6.冷たい夢(5)
ナイフの柄が食い込むような深い刺し傷に出来る治療はほとんどない。初老の村医者はそう言って肩を落としたきりだった。
彼には都で学んだアヒムのように幾万とある薬を使う知識はないし、せいぜい止血止痛などの薬草をいくらか知っているのと、農作業なんかでざっくり切ってしまった手足の傷を縫い合わせられるだけである。
だから彼はアヒムが医術を心得た導師として村に戻ってきたことを喜んだ。
経験となけなしの知識で医者を名乗ってきた自分には治せない病も、アヒムなら治すことが出来る。自分もその方法を教えてもらおう。
そう思いながらアヒムの治療を時々手伝い、老いてもの覚えの悪くなった頭で苦労しながら、オリエは少しずつ医薬の知識を増やしていた。
それがどういうことだ。朝日に照らされてもなお青白いアヒムの顔を見下ろし、オリエは涙ぐんだ。
傷は縫った。血も止まったが、失われた量があまりに多い。呼吸も弱い。今日の昼までこの青年の命は保つだろうか。この状態は薬でもどうにも出来まい。
隣の街へ自分よりは知識の豊富な医者を呼びに行かせたが、その人が何も出来ることはないと宣告する姿が目に浮かぶ。
やるせなくてたまらなくなったオリエは、涙をぬぐってからアヒムの寝室を出た。
食堂を兼ねた居間へ行くと、ここでもまたやりきれない気持ちでいっぱいになった。
テーブルに着いたまま動かない娘が二人いた。ユニカとキルルだ。
ユニカは座ってうつむいたまま声を殺して泣き続けているし、キルルは暗い目をして宙を睨んでいる。
ユニカにとっても、キルルにとっても、アヒムの存在は大きい。彼が今にも息絶えそうなことは分かっているのだろうが、その姿を見るに堪えないのか、どちらも治療が終わってからアヒムに近寄ろうとしなかった。
「お前たち、アヒムについていてやりなさい」
二人に向かって言ったが、反応はない。
それ以上かけてやる言葉が見つからず、情けなくてたまらなかったが、オリエは心の中で詫びただけでアヒムの家を出た。
レーナの葬儀は隣村から駆けつけた導師が代行してくれるので、今日の午後には執り行われる予定だ。そちらを手伝いに行こう、とオリエは思った。
ヘルゲは自警団によって拘束され、牢に入れられている。いずれ太守の兵隊がやって来てヘルゲを都へ連行していくだろう。
ヘルゲが刺した相手は導師だ。国教の担い手である聖職者を殺傷すれば、都の大教会堂で審問され処罰される。アヒムが死ねば、ヘルゲもまた死ぬだろう。
死が続くことはよくある。
そういう時はどうしようもない。ただその流れが止まるのを見守るばかりだ。
けれど今回は、違う予感もあった。アヒムの傍にいるのがあの娘たち――どちらもアヒムによって死から掬い上げられた二人だからだろうか。
もしアヒムがいなくなったら、彼女らはどうするだろう。
オリエはぞくりと背中が粟立つのをやり過ごして教会堂へ向かう。
ほかに誰もいなくなったアヒムの家で、キルルの視線がゆっくりとユニカに向けられたことを知る者はいなかった。
「あんた、ヘルゲに何されて逃げてたの?」
頭から被るようにして毛布にくるまっていたキルルは、虚ろな目で呟いた。誰かに話しかけたような口調ではなかったので、ユニカはつい反応が遅れた。
「え……」
「ヘルゲに追いかけられて逃げてたでしょ。何をされたの? 血をくれって、言われたんじゃないの」
「なん、で、知っているの?」
ユニカが泣きはらした目を瞠ると、キルルは肩を揺すって小さく笑い声をもらした。
「ヘルゲの気持ち、分からなくもないもの。あたしも今、すごく迷ってるわ。……このままじゃアヒムが死ぬの。でも、あんたから血を奪ったりしたらアヒムは怒ると思うのよね。だけど、あんたがいいって言ってくれれば……」
どこかで聞いたようなその台詞に、ユニカはごくりと唾を飲む。にわかに緊張したユニカを見ても、やはりキルルは笑った。
「ヘルゲもあたしも、何を言ってるか分からない? 教えてあげようか。あんたが知らないこと、都合よく忘れちゃってること」
そして、アヒムが必死でユニカに隠そうとしている秘密。
そのこともユニカは知らない。教えたりしたら、アヒムは怒るし悲しむだろう。それは分かっている。
けれど、ユニカだってアヒムを失いたくはないはずだ。
