9.寄る辺なき小鳥(2)
その日の午前。四日後に迫った叙任式の雑事を確認するため、ディルクは国王の執務室を訪れていた。
ディルクに与えられる役職は近衛長官。軍の中で最も位の高い近衛の指揮官ということだが、事実上、ディルクの権限は王家が有する全軍に及ぶ。王権の一つである統帥権を早くも丸ごと譲り受けることになった。
ディルクが公国の軍閥貴族に養育され、成人してからは年の半分を戦地で過ごし功績を積んできたことを知る者は容易に納得出来るだろう。王は太子の得意分野から任せていくつもりなのだと。
最初の一歩にしてはずいぶんと大きいので驚きの声が多数を占めるかも知れないが、若いとはいえない王が、それなりに経験を積んでいる猶子に期待するところ大であると示すには、よい人事だった。
「十年」
「はい?」
「十年内には譲位する。そのつもりで、そなたは政権の掌握に努めよ。我が甥とはいえ、そなたが他家に生まれた猶子である事実に変わりはない」
「……」
会合の締めくくりの言葉があまりに唐突だったので、ディルクは書類を束ねる手を止めてじっと王を見つめた。
「なんだ」
同じテーブルについていた近衛隊長のラヒアックも驚いた様子である。
「恐れながら、譲位の時期を明言なさるのはいかがなものかと……」
王が病床にあり、早急に世継ぎを決めねばならない状況なら別だ。しかし、国王ユグフェルトは健在で、その治世の終わりは今のところ目の前にはない。
十年といえばやけに現実的で生々しい数字でもあり、これを臣下が知れば、その十年後に向けて様々な策謀と打算とを働かせ、いらぬ不調和を生じさせる恐れもある。
幸いにもこの部屋にはディルクとラヒアック、そして王の後ろで秘書官のように控えるエリュゼ以外、誰もいなかった。
「心得ておいてもらいたい。十年だ、長くはない」
ディルクの諫言には答えずに王は席を立ち、自分の机に戻った。打ち合わせは終わりのようだ。
ディルクはラヒアックと顔を見合わせ、互いに首を傾げた。なぜ王がそんなことを言うのか、二人には心当たりがなかった。
十年とは、確かに短い。他家から迎えられたディルクが、軍を、経済を、国法を、臣下と民を、すべて御せるようになるまでにしなくてはならないことの多さを考えると、十年などあっという間だ。むしろたった十年でそれらを掌握し、盤石な玉座に座ることの方が難しそうだ。
それでも王家に入ったからには、ディルクに国を継ぐ者として働く意思はある。大いに未来の大公の力を借りていくつもりではあるが、その責任を放棄するわけではない。
それとも、王にはディルクが無自覚なように見えたのだろうか。
ふと何かが頭の隅に引っかかり、ディルクはそれを思い出そうと眉間に皺を寄せる。しかし思い出せない内に王に呼ばれた。
「そなたは少し残れ」
「はい」
ラヒアックが退出すると、王はペンを振ってディルクを机の前まで呼び寄せる。その割には顔を上げようともせず、なかなか言葉を発してくれない。
「娘に贈りものを?」
まだこの人の調子には慣れないな。そう思いながら、ディルクは偽りなく「はい」と答えた。
「何を贈った」
「市井で流行っている庶民の本を。城の図書館には、もう面白い本がないと彼女が言っていましたので」
贈りものを王が把握していることについては驚かないが、理由ではなくものが何かを訊かれたのは少し意外だった。
王は口髭の奥で少し唸り、ペンを置いた。ディルクと話をするためかと思いきや、書き終えた書類を脇に除けるためである。
次の紙をめくりながら、彼はまたペンを取る。
「娘に届けものをする時は、余を通すように。公子殿の一件の折りは許したが、西の宮に出入りする自由を与えたわけではないぞ」
本は侍女に届けさせたのだけれど、それも駄目らしい。
面倒だが、遊戯にルールがあるのと同じ。そう思うしかない。それに、王の口ぶりでは贈りものを禁止するわけではないようだ。
「では、手紙も陛下にお目通しいただかねばならないということですね」
「……そうだ」
王はようやく顔を上げてディルクを見た。訝しげな目をする彼に、ディルクはわざと不敵な笑みを浮かべて見せた。
「手許にはありませんが、お茶の席への招待状を送ろうと思っていたところです。文面は『午後二時に、温室でお待ちしている』とだけ。お許しいただけますか? エイルリヒと私の連名です」
「見せよ」
「のちほどお持ちいたします」
うむ、と、やはり唸り声にしか聞こえないくぐもった声で頷くと、王は次の書類を手に取った。
(これで終わりか?)
