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天槍のユニカ  作者: 暁子
第1章 凍てつく槍の来歴
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7.余韻(2)

 窓の外で鳥の羽ばたく音がした。


 ユニカはようやく自分が目を開けていたことに気づく。


 瞼に溜まった涙で天井がゆらゆらと揺れていた。恐る恐る瞬けば、生温い感傷はどっと溢れて流れ、こめかみから髪の中へと不快な感触を残しながら吸い込まれていった。


 ここはどこで、自分は何をしていたのだろう。悪夢の余韻が思考を乱し、なかなかそれが思い出せない。


 ユニカはぼんやりしながら見慣れぬ部屋に視線をさまよわせ、枕元に投げ出していた左腕に新しい小さな痣があることに気がついた。血抜きの針を刺した傷跡だ。


 ざあっと音を立て、記憶が蘇ってきた。ユニカの部屋へ現れた王太子。公子が毒を、ユニカの血で――


 すべて思い出したユニカは額を押さえながら起き上がる。


 ああ、そうだった。誰かを助けるために血を分け与えたりしないと決めていたのに、その掟を破ってしまったのだ。


 重い頭を抱えながらユニカは自嘲した。


 公子が助かるに越したことはない。助かって欲しいとも思う、けれど。


 もしユニカの血が公子を救ったと広く公表されたりしたら?


 暗い笑みを浮かべたまま、ユニカは膝を抱えて縮こまった。


 いずれ同じことが起きてしまうのではないだろうか。大好きな養父をこの血で救ったために起きたのと、同じことが。


 記憶の中にある狂った無数の目。ユニカはそれから逃れるように毛布を被って、再び寝台の上で丸くなる。


 隣室から話し声が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。





 ディルクを迎えたティアナはすっかり冷静さを取り戻していた。エイルリヒの容態が安定したという報せを聞いたのだろう。


「ユニカは?」


「寝室からお出になっていません。ずっとお休みのようです」


「そうか。もうじき日も暮れる。上へ戻って夕食の用意を頼む。俺はユニカを送っていくよ」


「かしこまりました。……あの、殿下」


 ティアナはソファの上に置いてあった外套をディルクに手渡し、寝室の方を気にしながら声を顰める。


「エイルリヒ様は本当に……」


 みなまで言い切らない内にティアナは口を噤んだ。婚約者の無事が分かって安堵したとはいっても、その過程についてはまったく信じられないらしい。


 胡乱げな顔をしつつ黙った彼女は、しかし答えを聞かないまま引き下がった。


 そう、信じられなくてもそれが事実で、結果エイルリヒは命を取り留めたのだ。己に必要だったのは結果だけ。ティアナはそうわきまえていた。ディルクも何も言わなかった。


 ディルクは侍女を送り出してから静かに寝室の扉を開ける。


 密かに弾ける暖炉の火。寝台の上ではユニカがこちらに背を向けて横になっている。寝息も聞こえないほど静かだ。


「ユニカ」


 呼んでみるが、返事はない。ディルクはそっと寝台の縁に座り、毛布に手をかける。するとその手は素早く伸びてきた別の手に掴まれた。


「起きていたのか」


 そんな予感はしていたので、ディルクはさして驚かなかった。こちらに背を向けていたユニカはゆっくりと首をひねり、侵入者めと言わんばかりに険しい目で睨みつけてくる。


「何をするつもりなの」


「外套を着せようと。部屋まで送るよ。……顔色が悪いが、起きられるか?」


「平気です。やっと帰してくださるのね」


 ユニカは淡々と返事をし、青白い顔で起き上がる。


 その肩に外套を羽織らせるディルクは、彼女の瞼が腫れぼったいことに気づいた。部屋は薄暗かったが、目許には涙の跡があるのも見える。当人は気づいていないらしい。


 ディルクはうつむくユニカの髪を掻き上げ、こめかみの濡れた跡を指でなぞった。


 あたたかい。そう思った瞬間、ユニカの振り上げた手が勢いよくディルクの手を払いのける。


「……触らないで」


 絞り出すように漏らした声は震えていた。


「嫌な夢をみたのか」


 手負いの獣のように、ユニカは気遣う言葉にすら鋭利な視線を返してきた。怯えているのだ。いったい何に怯えているのかディルクには分からなかったが、彼がすることは一つしかなかった。


