1.レセプション(2)
初代王妃の名をつけられたエルメンヒルデ城は、大きな丘を利用した要塞機能も十分な城だが、創建当初からそれをあまり表に見せない優美な城だった。乳白色の城壁と丸みのある屋根や尖塔は王妃の名を冠するに相応しい気品を漂わせている。
神話の一場面を彫り込んだ城門を見上げ、ディルクはしばらく動かなかった。彫刻に見とれているのだと思いこんだシヴィロ王国の外務卿がほくそ笑みながら近づいてくる。
「門は城の顔でございますゆえ、これは初代国王のご正妃、エルメンヒルデ王妃ご自身がデザインされ、職人が二十年かけて彫り、彩色したそうでございます」
「そうでしたか。良妻賢母と名高いかの王妃の名がこの城に与えられた理由が分かります。城は王の佐け、王妃もまたそう。エルメンヒルデ王妃は城となって歴代の王をお佐けくださっているのですね」
「まさにまさに!」
ディルクは両手を叩かんばかりに喜ぶ外務卿へ微笑み返し、用意されていた輿に乗り換えた。後ろではエイルリヒが同じように輿に乗っている。城門から先は階段が多く馬車では進めない。
(とろいったらないな……)
馬車も雪にはまってなかなか進まず、今度は儀式的な歩調で進む輿に乗る。ウゼロ公国を発ってから十日、精神的にはその三倍くらいの時間を浪費した気分だった。
それだけゆっくりと考える時間もあったはずなのだが、横から茶々を入れるエイルリヒが邪魔だった。ディルクが余計なことを考えないようにわざとやっていたのだろう。
(いまさら逃げてどうする)
そんな真似をしなくてもディルクに選べる道など多くはない。一緒に滅ぶか、自分だけ助かるか、だ。どちらでもよかったが、ディルクは後者を選んだ。
うねる坂道と階段を繰り返し、ドンジョンの入り口にあたる最後の門が開いた。
上空で青白い閃光が閃き、一瞬あたりが暗くなったように感じた。続く轟音。周りの者がわずかに息を呑む中、ディルクはゆっくりと視線を空に滑らせる。
神々の槍は、やはり悪徳をする者の脳天を狙っているのか。今まさに振り降ろされればディルクは逃げることが出来まい。
すると、視界の隅に青空が見えた。灰色の雪を降らす曇天の端にするりと入り込んだあざやかな色。
「止まれ」
ディルクが短く命じると、輿はかくんと揺れて止まった。何ごとかと問うてくる外務卿を無視してディルクは重たい天鵞絨の天蓋をめくりあげる。通り過ぎたドンジョンの門を見上げ、そこに青空の端を見つけた。
本来兵士がいるはずの物見台の窓から、黒髪の若い女が手を伸ばしていた。
ディルクと目が合うや否や女はさっと窓の奥へ消え、彼女の掴み損ねた水色のストールだけがひらりひらりと風に煽られて使節団の頭上に落ちてきた。
それはエイルリヒの輿の天蓋に引っかかった。女に気がつかなかった彼は突然現れたストールを見て目を大きく瞬かせ、眼前に垂れている布の端を引っ張って手許に引き寄せる。
「なぜストールが空から?」
「門の上に誰かいたな」
「兵士がストールを持っていたんですか?」
「いや。女性でしたね、チーゼル卿」
呆然と門を見上げていた外務卿は、ディルクに問いかけられてびくりと肩を跳ね上げた。
「申し訳ございません! 女官がご使者の方々見たさに忍び込んでいたのでしょう。すぐにお調べして処罰を……」
「女官? これが女官の持ち物ですか?」
青ざめる外務卿を睥睨しながらエイルリヒはストールを広げてみせた。
上質な絹に、地と同じ色の糸で細かな蔓薔薇の紋様がびっしりと刺繍されている。たとえ上級の女官でも労働中に使うような代物ではない。
「これほど上等な絹、王家の女性がお召しのもののように見えます」
「ご冗談を。昨年王妃さまがご逝去遊ばしてから、残念ながら王家に女性はおりません」
「それは不思議なことです。ねえ兄上?」
エイルリヒは侍従にストールを預けた。てっきり引き渡して貰えると思った外務卿はほっと息をつきかけるが、すぐにまた青くなる。侍従がストールを届けた相手はディルクだったからだ。
ストールを受け取ったディルクはそれに鼻先をすり寄せて口許を隠し、にやりと笑った。
上品な香水の匂いが染みついている。この香りもよく覚えておこうと思いながら、彼は外務卿を見下ろした。