娘を招いて何をするかとか、彼女を宮の外へ出すのはいけないとは言わないのだろうか。
「エイルリヒが、帰国前に彼女に礼をしたいと言うので席を設けようと思っているのですが、陛下もいらっしゃいませんか? 集まるのは私とエイルリヒと、それからユニカだけです」
「行かぬ」
短い返答はどこか拗ねているようにも聞こえたが、気のせいだろうか。
ディルクは苦笑しながら思い切って確かめてみた。
「……彼女を呼び出すことは、お許しいただけるのですね」
「娘がよいと言うのであれば」
いつぞや聞いた言葉である。それがユニカと接触するに当たっての条件のようだ。
「それは、もちろん。次の機会にはぜひ、陛下もご一緒に」
「行かぬ」
〝次〟のつもりがあることを暗に告げるが、王の反応は変わらなかった。
それは今回も次回もない、という意味だったのだろうか。
* * *
「陛下はきっと、ユニカが嫌だって言うことも分かってたんでしょうねー。せっかくシュテルン殿のところから印章まで拝借したのに、まさか無視されるとはなぁー」
招待は出来ても相手が応じてくれねば意味がない。
マティアスが招待状を突き返されたと言って戻って来たので、エイルリヒの気分はひたすらどん底に近かった。
「もうー、無理矢理入っちゃいましょうよ、西の宮に。僕ならまだ子供だし、大目に見てもらえるはずですよ」
「あとひと月で成人する子供はもう子供じゃない。自覚がないとばかにされるだけだぞ」
失意の兄弟は、招待客が来ないと分かっていながら温室に来ていた。時間と身体だけが自由になったからだ。つまり暇なのである。
「分かってますよそんなこと! 仕方ないなぁ、もう一回ユニカの血が必要になるような状況を作るしかないかな。階段でも踏み外してみましょうか」
「やめてくれ。またティアナが怒る」
「……またどころか、まだ許してくれる気配がありませんよ」
どうやら先日の毒の件が、エイルリヒの自作自演だったとティアナにばれたらしい。ばれたというか、勘付かれ、問い糾され、エイルリヒが白状したのである。
以来、ティアナはエイルリヒを無視し続けていた。
今日も彼女が給仕としてついて来てはいるが、兄弟の会話に入ってこようとはしない。エイルリヒが甘える子犬のような視線を送っても顔を背ける。
そのせいもあってエイルリヒの機嫌は余計に悪かった。
「手紙の内容が悪かったんじゃありませんか? もっと色々書こうって言ったのに。『待ってる』ってなんですか。それだけ? 態度がでかいにもほどがありますよ。僕が『どうしてもお礼を言いたい!』って強くお願いすれば、そうかそうか公子様がそこまで言うなら行ってやろうって、ユニカも思ったかも知れません。せっかく僕がティアナを怒らせてまできっかけを作ったのに、これじゃあ台無しです」
「ティアナを怒らせたのはお前の勝手だ。言っておくが俺だって怒ってるぞ」
「ふん、兄上に心配されたって嬉しくありません」
「誰がお前の心配なぞするか。怒ってるのはお前が無茶をしたことについてじゃない。あの件を片付けるために俺の初年度の領地収入は一割も減ったんだ。その結果が待ち人来ずだと? ふざけるな」
「ちゃんと裏から返すって言ってるじゃないですか! それにユニカが来ないのは兄上のせいです。あんな紙切れ同然の招待状なんて送るから」
「女性を呼び出したこともない子供に何が分かる。言葉を尽くさない方がいいこともあるんだよ」
「失敗してるじゃないですか。格好つけないでちょっとは神妙にしてください。本に添えたメッセージも無視されたくせに」
「一度や二度の無視くらい想定済みだ。ユニカは時間がかかる」
「僕は帰国前に会っておきたいんです!」
「それはただのお前のわがままだ。自分の婚約者も口説き落とせないお子様が口を出すな!」
「ティアナのことは関係ない――」
だんっ、と、叩き付けるようにティーポットが置かれた。罵り合っていた兄弟はぴたりと口を閉じ、ポットを置いたティアナを恐る恐る見上げる。
「お茶のお代わりはいかがでしょうか」
「いい」
「あ、僕は、貰います。ねぇティアナ……」
お茶の注がれる音だけが緊張感の中に響く。ティアナは事務的に笑ってカップをエイルリヒに返すのみで、またさっと身を引いていってしまった。もっと格好よく出来る兄弟喧嘩の仲裁の仕方さえ、ここ数日ぎすぎすしている。
「婚約解消って言われたらどうしよう」
「自業自得だ」