キルルはユニカが呆然としながら頷くのを見て、決めた。ユニカに選ばせよう、と。
「あんたの血には怪我や病を治す力があるのよ。あんた自身も怪我をしたってすぐに治るし、病気にもならない。心当たりはない?」
ユニカはヘルゲに斬りつけられた腕をまくってみた。そういえば、すっかり忘れていたが痛くない。そこには薄紫の細長い痣が残っているだけだった。
しかし、服についた血がもとは切り傷だったことを示している。ユニカは驚き息を呑んだだけだったが、キルルにはユニカが何かに気づいたのだと分かった。
「ヘルゲに切られたの? もう治ってるとしたら、ちょっと早すぎるわよ。普通の人間ならしばらく押さえておくなり縫うなりしなきゃいけないんだから。あんただけが違うの」
「みんな、知っているの? わたしの身体のこと、村長さんや、ロヴェリーさんも? ほかのみんなも?」
「そうよ、だってあんたの親は、あんたの血を薬として売って暮らしてたんだから。それで助かった人間も大勢いるのよ。だから、みんな知っているわ」
ユニカは胸の奥がすうっと冷えるのを感じた。
傷跡を見つめたまま、ヘルゲの言った、キルルの言った言葉を反芻する。
病人や怪我人がアヒムの許へ相談に来る時、アヒムはよく用事を言いつけたり、キルルに連れ出させたりしてユニカを家から遠ざけようとした。それでも時折、患者たちと鉢合わせてしまうことはある。
その時の彼らの視線。ユニカをじっと見てもの言いたげに苦笑し、アヒムに遮られるようにして顔を反らすのだ。あれは、
「みんな、わたしの血が、欲しくて……?」
「この間までとっても高価だった薬が、今はあんたとアヒムさえいいって言えば手に入りそうなものだもの。アヒムに迫った人も何人もいたのよ。絶対にだめだって、彼は一生懸命に拒んでた。アヒムがグラウン家の導師でよかったわね。都の宗家の権威ってやつがあんたを守ってくれたの。そうでなきゃ、あんたなんてとっくに攫われて売りものにされてたところよ」
アヒムは教会の一大勢力であるグラウン家の末座に列なる導師だ。その宗家を通して、彼は戸籍の管理者でもある教会へ、正式な手順を踏んでユニカを養子にすることを届け出ていた。特別な事情のある子供ゆえ、この養子縁組を教会で確実に受理し、保証と後見を頼みたいとまで念を押していたのである。
〝事情〟まで話していたかは分からないが、都から「諾」と返事が届いたことをアヒムは村中に伝えた。国の南端にある小さな村において、国教の本拠である教会とその中枢を担うグラウン宗家の名は王家の紋章より威力があった。
これもユニカは知らないことだったが、アヒムはユニカを守ることに関して並々ならぬ決意をしていたのだ。
キルルは、それが妬ましかった。
「ユニカ、あんたを守ってくれる人が、あんたのせいで死ぬわよ」
自分の腕を見下ろしながら震えていたユニカは、弾かれたように顔を上げる。
「あんたを庇ってアヒムは刺されたの。だからあんたのせいよ」
ユニカは痛みも恐怖も感じる。アヒムはその痛みと恐怖からユニカを守ろうとしたのだ。自分の身体を投げ出してまで。ユニカなら、ナイフでひと突きされたくらいでは死ななかったはずなのに。
とても赦せなかった。十年近く離ればなれになっていた初恋のひとがようやく帰ってきたというのに、一年も経たずして彼の心はほかの者に奪われた。
たとえ相手が娘として迎えられた小さな女の子でも、アヒムが一番愛しているのはユニカなのだ。
「どうして、あんたのためにアヒムが傷つかなくちゃいけないの」
アヒムがユニカを引き取って間もない頃、消えない恐怖と不安で泣き続け、自分の身体を傷つける少女を抱えて、アヒム自身も憔悴していたのを覚えている。
それでも彼はユニカを手放さなかった。彼が何もかもを注ぎ込んで守ろうとする相手は、キルルでなくユニカだった。
ぱたぱたと音を立てて、スカートを握りしめていた手の甲に涙が落ちる。ユニカの手にも、キルルの手にも。
二人は罪悪感と怒りに染まったそれぞれの目で見つめ合った。
「アヒムを助けてよ、ユニカ」
胸の奥が熱く、ユニカが憎たらしい。この子供がいなければ、村に帰ってきたアヒムはキルルを見てくれたはずだ。最初は幼馴染みとしてでもいい、いずれ、彼を想う一人の娘であることに気づいてくれればよかった。
でも、ユニカがいる。