 立ち上がり、身体を強ばらせるユニカを引き寄せる。短い悲鳴を上げられても構わず、暴れようとする彼女を抱え上げた。


「痛い思いをさせてすまなかった。戻ろう、君が安心して過ごせる場所に」






 陽は沈みかけ、空にかかっていた薄雲からちらりちらりと雪も落ちてきていた。迎賓館で起きた騒動の混乱はすっかり鎮まり、王城は夜の静けさを迎え入れようとしている。


 薄暮の中、ユニカは不思議な安心感に身を任せていた。人の顔も判別し辛い時間になってきたので、門をくぐる度に兵士に会ってもさほど緊張せずに済むせいだろうか。


 それとも……、と、ユニカは何気なくディルクを見上げる。


 ――痛い思いをさせてすまなかった。


 それに気づいてくれる人は、今まで何人いただろう。


 血に癒しの力があって、短剣で刺されても無事な命。でも、ユニカが感じる苦痛は普通の人間と同じだった。


 ユニカの噂を知る多くの人間はそれに気づかない。強靱な身体、不屈の命。ユニカが痛みや恐怖を感じるかどうかなど、気にかける者はそういまい。


 しかしディルクはユニカの感じる苦痛を当たり前のものとして口にした。


 彼は、それを分かってくれるのだ。


(王妃様以来だわ……)


 そんな人間に、出会ったのは。


 内郭から駆け下りてきた時とは打って変わり、ディルクはゆっくりと馬を歩かせて道を上った。


 戻りに急ぐ必要はないし、馬上の揺れがユニカの身体に負担をかけることも気にしてくれている。おかげで疼くような傷の痛みもひどくなる気配はなかった。


 しかしその時、不意に馬の歩調が乱れた。この馬は大人を二人乗せて雪道を歩くのが不服らしい。ディルクが御していてもさっきからこうして駄々をこねる。


 頭の上から舌打ちするのが聞こえた。しかしディルクに慌てた様子はなく、片手で持った手綱をぐっと引いて馬を宥め、平衡を失いかけたユニカの腰を更に強く抱え込んだ。


「ちょ、ちょっと……」


「ん?」


「支えてくれなくてもいいわ」


「こいつがぜんぜん言うことを聞かないから、上着を握られているだけでは私が不安なんだ。おっと……」


 再びぶるるっと唸って馬が首を振った。ディルクがすぐに抑え込んだが、ユニカは揺れた拍子に彼の胸にしがみつく羽目になった。慌てて離れようとしたが、肩を抱き寄せられる。


「もたれ掛かっていてくれないか。この方が支えやすい」


「……」


 肩に乗っているディルクの手を、ユニカは落ち着かない気分で見つめる。ところがそれはするりと滑って視界から姿を消し、元のように腰に添えられたのが分かった。


「……」


 もたれかかっていればその手がいらなくなるわけではないのか。言ってやりたい気もしたが、ユニカは黙ってディルクの言葉に従った。

 どうせ鞍上では身を寄せ合っているしかないわけだし、扱いづらい馬をそれでも御しているのはディルクだ。彼がやりやすいというなら、仕方ない。


 ユニカは躊躇いながらもディルクに体重を預ける。互いに分厚い外套を着ていたが、これだけくっついていればほのかにぬくもりが伝わってくる気がした。そう思ってしまうとなおさら落ち着かない。


「礼がしたいんだが、」


 内郭の門が近づいてきた頃、しばらく沈黙していたディルクがぽつりと言った。


「礼?」


 顔を上げれば、思っていた以上に近いところでディルクが微笑んでいる。篝火の前を通り過ぎる時、鮮やかな炎を受け入れた瞳にはユニカの驚く顔が映っているのが分かった。


「詫び、と言った方がいいのかな。了解はしてもらったが、強引に連れ出してしまっただろう。嫌な思いをさせた。おかげでエイルリヒは助かりそうだよ」


「そう……」


 ほっとしつつも、ユニカはうつむいた。ディルクから目を逸らすためでもあり、己の血から目を逸らすためでもあり。


「今日のことは、いったいどんなふうに始末がつけられるのですか」


「何もなかったことにする」


「え……」


「言っただろう。シヴィロ王国とウゼロ公国の関係はそんなに単純じゃない。それに、エイルリヒが王城の中で危害を加えられたとなれば、犯人を捜さないわけにはいかない。けれどその犯人がもしもシヴィロ貴族だったら? エイルリヒが死ぬのと同じくらいにまずい。だから表向きは何もなかったことにするんだ。公国には、昼食会の主催者である私の監督不行き届きだったということで償いをする。それで終わりだ。だから、今のところは君の存在も公に明かすわけではないよ。……それが心配だったんだろう?」


 顔を覗き込まれそうになり、ユニカはいっそう首をすくめてフードを目深に被った。


 しかしディルクが言うことは当たっていて、『天槍の娘』の血がエイルリヒを救ったのだと吹聴されるのをユニカは恐れていた。


 よかった。これでまた、部屋に籠もって平穏に暮らしていけそうだ。


「何がいい?」


 ユニカの肩からふっと力が抜けるのを感じつつ、ディルクは彼女を驚かせるためにわざと耳許で囁いた。ユニカは思った通りの反応を見せてくれる。びっくりして身体を離そうとする彼女を抱き寄せ、ディルクは首を傾げて見せた。


