8.公国騎士の参上(3)
「大丈夫か」
返事をしようと思ったが、「ふぇ」と変な具合の鼻声しか出ない。そして眉間がぎりぎり痛み、鼻の奥につんと鉄錆のような臭いが広がった。
はて、自分はどこで何をしていたのだったか……。
カミルはぼうっとしながらゆっくりと瞬いた。視界の半分を覆うのは気遣わしげな憂いに陰った主の顔だ。今さら思うのもおかしな話だが、きれいな目の色をしていらっしゃる。
そんな様子で意識があるのかないのか定かではないカミルを見下ろし、ディルクは少し迷った末、薬を片付けているイシュテン伯爵を呼んだ。
「伯、本当に大丈夫なのか」
伯爵は無言で寝台の傍へやって来てカミルの目許に指を近づける。彼がぎゅっと目を瞑るのを見て、大丈夫でしょうと呟いた。
言葉の少ない医官はまた自分の作業に戻っていった。彼が大丈夫と言うからには信じるしかない。
ディルクは再度カミルの顔を覗き込み、名前を呼んでやる。鼻に詰めものをしているせいで上手く話せないだけならよいのだが。
「鼻は折れてないそうだぞ」
「でぃぇんか……」
「なんだ」
「ごぶじいぇ」
「……お前のおかげでな」
ディルクは医女が持ってきた氷嚢を受け取り、綿布の上からそっとカミルの眉間に置いた。雪を柔らかく詰めてある氷嚢だったので、それはよい具合にカミルの顔に乗っかった。
「だが、ああいうのはお前の仕事じゃない」
「でぃぇしゅが、でぃぇんかがおにげににゃるじかんをちゅくらなくてぃぇはと……」
「お前が槍の一本でも持った武官なら、時間は稼げただろうけどな」
この非力な侍官が侵入者の前に飛び出して行ったのは気が触れたのかと思うほど理解しがたい行動だった。しかしあとから考えてみると、逃げないディルクを守ろうとしたがゆえの突進だったらしい。挽き肉になりに行ったわけではないのだ。
ディルクは少しばかり反省した。兵の指揮を執るつもりだと明確に伝えればよかった、と。
「ま、気概は買ってあげましょう」
「えいゆいひしゃま?」
主が顔を曇らせていることも知らず、視界の真っ暗なカミルは思いがけない声に驚いた。
微かに首を動かし声がした方を向こうとしたら、後頭部ががんがん痛む。そしてようやく記憶が途切れる瞬間のことを思い出した。馬の前足に蹴られてきれいに後ろへ吹っ飛ばされたのだ。
「ほら、痛み止め。飲んで寝てなさい。今夜は相当痛みますよ。ものすごい腫れてますから」
エイルリヒの声が降ってくるのと同時に、太い管が唇に押しつけられた。よく分からないままカミルは大人しくそれを咥え、なにやら強い酸味のする液体を吸って飲む。
「にゃじぇここに」
「ああ気にしないで。兄上と違って君の様子が気になって見に来たわけじゃありませんから。まだ胃の調子が悪いので伯爵に相談に来ていたら、君が運ばれて来ただけ」
つっけんどんにそう言われたものの、カミルは嬉しかった。冷たくて仕方なかったエイルリヒが手ずから薬を飲ませてくれたのだから。
それに彼の言葉によれば、ディルクがカミルの怪我を案じて医務室を訪ねてきてくれたということではないか。
やっぱり今日はここひと月で一番幸せな日だ。
ふふふふ、と低い笑い声を残し、カミルは意識が遠のくのに任せて再び眠った。
「き、気持ち悪いなぁ」
「そう言うな、嬉しかったんだろう」
「こんな単純ばかは使えませんよ。エスピオナでもないし。本気ですか? 味方にしておこうだなんて」
「事情は話さない。だが、可愛がってやれば盾くらいにはなる」
「ちょっと庇われたからって嬉しくなっちゃって」
「俺はお前と違って、自分で駒を調達しなきゃならないんだよ」
「……そういう卑屈なことを言うから、僕は君が嫌いなんです」
兄弟が視線で火花を散らしていると、処置室へ戻っていた伯爵がとんとんと壁を叩いて彼らを呼んだ。睨み合う顔のまま振り返ると、新たに医務室へやって来た人物が息を呑む。
「これは、公子様もおいででしたか。お取り込み中ですかな?」
