に迫ったその事実がひたすら恐ろしく、悔しくて。そしてそれを食い止める力がユニカにはあるのに、クレスツェンツはユニカのためよと言ってこの手をとってはくれない。

 大好きな人が、また目の前で死んでしまう。


 クレスツェンツの前でさえなかなか素直に感情を吐露出来ないユニカが、声を上げて泣いている。


 そんな少女の様子に戸惑う自分に苦笑しながら、クレスツェンツは何も言えずにユニカの髪を撫で続けていた。


 王妃クレスツェンツは一昨年から体調を崩していた。季節に関わりなく彼女の病状は悪化し、医官たちの治療も虚しい。固形の食べものを受け付けられなくなってから、その衰え方はますます顕著になった。


 時折吐血し、意識をなくすこともあった。病の原因も分からないまま、今では激しく身体中をさいなむ痛みを抑えるための薬だけを処方させている。


 今や、クレスツェンツの命を保たせているのは彼女自身の気力だけだ。


 困ったことに、王妃の病は施療院で伝染(うつ)されたのではないかという噂が貴族の間に広がっていた。


 このまま自分が死ねば、施療院はやはり病の巣窟であるという印象が貴族に植え付けられてしまう。彼らの賛同がなければ国庫から施療院へ資金を出すという法が維持出来ないし、貴族からクレスツェンツを通じて施療院へ寄せられる寄付の金額も大きい。


 両方が絶たれたら、これまでに整えてきた施療院の体制が破綻してしまう。


 そして何より、クレスツェンツが求めたのは貴族や民の垣根を越えた理解……弱い者を皆で助けるという、新しい仕組みの土台となる人々の心だった。施療院を敬遠されるのは、彼女の事業にとって最も大きな痛手となるのだ。


 だからクレスツェンツはまだ死ぬわけにはいかなかった。これからも彼女が事業の先頭に立っていなければならないし、強く健常な者が弱った者を扶助する姿を見せ続けねばならない。


 この抵抗がいつまでも続けられるものではないと分かっていても。


 死を逃れるための方法は、目の前に一つだけある。しかし、クレスツェンツがそれを選ぼうと思ったことはほんの一瞬たりともない。


 人の生死の選択を、この娘が迫られることのないように守って欲しい。


 それが最愛の友から送られてきた最期の願いだったのだから。


「自分を大切におし、ユニカ。お前は普通の娘。アヒムはそう思ってお前を二年間育てた。あとを託されたわたくしも同じだ。お前の血に癒やしの力があったとしても、それがお前を傷つけることでしか得られないものなら、わたくしはいらない。陛下に血を差し出すのももうおやめ。そんなことをしなくても陛下はお前の故郷のことを忘れはしないよ」


 その言葉がユニカの心を抉ったことに、クレスツェンツは気がついていなかっただろう。


 クレスツェンツがユニカを引き取って以来、彼女と王が様々なところで衝突するようになったことを、ユニカはなんとなく知っていた。原因は、きっとユニカだ。


 ユニカが王城へやって来た直後、王は、まだ悲しみと混乱から立ち直れていないユニカに癒やしの血を求めた。これは主治医たちにも悟らせていなかったことだそうだが、八年前のあの夏、疫病とはまったく別のところで王は体調を崩していたのだ。


 そして彼は疫病の収束とともにもたらされたユニカの力に縋りついてきた。十の子供に理解できるはずもない政治的な話を引っ提げて。


 二歳の世継ぎには国を治められないこと。南に隣接する国トルイユがウゼロ公国の金鉱脈を狙い、シヴィロ王国とも緊張が高まっていること。疫病のせいで南部の海運業が大打撃を受け、それを立て直すための政策に打ち込まねばならないこと。


 そして彼は血の代償に、将来自分の命を差し出すと約束した。


 クレスツェンツは二人の約束に異を唱えた。国を担う王の体調は重要である。しかしそのために、こんなに小さな子供を犠牲にしてはならないと。


 それでもユニカは王に血を差し出すと決めた。代わりに、王の〝治世の終わり〟を貰う約束をして。


 クレスツェンツは悲しんでくれた。でも、ユニカは憎しみを晴らす機会が欲しかった。そのために、ユニカは黙って針の先に己の肌をさらす。


 決めたのはユニカ。だが、提案し、選択を迫ったのは王。


 あの出来事が、王と王妃、二人の良好な関係に影を落としたことは、ユニカにも察しがついた。


 二人は常に互いの政治を支え合ってきたのに、ユニカのために彼らの間の何かがずれたのだ。


 ああ、本当に、私という存在はどこにいても、誰のためにもならない。


 それどころか、そこにいるだけで人々を争わせ悩ませる。


 大好きな人、守ってくれる人さえその渦に巻き込んでしまう。


 ならばせめて、手放すことの出来ないこの呪わしい力は自分の意思で大好きな人のために使いたいのだ。今度こそ、本当の、自分の意思で。


「自分を大切にするとは、どういうことですか? 大好きな人を助けられるかも知れないのに、見殺しにするということですか?」


「それは違う」


 うずくまったままのユニカの顔を上げさせ、クレスツェンツは厳しい口調で否定した。


「ユニカ、お前がわたくしの病を治したら、次は誰の病を治す?」


「誰の?」


「アマリアにもたくさんの病人がいる。シヴィロ王国を見渡せばもっとたくさんの病の者が。薬も買えず、医者にも診てもらえない者だって多い。お前は、その者たちにも血を分け与えることが出来るかい?」