うつむき、揺れるお茶の水面を見ているエイルリヒは気づいていないが、ティアナは彼のそんな様子を眺めてくすくす笑っていた。ディルクと目が合うと、唇の前に人差し指を立てて何も言わないようにと合図してくる。
婚約解消は、ないと思う。が、それを言って慰めてやるほどディルクはエイルリヒのことが好きではない。せいぜい話題を変えてやるくらいだ。
「ところでエイルリヒ、俺に報告し忘れてることがあるだろう」
「ないですよなんにも」
ひとーつ、ふたーつと角砂糖をお茶の中に投げ込みミルクを垂らしながら、エイルリヒは無気力にそう答えた。
「仕事に落ち度があると、ティアナの心証がますます悪くなるぞ」
「う。……なんだろ、思い出せません」
こうやっていつも素直な弟なら、可愛いから欲しい。けれどティアナの気持ちが離れるとここまで仕事の質が落ちるのは問題だ。
ディルクは本当に忘れていると思しきエイルリヒを冷たい目で眺めた。
「お前が毒を飲む直前に言いかけたことだ」
「何か言いましたっけ」
「十五歳の壁は高くて厚いから、ティアナをくど――」
「ああああ思い出しました! 王妃様とユニカの話ですね!」
「同意の得方を」
「クレスツェンツ王妃とユニカの父親に縁があったそうですよ!!」
「ユニカの父親?」
ディルクは必死で喚く弟を楽しげに見つめ、口の端をにやりと持ち上げた。
「同意の得方を教えないと王妃様の話は聞かせてくれないんだろう? あとでいいのか?」
「もちろんです。覚えてろよこの野郎」
聞く者が聞いたら目を瞠るだけでは済まないような罵詈を吐き、エイルリヒは爽やかに笑う。そして無口な侍従を呼び寄せ、いつもの帳面を持ってこさせた。
「名前……なんだったかな。あった、アヒム・グラウン。ブレイ村の教会堂を預かっていた導師です。ユニカの養父といっても、ユニカを引き取り一緒に暮らしていたのは二年ちょっとみたいですね」
「グラウン家の導師か。地方の教会堂を預かる程度なら末端の家系だな。そんな末端の導師が、王妃様と縁があったのはなぜだ?」
「末端でもグラウン家。扱いは貴族に等しいですからね。教会を仕切る宗家の伝手を利用して、アヒムは十代の頃から王立大学院に在籍し、医学を学んでいたそうです。途中で導師職を継ぐため村へ戻ったので卒業はしませんでしたが、在学中の実績を考慮し、あとから卒業資格を認められました」
「実績ね。なんとなく分かったぞ」
王妃クレスツェンツが最も力を入れた事業は、王国各地での施療院の運営だ。王都アマリアの施療院には王妃自身が度々足を運び、運営に携わっていたという。
また、大学院の学生たちに修業の一環として治療を手伝わせる仕組みをつくったのも彼女だという。
「察しのよい兄上には必要ないかも知れませんが、一応説明しておくと。アヒムが王妃様と面識を持ったのはアマリアの施療院で、王妃様が陛下の許へ輿入れなさる前だそうです。多くの学生が修業の一環として施療院での治療を手伝う中、彼は時間さえ空けば熱心に病人たちを診ていたとか。だいたい十年前までの話だから……王妃様が二十五、六歳、アヒムはその一つ下。ちょうどクヴェン王子が生まれた頃、アヒムは故郷に戻りました」
「イシュテン伯爵は、どうしてそれを俺たちに教えなかったんだ」
「言い辛かったそうですよ。まぁ、煙が立ちかけただけでそんな事実は絶対になかったと伯爵は言うんですけど、若い男女の話ですからね」
「二人が親密過ぎたって?」
「僕だって話を聞いただけじゃ当時の様子は想像することしか出来ません。でも、当人達のことをよく知らない周りの者から見れば、やっぱり男女が一緒にいることに変わりはないですから」
ディルクはふうんと相槌を打つ。
政治が出来た王妃は、一方では女だてらに政の場を引っ掻き回したとも言われているだろうし、優秀で、汚れ仕事や努力を厭わないアヒムの姿勢を妬んだ同輩もいただろう。
噂などそういうところから簡単に生まれる。だがそうした噂が立ちかねないほど、王妃とユニカの父は、共に過ごす時間が長かったということだ。
どのような状況で同じ時を過ごしていたかは、やはり想像するしかない。しかし、一方の遺した、それも大きな罪を背負う子供を無条件で引き取るほどの関係。〝面識がある〟程度では出来ないことだ。
「それからもう一つ。これはユニカのこととはあまり関係がないんですが、大学院で学ぶアヒムの後見人の一人が、先代のイシュテン伯爵だったそうですよ」
「それは、」
「ティアナのお祖父さまにあたる方ですね。今の伯爵……ティアナの父上も大学院で医学を教えていましたから、アヒムは教え子に当たるそうです」