「僕はたまたま胃薬を貰いに来ていただけです」
「どうした、ラヒアック」
入ってきたのは近衛隊長だった。ディルクとエイルリヒは休眠室を出て、処置室で伯爵が用意してくれた椅子に近衛隊長と一緒に座る。
ラヒアックはどこか悄然とした様子で、持ってきた剣と金の不死鳥のブローチをディルクに差し出した。
「先ほどの賊……もとい騎士が、剣を取り上げるなら殿下に預けよとうるさいものでして」
「……重ね重ね、面倒をかけるな」
ディルクは肩を落としながらそれらを受け取った。横で見ていたエイルリヒはその剣に見覚えがある気がして、嫌な予感に思い切り顔を顰める。
「兄上、その剣にものすごく心当たりがあるんですけど、一応、行列を襲撃したのが誰か聞いておきましょうか」
「ルウェルだ」
「……あー、そうですか。っていうか、異動は僕が帰国した後じゃありませんでしたっけ」
「一人先走って来たらしい。そしていつもの調子で俺に悪戯を仕掛けた、というのが今回の襲撃の全容だな」
「問題ばっかりですねえ」
嘆息する弟に先の毒殺未遂事件は誰が起こしたんだ、と掴みかかりたいところだったが、近衛隊長の手前、ディルクはそれをぐっと堪える。
ぬるい脱力感に襲われる二人を前に、用事が済んでもそこを動けずにいたラヒアックが痺れを切らして頭を下げた。
「殿下、申し訳ございません」
「なぜ謝る」
「あの騎士は、恐らく我が弟です」
「弟?」
「いえ、間違いなく我が末の弟です」
〝恐らく〟の部分を問い返してはいないのだが、ラヒアックはそう言い直すと更に深く頭を下げ、思い詰めた顔でディルクを見つめてきた。何か言って欲しそうだが、ディルクはどうしていいやら分からない。
代わりにエイルリヒがぽつりと言った。
「ルウェルに兄弟がいるって、聞いたことありませんけど」
そうだ、話についていけないのはそのせいだ。ディルクはエイルリヒを追って頷いた。
「あれがシヴィロ貴族のせがれだというのは聞いていたが、卿の弟?」
問われたラヒアックは、その頑強な体格に似合わぬ仕草で肩をすぼめ、相槌とも溜め息ともとれる声をもらした。
彼の言うことが本当だとすれば、賊まがいの真似をして遊ぶようなあのルウェルは、シヴィロ王国でも指折りの軍閥貴族の血を引いているということになる。日頃の彼の粗暴な言動を見知っているディルクとエイルリヒは薄ら寒いものを覚えた。
ルウェルは、ディルクの母・王女ハイデマリーが大公家へ降嫁した時、わずか六つでそのお供に選ばれ、公国へやって来たらしい。以来、彼はディルクと一緒に育ち、公妃の庇護下で騎士となった。
要するに、ディルクにとってルウェルは悪いことばかりを教えてくれる兄のような存在だ。
しかし、そうして一緒に過ごした間にも、ディルクが彼の兄弟の話を聞いたことなど一度もない。
「あれにとって、兄などいないも同然でしょうな。あれは私が十六の時、遠縁のギムガルテ家へ跡継ぎとして養子に出されました。ですがギムガルテ家の当主夫妻の間にも子が生まれ、半ば追いやられるように公妃さまのお供をおおせつかったと聞いております。その後、風の便りで大公殿下より騎士号を賜ったと知りましたが、我がゼーリガー家にもギムガルテ家へも、音沙汰はございませんでしたので」
「……ルウェルは、卿について何か言っているのか?」
「いえ、別れたのはあれが四つのときです。ゼーリガーの家名も覚えておらんのでしょう。しかしながら、ほかの弟達に顔がよく似ております」
しんみりと項垂れるラヒアックに気づかれないよう、エイルリヒはディルクの脇を小突いて耳打ちした。
「だからなんだって言うんです? この流れ」
「分からん」
ディルクも首を傾げるが、
「つきましては、」
近衛隊長が顔を上げた瞬間に兄弟は素早く居住まいを正す。
「陛下と殿下の身の安全を脅かしたのは、我が弟でございます。警備に穴があったことも否めませぬ。どうぞ、この件は私を処分することでお収めください」