「これほどの品、名のある家の子女がお持ちに違いない。陛下にこれの持ち主にお心当たりがないかお尋ねしてみましょう。それまでは私がお借りしています。ちょうどよかった、寒かったので」
「そ、それは困ります。誰か、公子さまに膝掛けをご用意せよ」
「何が困るのですか? 先ほどの女性にお会いして直接お返ししたいだけなのですが?」
「ディルク様が直にお会いになる身分の者ではございません。さあ、それをお渡しください」
無礼も承知のようだが、外務卿は手を伸ばして催促してくる。ここまでなりふり構っていられないのはかえって不自然であることもすっかり思考から吹き飛んでいるようだ。
しかしディルクが頑として譲らないのも不自然なのである。なかなかいい機会だったが、ここまでか。そう諦めてディルクがストールを差し出そうとしたところ。
「あの……」
門の物見台から降りてきたと思しき娘が、一行に怖ず怖ずと声をかけてきた。
「このようなところで何をしている!」
外務卿に怒鳴りつけられ、娘は肩をすくめる。
「申し訳ございません。ご使者の方々をひと目見たく……」
娘は女官であることを示す薄桃色のスカーフを首に巻いていた。作業の邪魔にならないよう結い上げてあるはずの髪は解かれている。黒っぽいが、茶髪だ。
ディルクは目を細めて娘を観察した。門の上にいた女ではない。
「無礼な。ご使者の方々の頭上で何をしておるか!」
「チーゼル卿。見物くらいどうということはないではありませんか。我々が珍しいのも本当のことです。あまりきつくお叱りにならないよう。ところで、これはあなたのものか?」
ディルクが問うと、彼女は恐縮しつつ肯く。平然と嘘をついたところを見ると、先ほどの黒髪の女にこれを取ってくるよう命じられた、そんなところだろうか。
「お返ししよう。こちらへ」
顔を伏せながらやってきた彼女は、ストールを受け取る瞬間にちらりとディルクを見た。不安げな表情だが、それは異性を誘惑せんとする作りものだ。公国を発ってからというもの、行く先々にいる名家の娘たちにこういう視線を向けられてきたが、その程度の色目で心の動くディルクではなかった。
「本当の持ち主にお返し願いたい。それから、藍色のドレスによくお似合いでしたよとも伝えていただけるか?」
娘の視線は難なく受け流し、ディルクは彼女の耳にのみ聞こえるよう吐息だけで囁く。
娘はさっと顔色を変え、気まずそうに叩頭してディルクから離れた。
「お騒がせいたしました」
ことが説明したとおりに収まり、外務卿は満足げだった。彼は額に浮いていた脂汗を密かに拭いながら行列が先に進むよう促した。
人目に付かずドンジョンへ行くなど、土台無理である。
結局は使用人通路を通り、時々出会う兵士には案内を買って出た侍女が媚びを売って物見台へとあがってきた。ユニカは自分に向けられる好奇と畏怖の視線を感じつつ歩くしかなく、ここへ来るまでに疲れ切っていた。
しかも、侍女たちは小躍りしながら使節団の一行を見下ろしていたが、肝心の公子は輿についた天蓋に阻まれて見えない。
なんだ、つまらない。ユニカは溜め息をついて窓を離れようとした。
そして「まずい」と思ったときにはもう遅かった。窓枠に引っかかったストールがするりと腕を離れる。掴むのが一瞬遅れたのは雷が上空で弾けたせいだ。
思わず身を乗り出して手を伸ばしたが間に合わない。それどころか天蓋の下から覗いた公子の目に、ユニカの姿はしっかりと映ってしまった。
ざわつく門の下の声を聞いて、侍女たちは色を失っていた。ユニカも焦る。
壁にぴたりとくっつき隠れながら、彼女は努めて冷静になろうと深呼吸をして思考を回転させる。
ユニカは、いてもいいがいると悟られてはいけない存在だった。誰もが見て見ぬ振りを出来るように、そこにいたという痕跡を残してはならない。持ちものを残すなどもってのほかだ。
しかしストールは落ちていってしまった上に、どうやら公子の手に渡ってしまったらしい。
ユニカの事情を知らないであろう彼らに興味を持たれては困る。この城の誰もが知っている、ユニカの存在を無視する必要性を覚えてもらうまで、彼らにとってユニカはいないものでなくてはいけなかった。