「何が、って……」


「何か欲しいものはないか? ああ、本はどうだろう」


「……どうして本なの」


 フードの縁から覗くユニカの表情に、ディルクはおやっと思った。明らかな興味がユニカの青い瞳に映ったのだ。初めて見る表情だった。


「バイルシュミット王の古典をすぐに言い当てたじゃないか。王家の伝記も読んでいたし、読書が好きなのかと思って。いや、しかし王家の図書館があるから本には困っていないのかな。蔵書が豊富だと侍従が自慢していた」


「八年も通い続けていれば、さすがに読み尽くしました」


「八年?」


 それはユニカが王城で暮らしてきた年月だった。ユニカが数百人の命を奪ってからの年月でもある。


 それについて訊ねようか、ディルクは一瞬迷う。しかしやめた。まだ、それを語ってくれるほど心を許してくれてはいまい。


「読み尽くしたか。それはすごいな」


 八年。その数に触れられることをユニカも警戒したようだが、ディルクがただ感嘆するので、彼女はほっとしたらしかった。


「いえ、物語や、歴史の本はという意味で……。数学や法律の本は読んでいませんから」


「それでもすごいよ。よほど夢中で読まなければあの図書館は制覇出来ないさ。やっぱり本にしよう。せっかくだから、あの図書館には入らないような本がいいな。庶民の間で流行っている小説なんてどうだろうか。意外に面白いよ」


「読んだことがおありなのですか?」


「テドッツで流行っていたものはいくつかね。アマリアの流行は知らないが、興味があるかい?」


 ユニカはきゅっと唇を噛んだ。侍女たちが巷で流行りの小説についてはしゃぎながら話していたのを思い出し、胸の辺りがうずうずした。しかし素直に言葉は出てこない。


 そうしている内に内郭へたどり着き、ドンジョンの門をくぐる前に馬を下りることになった。


 自分で歩こうとするユニカを、ディルクは当たり前のように抱きかかえる。門を守る兵士たちの視線が痛い。


 しかしその視線もすぐに感じなくなった。西の宮を守る兵士は一人としていないのだ。


 もの寂しい薄闇の中、ちらつく小雪が白い灯りのようにも見える。


 ディルクと自分の息づかいしか聞こえないほどの静けさは、ユニカにとって馴染みのあるもののはずだった。やっと戻れた。そう安堵する反面、なにか惜しいような気もした。


 西の宮へ入ると、二人はすぐに外套を着込んだエリュゼと出くわした。どうやらユニカを迎えに行こうとしていたらしい。


 ユニカが無理矢理連れ去られたと思っているのか、ディルクを迎えた侍女の目は心なしか冷ややかである。


「王太子殿下、ここで結構です。あとはエリュゼの肩を借りて歩きますから」


「いや、最後まで送るよ」


 侍女が面白くなさそうな顔をしたところで、ディルクがすごすごと退散するはずもない。降りるつもりでいたユニカを抱え直し、ディルクは本当に部屋までやって来た。


 そして、いつもユニカがくつろいでいる寝椅子(カウチ)に彼女を降ろすと、肘掛けに手をついたままユニカに覆い被さるようにして離れていかない。


「殿下……?」


 静かな眼差しでただ見つめられるばかり。ユニカはどぎまぎしながら視線を逸らした。


 今日は何度も近いところで彼の目を見ている。その中に自分の影を見つけると、どうしていいか分からない。


 ディルクはしばらくユニカが戸惑う様子を観察していた。やがてくすりと控えめな笑みをこぼし、おもむろにその場に跪いた。同時に彼女の手を掬い上げ、指先に触れるか触れないかの口づけをした。


「近いうちにいい本を探して届けさせるよ。――今日はありがとう」


 ユニカは大きく目を瞠る。


 ありがとう。


 ありがとう、と、言われた?


 ディルクは呆けているユニカの手にもう一度口づけ、すっくと立ち上がった。去ろうとする彼をテリエナとフラレイが競うようにして見送りに行ったが、ユニカは呆然としたままでそれにも気がつかなかった。


「ユニカ様?」


 エリュゼに声をかけられてユニカはようやく我に返る。


「お身体の具合はいかがですか。どこかお辛いところは……」


「大丈夫よ。でも、疲れたからもう休むわ」


「かしこまりました」


 いつもならしつこく食事を勧めるエリュゼだったが、この時ばかりは何も言わなかった。


 彼女が寝室の支度に向かうと、ユニカはディルクに口づけられた手を見下ろしながら、唇が触れた場所をさすった。


 こんなに忌まわしい力に礼を言う者がいるのかと、ユニカはただ驚いていた。

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