神妙な訴えを聞いて「そういうことか」と納得する一方、ディルクの肩から力が抜けた。エイルリヒはあからさまに「どうでもいいし」という顔をしているのでちょっと小突いてやりたい。気持ちは分からなくもないのだが。
「実の兄弟だからといって卿が責任を感じる必要はない。ルウェルはもう他家に籍をおく身だし、そもそも母に、ひいては私に仕えていた。こんな程度のことで卿を処罰したりできない。むしろあの場の指揮系統を乱したのは私だ。私が責任をとる。……ところで、近衛隊に出た怪我人の数と容態は」
少しの間目を背けていた現実を、ディルクは不本意ながら思い出した。ラヒアックは王太子の言葉に納得していなさそうだが、淡々とルウェルに打ち負かされた者の名を挙げる。内、骨折の重傷者は二名もいた。
「すべて手当を終えました。王家の剣ともあろう騎士が不甲斐ないことです。これについても申し訳なく思います。明日からはいっそう鍛錬に励むよう、各小隊長に厳命いたします」
「それは……私も叙任式のあとからどうにかしていこうと思う」
渋い顔をする近衛隊長から視線を逸らし、ディルクは考える。
そうだな、ユニカの件以外にも、王太子として解決せねばならない問題がいくつかある。
しかし、まずは。
「明日、ルウェルと一緒に負傷した兵たちを見舞おう。兵舎を訪問するから、そのつもりで段取りを整えておいてくれないか」
「は、はあ……」
王太子が兵を見舞うなど、あまり例のないことである。ラヒアックは少々戸惑いながらも、微笑むディルクに頷き返した。
* * *
「ディルクってさぁ、王子さまになったんだよな? なんでヒラの兵になんかに頭下げてんの。俺の想像では、ふんぞり返ってくるしゅうないちこうよれ的なことが出来るようになったんだと思ってたんだけど」
ルウェルの一歩前を歩いて兵舎を出てきたディルクは、ぴたりと足を止めて振り返った。
「ルウェル、剣を出せ」
「ん? はい」
今朝返されたばかりの長剣をベルトから外し、彼は何も疑うことなく主に剣を差し出した。
「没収」
「んなっ!? 何でだよ! それ俺の仕事道具なんだけど!」
「心配するな城の中は平和だお前が大人しくしていればな」
「うわあ、棒読み。いや、悪かったって。でも俺の気持ちも分かってくれよ。嬉しかったんじゃん、お前が国中から歓迎されてるみたいでさ」
「だからといって城門を破るばかがどこにいる。『ここ』なんて言ってみろ、殴るぞ。衛兵隊と近衛隊の面子は丸潰れ、俺の管理統轄能力は疑われる、人が必死で新しい場所に馴染もうとしてる時にお前達は……」
ついつい溜まっていた色々なものが溢れ出しそうになり、ディルクははたと我に返って黙った。ルウェルの剣はもちろん返さないまま、この話題を終えるために踵を返す。
「お前達? 俺は単独犯だったんだけど」
首を傾げながらついてくるルウェルに教えてやるつもりはないが、ディルクがなじりたいもう一人の相手は勝手に毒を飲んで死にかけたエイルリヒのことである。
行列の襲撃から一夜明けて。
ディルクは営倉から解放したルウェルを伴って、宣言通り負傷した兵と騎士を見舞いに行った。ルウェルの悪戯心溢れる暴挙によって負傷した面々に言葉をかけ、回復したあとに戻る場所があることを保証しておくためだ。
ディルクとルウェルが親しい間柄であることはじきに周知の事実となるだろうから、こうでもしておかなければ連鎖的にディルクまで反感を抱かれかねない。
「でもそうかー、お前も必死か。城下で小耳に挟んだんだけど、お前、近衛隊長になるんだろ? 王家の軍の一番のお偉いさんじゃん。おめでと。昨日俺を踏みつけたおっさんが現職の隊長らしいけど、あんなむさいのよりディルクが上官のほうが士気が上がるよなー」
脳天気な声に呆れつつ、ディルクは肩越しにルウェルを顧みた。
ラヒアックと似ているところがあるだろうかと、馴染みの顔をじろじろ眺めてみる。が、日焼けした赤毛はひょんひょんとだらしなく跳ねているし、いつもにまにま笑っているルウェルと、上級貴族出身の武人らしく、身なり、表情から雰囲気に至るまでびしっと整えているラヒアックとの間に、共通点は見つけられなかった。