 ユニカは上目遣いでクレスツェンツを睨み、首を横に振った。


 出来るわけがない。血抜きの針が刺さるのは痛いし、血を失いすぎればユニカとて体調を崩す。それは、あの疫病の最中で経験済みだった。


「ならば、わたくしだけを特別扱いしてはならない。お前が進んで血を国中に配るというなら、わたくしもお前の血を受け取る一人になろう。だけどそんなことは不可能だ」


「――王妃様が私の血を受け取ってくださるなら、そうします」


「なに?」


「国中すべての病の人にというのは無理かも知れません。でも、少しずつ血を抜いていけば、私だってすぐには死にません。うんと長い時間をかければ、何十人か、もしかしたら百人でも助けられるくらいの血は搾り取れるはずです。王妃様が生きてくださるなら、私はそれでいい。施療院はもっと大きくなって、病気から助かる人が増えるし、私は導師様のところに行けるわ」


 クレスツェンツが腕を振り上げるのに気づき、殴られると思ったユニカはぎゅっと目を閉じた。しかし頬には衝撃が降ってこない。代わりに、跪いたユニカの肩を痩せた手が震えながら掴んだ。


「わたくしは、お前にそんなことを言わせたかったのではない……わたくしもアヒムも、助けるか助けないかを、小さなお前に選んで欲しくないのだ」


 施療院も、医術も、必ず病人を助けられるわけではない。取りこぼしてしまう命は多くある。しかしユニカの血は確実に命を救うことが出来る。それは特異な〝力〟だ。


 〝力〟を振るう者の重責と孤独を、どうして可愛い娘に背負わせたいだろう。


「助けたい者だけを助ける……そんなお前を人々は批難するぞ。お前の選択が悪だからではない。お前に掬い上げられなかった者たちは掬い上げられた者を妬み、そして見捨てたお前を憎むのだ。お前の手が、どんなに小さいかも知らずにね」


「だから私が何もしないまま、王妃様が死んでしまうのですか? 施療院にいる患者達を、看病する人達を遺して」


 違う、とは言ったが、クレスツェンツの口調には覇気がない。


 クレスツェンツは諦めていない。鼓動が続く限り、寝台から動けなくなっても生きているつもりだ。


 王妃という旗印さえあれば、変えられること、続けられることはたくさんあるのだから。決してユニカのために死を受け入れようと思うわけではなかった。


 けれど、この時初めてふと思った。


 ユニカが誰かを助けたいと思う限り、彼女の前には選択肢が現れる。いや、助けたいと思った時、彼女は〝力〟を振るうことをすでに選んでいるのだ。


 それを拒むのは果たしてユニカのためになるのだろうか? 彼女の意思を否定することになっているのではないだろうか。


この娘を守るということは、〝選ばせない〟のではなく、〝選んだ彼女をあらゆる批難から庇う〟ことではないのか。


 クレスツェンツの一瞬の迷いを読み取り、ユニカは畳み掛けた。


「私はもう、欲しいものを得るために血を売っています。そして王妃様、今、私は王妃様に生きていて欲しいのです。私が少し痛い思いをするだけでそれが叶うなら、誰から謗られても怖くはありません。国中に血を配れとおっしゃるなら従います、だから……」


 一人生き残るであろう私の娘を頼む……クレスツェンツへの最期の手紙にそう認めた友は、こんなふうに悩んだことはなかったのだろうか。


 せめて、わずかでも彼と話す時間があればいいのに。


 クレスツェンツは震えの止まらなくなってきた手に力を込めて、自分の足許で泣いているユニカを抱き寄せた。


 しゃくり上げる彼女からは、薔薇のようで、麝香のようでもある不思議な匂いが立ち上ってくる。


 ペシラで初めて出会った時もユニカからは甘い匂いがしていたが、あの時と違って香りから受ける印象は愛らしさだけではない。ひとりの女として成長しつつある娘の独特の色香を感じさせた。


「いつの間に、こんなに娘らしくなったのだろう。……そうだな、お前の嫁ぐところを見届けたいのだった。よい相手を探さねばならない。それには、元気に働ける身体が必要だね」


「……それじゃあ、」


「血を貰おう、ユニカ。一度だけ」


「はい!」


 ユニカの血は、確実に命を救うことが出来る。


 自分の前で、人の生き死にが別れていく恐怖はもう知っていた。ユニカはその上で決意した。クレスツェンツには生きていて欲しいと強く願ったから。


 

 例外があることなど、考えてもみなかった。


 


 その年の夏が終わる頃、王妃クレスツェンツは崩御した。


(どうして……?)


 ユニカは呆然としながら、王城を出て行く王妃の葬列を見送った。


(導師様は助けられた。あの疫病も……キルルも治ったわ。なのに、どうして)


 この血はユニカに選ぶことを許さないのだろうか。今まで――ユニカが知る限り、人々の命を繋ぎ止めてきたはずなのに。


 この血のために多くのものを喪ったのに、この血はユニカに、復讐以外の何も与えてくれない。


 

 

 王妃の喪が明けきらぬ内に、ユニカはひとり考え、結論を出した。


 自分に宿った異能には、もうなんの望みも持たない。

 

 ユニカはただ、王の治世の終わりを黙って待つ。それだけだ。


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