兄弟がティアナに目を向けると、彼女は首を傾げながら微かに笑った。
「わたくしも、先日エイルリヒ様と一緒に父の話を聞いて、初めて〝あの方〟がユニカ様の養い親だと知りました。とはいえ大学院の学生は寮暮らしですから、彼が我が家で寝泊まりしていたのは都をあとにする直前のひと月ほどです。少し体調を崩されていた時期があって……。お身体がよくなられてからは毎日勉強を見ていただいていました。賢くて穏やかで、とても優しい方でしたわ」
「そうか……世の中は狭いな。エイルリヒの話では、伯爵はかなりアヒムの肩を持っているように聞こえた。気に入った教え子だったんだな」
「ええ、彼が故郷へ帰ると言ったとき、父はずいぶん狼狽えていました。ほかの教師の方々も引き留めたそうなのですが……。ぜひ、時を見てユニカ様とお話ししたく思います。都を去ってから、彼がどんなふうにユニカ様と過ごしていたのか、――あの疫病の最中、どんな最期を迎えたのか」
八年前の王都アマリアの夏は、王国の南部から送られてくる不穏な報せで始まった。
そして秋が始まるまでの間に、凄絶な苦しみの末に多くの人々が死んだ。
ティアナは、絶えず王城に出入りし、難しい顔をする父の顔をはっきりと覚えていた。
「あの年、父のところへ、先生、いえ、アヒムからの手紙が届いていました。恐らく彼は都にいる同輩や恩師すべてに書簡を送っていたのでしょう。ジルダン領邦とビーレ領邦に、都から医師を派遣するようにと」
ウゼロ公国で暮らしていたディルクやエイルリヒには、政治的な視点でしか逼迫した王都の様子を想像出来ないだろう。
人の行き来が著しく制限されたアマリアでは、すぐにあらゆるものが手に入りにくくなった。南部の領地から引き上げてくる貴族や富裕層のために都の人口は膨れ上がり、都へ入れない避難民は郊外の道端に溢れていた。
同じような状況は王国中部の都市で数多く見られた。
これでは疫病の爪が都市部へ届いたときになす術がない。あの病は人から人へ伝染るのに。
王城に置かれる行政府は関門の封鎖以外に何も決めることが出来ず、遅れている秋の訪ればかりを待っていた。
秋が来て、冬が来れば、シヴィロ王国に降り積もる雪が病を覆い隠す。そんな確証のない言葉が貴族の間で囁かれていることに、幼かったティアナは激しい怒りを感じた。
病には伝染る原因がある。医師たちはそれを知っているはずだ。なぜ調べに行かないの。
『先生がビーレ領邦で待っているのに』
ティアナがそう言うと、父は苛立たしげ顔を歪ませて部屋を出て行っただけだった。
陰鬱な記憶に苦笑しながら、ティアナは更に口を開いた。
「遅れに遅れ、医師団の派遣をお決めになったのは王妃様でした。陛下の決定を無視なさってのことだったと聞いております。父の話を聞いて思えば、そのご決断もアヒムの要請に応じてのことだったのかも知れません。ですが、結果として王妃様の行動も手遅れでした」
王妃が都を発って間もなく、ビーレ領邦のブレイ村は一夜にして灼き尽くされ、それを契機に病は収束に向かった。
「……嫌な昔話ですね」
重苦しい空気の中、エイルリヒが遠慮がちに言った。一方、頬杖をつき話を聞いていたディルクはやや置いてからふっと笑う。
「面白かったですか?」
「まぁな。……ユニカはきっと、この話を知っているんだろうと思ってな」
「この話?」
「疫病の年、南部の貴族は領地を捨て都へ逃げ込んだ。陛下は関門を封鎖した。医師を派遣しなかった――陛下は、ビーレとジルダンを見捨てた。養父が送った、助けを求める声を無視して」
エイルリヒが黙って眉を顰める。
「お前が毒を飲んだとき、ユニカに助けを求めに行っただろう。あの時ユニカが言っていたんだよ。病の民を死地に閉じこめ見捨てるのが王族の覚悟なのか、って」
「どういう流れでそういう会話をしてたのか知りませんけど、だとしたら、ユニカは陛下を恨んでいるんでしょうね」
「恨んでいるくせに、陛下のためなら血を惜しまず差し出すようだぞ。陛下のためならいいがお前のために血はやれない、という趣旨の遣り取りもした」
「ええー? なんですかそれ」
「理由はいずれ本人に聞いてみよう。仲を深めたあとでな」
ディルクはエイルリヒの向こうに視線を投げかける。つられて振り返ったエイルリヒは瞬時に無邪気な微笑みを作ってディルクと一緒に席を立った。
「来ないんじゃなかったっけ?」
「気が変わったんだろう?」
小声でそう言い交わすと、侍女に連れられてやって来た仏頂面の娘に、二人はそろって笑いかけた。