「お前、兄弟がいたんだってな。シヴィロに。聞いたことがなかった」
近衛隊長が兄だと気づいているのかは分からないので、ディルクは何気なくぼやかして言ってみる。しかしルウェルは飄々と笑いながら答えた。
「いねーよ。俺の兄弟はお前だけ」
「……主人を兄弟扱いするな」
「そう言うなよ、ホントに生まれた時からの付き合いじゃん。で、いつからディルクが近衛隊長になるんだ?」
「俺が就くのは近衛隊長の職じゃない。その一つ上の、新しい椅子に座る」
「へーえ、さらに偉いのか! さすが王子さまだなー。ところで俺が副官?」
「そんなわけがあるか。副官はラヒアックだ」
ルウェルは無邪気に瞳を輝かせたが、ディルクは前方に視線を戻しながら冷たく否定した。
こいつにも思い出したくない過去の一つや二つがあるのか、それとも本当にラヒアックらのことは覚えていないのか。
思えばルウェルは、ディルクの母とともに公国へやってきた時のことやそれ以前のことを一切口にしなかった。ディルクが生まれる前のことだったし、自身も触れたくない時代のことだったので尋ねようとも思わなかったが――これはやはり、推測の前者が当たっているのかもな。
ディルクがそんな思案をめぐらせる一方、期待を裏切られたルウェルはきっと目をつり上げ主の肩を掴んだ。
「じゃあ俺の仕事は!? まさか本気で剣取り上げるつもりじゃないよな!?」
ルウェルの剣の柄でその手を払いのけたディルクは、やかましい声に顔を顰めながら溜め息をつく。
「叫ぶな、うるさい。たまには、お前の独断行動をいかした仕事をさせてやる」
次は王の許へ行って、昨日の襲撃について弁明をしなくてはならなかった。忙しいところ時間を作ってもらったので、遅刻するわけにはいかないディルクは騎士を押し退けドンジョンへ向けて歩き出す。
「それ、説明になってねーんだけど。つーか、剣返せ」
戻ってこないのでは、といよいよ心配になったらしい。ルウェルはディルクの左手に手を伸ばしたが、剣は反対の手にひょいと持っていかれ奪還できない。
「お前には、トカゲを捕まえてもらう」
前を向いたままの主から告げられた言葉に、剣を取られた騎士は少しだけ目を瞠る。が、すぐににたりと下卑た笑みを浮かべた。
「なんか面白そうなことやってるんだな?」
「ああ」
「ふーん。いいぜ、付き合ってやる」
剣を取り返そうとするルウェルの手を避けながら、ディルクは見舞った近衛騎士の中にいた〝トカゲの尾〟を思い出し、口の端を吊り上げた。
* * *
一言でいうと、様子がおかしい。昨日の正午、少し前くらいから。
「ユニカ様?」
エリュゼが声を掛けると、寝台の上で毛布を被り座っていたユニカがびくりと跳ね上がって振り向いた。それと一緒に何かを枕の下に隠す。
「な、なに」
いつもの仏頂面だが、ものすごく狼狽している。エリュゼの後ろから様子を覗いていたフラレイ、テリエナ、リータは、うろたえるユニカの姿を見てとても新鮮な気分だった。
「ご昼食の用意が整いました。こちらのお部屋へおいでくださいまし」
「分かったわ」
「……はい」
エリュゼはユニカが寝台から降りてくるのを待ったが、彼女は一向に動こうとしない。なぜかこちらを睨み付けてくるばかりだ。
「あの……?」
「今行くから、一度扉を閉めて」
「はぁ」
命令通り、侍女たちは一歩引き下がって扉を閉めた。顔を見合わせているとすぐにユニカが出てくる。
ずっと同じ姿勢で寝台に座っていたのだろう。皺の寄ったドレスをぱたぱた叩いて伸ばしながら出てきた彼女は、目の前に侍女たちが並んで待っていたことに気づいて少しだけ動揺した。
「いただくわ、お昼……」
毛布を被っていたせいで、髪もちょんちょんと跳ねている。ユニカは気がついていないようだが、侍女たちは何となく指摘しづらかった。
様子がおかしい。その一言ゆえに。