「あんたが嫌だって言うなら、アヒムが死ぬだけよ」
アヒムを失うのが恐い。だから涙が溢れてくる。
「どうしたら助けられるか、分かるでしょう」
ユニカが拒むはずはなかった。
「導師様に、血を、あげればいいの……?」
「そうよ。いい子ね」
だから、選ばせた自分は結局アヒムを失うことになるだろうなと、キルルは予感した。
だから、涙が止まらなかった。
* * *
「一緒に来て。アヒムの道具の中に血を抜く管があったはずよ」
キルルは毛布を脱ぎ捨てると、木製のコップを一つ持ってアヒムの部屋に向かった。
アヒムは影の中で青白い顔をして眠っている。
ユニカは養父の顔を見ると居ても立ってもいられなくなり、傍に駆け寄って微かに聞こえる寝息を確かめた。ほっとする反面、血が通っているのを疑いたくなるほど白くくすんだアヒムの肌色に死を感じとり、息が詰まった。
キルルは無言のままアヒムを見下ろしていただけで、すぐに治療道具の入った鞄を手にとって中を検め始める。
「あった」
かちゃかちゃと金属のぶつかる音が途絶えたことに気がつき振り返ると、キルルはアヒムの机に広げた道具の中から太い針を何本か手にとって眺めていた。
「これが一番細いわね。ユニカ、椅子に座って」
ユニカはごくりと唾を飲んで、もう一度アヒムの顔を見下ろしてからキルルが指した椅子に座る。
「痛いでしょうけど、少し辛抱するのよ」
ユニカの細い腕に、鈍い銀色の管が埋もれていく。
柔らかな皮膚を破る感触にキルルは思わず手を止めたが、針の先はしっかりとユニカの体内に達し、血を吐き出した。ぷつぷつと溢れ出てくる滴をコップで受け止めていると、二口で飲めるほどの血が溜まる。
そして針を抜いた傷跡をキルルが綿布でぬぐうと、ユニカの肌には青黒い痣が残っているだけだった。まるで二人の後ろめたさを悟り姿を隠したように、傷は一瞬で消えていた。
「これでアヒムは目を覚ますわ」
キルルは針を床に棄て、大切そうにコップを両手で包み、アヒムの枕元へ運ぶ。
「アヒム、ちょっとだけ身体を起こして。ユニカの血を飲むのよ。そしたらあんな傷、すぐに治るわ」
なにごともないかのような静かな朝。死者を送るしめやかな日の朝。
ただそれだけの、いつも通りの朝が明日も来なくてはいけない、わたしと、彼のもとには。
キルルはそう強く念じながらアヒムを抱き起こし、コップを彼の唇に押し当てる。温い血でアヒムの口許が汚れるものの、その奥に流れ込んだ血はそのまま口の端からこぼれ出てきた。
首筋を伝った血がアヒムのシャツを染めるのを見たキルルは、わなわなと震えてからコップに残っていた血を呷った。
そして乱暴なくらいに強くアヒムの上半身を抱きしめ、ぶつけるように唇を重ねる。
苦しいのか、痛みが一瞬でもアヒムの意識を呼び戻したのか、小さく呻く声がユニカにも聞こえた。
あるいはキルルの声だったのかも知れないが、長い口づけの末、アヒムの喉がわずかに二、三度上下する。
口に含んでいた血をすべてアヒムの喉に流し込んだキルルは、彼を抱きしめたまま寝台に倒れ込んだ。
「……っ、これで、大丈夫よ」
キルルは微笑みながら涙を浮かべる。口許を血で汚したまま、アヒムの頬や首筋に垂れた血を自分の袖で拭き取る。一通りそれが済むと、彼女はアヒムの胸に突っ伏して泣き始めた。
「ごめ……っごめんなさいアヒム、あたし、どうしても――! ごめんなさい、ごめんね……っ」
ユニカは震えながら泣きじゃくるキルルの背をぼんやりと眺めていたが、やがてそっと寝室を抜け出した。
アヒムとキルルの唇を濡らす赤色。
それを思い出すと、胃の底から何かがせり上がってきた。
気持ち悪い。
血は、薬なんかじゃないのに。
(でも、わたしの血は、違う)
怪我人の傷を懸命に手当てし、痛みを取り除こうとするアヒムの姿を見たことがあるだけに、その知識や技術を尊敬していただけに、ユニカは自分に宿る〝血〟の異端であることをすぐに理解してしまった。
その血が、どんなに人を惑わすものであるのかも。
廊下の窓から空を見上げる。東の空は明るいが、村の上には雲があるらしい。地面に触れては消えるほどの頼りない雪が降っていた。
なんて静か。
きっと、わたし一人がいなくなっても誰も気がつかない。
足音も、足跡も、雪が消してくれるはずだ。