思わず舌打ちしそうになる。ドンジョンに来るのは危険すぎると、どうしてすぐに思いつかなかったのか。ユニカは退屈に飽いて判断を間違えた自分を心の中でなじった。
しかし今は物的証拠を回収するのが先だ。
ユニカはじろりと侍女たちを見る。どうする、どうしようか。取りに行かせるのは簡単だが、公子に姿を見られてしまった。誤魔化すには、どうすれば。
侍女を順々に見つめ、ただ一人、髪の黒い娘に目を留める。ドンジョンへ行こうと言い出した者だった。
「リータ、髪を解いて」
ほかの二人は息を呑んで驚いているが、当人はぽかんと口を開けたまま、何を言われたか分からない様子だ。
「フラレイとエリュゼは金髪だから無理だわ。あなたが私になりすましてストールを取ってきて」
「ゆ、ユニカ様……お許しください」
「ドンジョンへ連れてきた責任をとれと言っているんじゃないのよ。私の持ちものを残していくわけにはいかないの、分かるでしょう?」
「でも、」
わたしが怒られます、とでも言いたげな顔である。当たり前だ。ここはそもそも女がいていい場所ではない。
「大丈夫よ、チーゼル卿も私に気がついたわ。弁明ならあとでいくらでもしてあげる。それに公子さまとお話し出来るチャンスじゃない」
その言葉で戸惑っていたリータの目つきが明らかに変わった。見初められればお傍にあげて貰えるかも知れない。彼女は一瞬でそこまで考えたらしい。
「お願いよ、リータ」
そしてユニカに頭を下げられれば、従わないはずがなかった。
リータはいそいそと髪を解き、ポケットの中から出した櫛で結び癖を整える。彼女の髪では長さも黒さもユニカに及ばないが、公子もユニカの姿を遠目に見ただけだ。誤魔化せるだろう。
また誤魔化せなくても、ストールさえ回収してしまえば、あとは外務卿はじめ廷臣たちが知らぬ存ぜぬを通してくれる。そのうちにシヴィロ王国の世継ぎになるあの公子もユニカのことを知り、見て見ぬ振りをするようになるだろう。
「ここを検めるなんて言い出されても困るから、私たちは先に戻るわ。ストールを頼むわね」
同僚の嫉妬の目にも気づかず、リータは石造りの階段を駆け降りていった。
遅れてユニカの部屋へ戻ってきた彼女がむくれているところを見ると、拝謁はうまくいかなかったようだが。
お気に入りの寝椅子に座り、ストールを膝の上にのせてユニカは息をついた。安堵が半分、疲労が半分である。
「公子さまが、藍色のドレスによくお似合いでしたとおっしゃっていました」
ユニカは顔を上げないまま眉を顰めた。バレていたか。
リータの不愉快そうな声もまた面倒くさかった。公子に相手にされなかったのが面白くなく、それを折悪しく送り出したユニカのせいだと思っている節がある。
「そう」
この素っ気ない反応が相手の神経を逆撫ですることはよく分かっていたが、だからといって「残念だったわね」と同情したつもりで言おうものなら、それこそ彼女の逆鱗に触れる。同僚の視線もいたたまれないようだったので、ユニカはリータをさがらせた。
そろそろ昼食の時間だが、すっかり食欲は失せていた。
(陛下に謝罪しなくては……公子さまに姿を見せてしまったこと……)
王には仇もあるが恩もある。貸しも借りもある。〝持ちつ持たれつ〟の相手に迷惑をかけるのは不本意だ。そして新しく迎える世継ぎにユニカのことを無視するようよく言い含めて欲しいと、念を入れて頼んでおきたかった。
王に会えるとしたら、彼が就寝する前のわずかな時間。
『今晩、お会いしたく存じます』
ユニカはそれだけ書いた便箋を畳み、一角獣の紋章で封蝋を閉じた。
待ち合わせの時間と場所は決まっている。そしてこの紋章で閉じられた手紙は、間にチェックを挟むことなく直接王へ届けられる約束だ。あとは会えるのか会えないのか、王からの返信を待つのみだ。
「昼食はいらないわ。少し眠るから、あなたたちもさがって」
寝椅子から動くのも気怠かったが、ユニカはどうにか立ち上がってふらふらと寝室に向かった。
夕方になって起き出した彼女は、多忙のため今夜は会えないという王の返信を受け取ってわずかに落胆した。