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天槍のユニカ  作者: 暁子
第1章 凍てつく槍の来歴
22/62

6.冷たい夢(4)

 ヘルゲは教会堂の裏口の扉を開けているユニカに躍りかかった。しかしその手が届くより早く、彼女は教会堂の中へ転がり込む。


 慌ただしく入ってきた足音に、テーブルを囲み話し合っていたアヒムと村人、そしてヘルゲとレーナの親族が一斉に振り返る。


「ユニカ?」


 ユニカは祭壇の前で転んだものの、涙でぼやけた視界の中ですぐにアヒムを見つけ出した。彼は立ち上がってまろぶように駆け寄ってくるユニカを迎えてくれる。養父の腰に抱きついた途端、ユニカは堰を切って泣き出した。


 娘を抱きしめ宥めながら、アヒムはユニカが飛び込んできた祭壇横の裏口を、その前に立ちつくすヘルゲを無言で見つめた。


「ヘルゲ、お前、何を……」


 ヘルゲの手にナイフが握られているのを見つけた村長は震える声で言った。ヘルゲは引き攣った笑顔を浮かべ、肩を竦めて見せる。


「いや――ユニカに頼みがあって」


「そのナイフは何だ!? 何に使う!」


 しかし、一喝されるとその笑みも消えた。悪戯を暴かれ叱られることを悟った子供のような絶望が男の目に浮かぶ。


「ユニカの血があれば、レーナを助けられると思ったんだよ」


「何をばかな! ユニカの血が癒せるのは怪我と病だ。死人が甦るはずなど――」


「村長、待ってください」


 ユニカの腕に赤い傷跡があると気づいたアヒムは、小さな身体を背に庇いながら背筋を伸ばした。


「ヘルゲ、私がユニカを引き取った時に、みんなに約束してもらったはずだ。もちろん君にも」


「分かってるよ! でもな、」


「ユニカは普通の子供だ。この子の血が病や怪我を癒すことなんてない」


「頼むよアヒム。俺だって分かってるさ。ユニカはちょっと口べただが気の利くいい子供だ。痛い思いをさせるのは可哀想だって思うんだぜ? でも、もしかしたらユニカの血でレーナが目を覚ますかも知れないだろ? うまくいかなかったら俺だって諦める。だから今日だけ、少しだけでいい。ユニカの血をくれ! 試したいんだ」


 ユニカは声を殺して泣きながらアヒムに掴まる腕にぎゅっと力を込めた。


 血、血、その言葉が聞こえる度に心臓が縮こまって痛む。


 ヘルゲは神に祈るように胸の前で手を組みながら、アヒムたちの方へ近づいてきた。


 ナイフは両手の中に握られたままで、時折灯りを受けてきらりと輝く。その刃はヘルゲに取り憑いた執念そのものだ。


「止まりなさい」


 アヒムはヘルゲに向かって冷ややかに言い放った。これほど何かを拒絶する彼の表情を、後にも先にも見た者はいない。


 ヘルゲはその場で大人しく跪き、少し離れたところに佇む導師アヒムを仰ぎ見た。


「お願いです導師様。レーナを『神の娘』の血で救ってください。私の許へ妻を返してください」


「神の娘などここにはいないよ。君が傷つけたのは、ただの十にも満たない女の子だ。……これは罪に問われることだ。村長、自警団長を呼びましょう」


「アヒム!!」


「ヘルゲ、ちゃんとレーナさんを送るんだ。君がそんなことでは、レーナさんも、君の子の魂も神々の許へ還れない」


 ヘルゲは痙攣するように震え、泣き崩れた。そして狼の遠吠えのような声を上げて床を殴りつけ始める。


 床を伝ってくる振動に怯えるユニカを、アヒムが抱き上げた。


「恐かったね。大丈夫、ゆっくり息を吸ってごらん。次は吐いて」


 養父は優しく言ってくれるが、ユニカは思うように息さえ出来ない。しゃくり上げるのを止められずにアヒムの首にしがみつく。


「レーナは神様のところへなんか行かなくていいんだよ、ここにいて欲しいだけだ。それの何が悪い……俺はユニカを殺せって言ってるわけじゃねぇ!!」


 這いつくばって泣いていたヘルゲは、床に額を擦りつけたまま叫んだ。


「アヒム、ユニカは自分の血のことを知らねぇぞ。お前、何かしたんだろう。都から薬を取り寄せて、ユニカに何しやがったんだ? 血を独り占めにするつもりなんだな。お前は医者だ、珍しい〝薬〟は自分だけのもんにしておきてぇよな」


「ヘルゲ……」


 ユニカはアヒムの声が震えたのに気づいた。その彼と目が合い、息を呑む。


「ユニカ、すまない」


 彼は謝った。ユニカが養父も故郷も亡くし、王城に引き取られるまで、それが何に対する謝罪だったのか知ることはない。けれどその理由を知った時、ユニカは養父がユニカから奪ったものを同時に知った。


「村長、自警団長を、早く。ヘルゲが落ち着くまで、ユニカから引き離さなくては」


「そ、そうだ! エルマー、悪いがそういうことだ。しばらくヘルゲを見張らせてもらうぞ。リドーを呼んでくるんだ!」


 ヘルゲの兄は批難のこもった目で弟を睥睨し、黙って灯りを持ち教会堂を出て行った。


 扉の閉まる音が不気味な沈黙の中に響く。その余韻も消えると、ヘルゲはぶるぶると拳を震わせながら立ち上がった。ユニカを抱き上げ背を向けたままのアヒムを、憎悪のこもった目で睨み付けながら歩いてくる。


「ヘルゲ! 動くんじゃない、大人しくそこで待て!」


 村長が怒鳴っても聞こうとせず、彼は一歩一歩、床板を大きく踏みならしながら近づいてくる。手に持ったナイフを握り直すのが見え、皆息を呑んだ。

「導師様……」


「大丈夫」


 アヒムはユニカを抱えたまま振り返り、殺意を持ってこちらへ歩いてくるヘルゲを見つめ返した。灯りを反射しぎらつくヘルゲの目に射すくめられ、ユニカはアヒムの首筋にぎゅっとしがみつく。


「アヒム、なぁ、頼むよ。俺とレーナの結婚式を挙げてくれたのはお前だろ。子供が出来たの、お前だって喜んでくれたじゃねぇか。俺は、まだレーナと一緒にいたいんだ」


「そのためにユニカに犠牲を強いるのは間違っている。この子は普通の子だ。私の娘になった時から」


「――そうかよ。じゃあ、仕方ねぇや」


 ヘルゲは一瞬だけ普段と変わらない笑みを浮かべた。それが彼の中で消えた最後の理性だったのだろう。


「お、おい!」


 アヒムの前に立ちふさがった義父を突き飛ばし、ヘルゲがナイフを振り上げユニカに手を伸ばす。アヒムはその手を避けようとしない、が、


 ごんっ! と鈍く重い音がした瞬間、ヘルゲは硬直した。そしてゆっくりと崩れ落ちていく。


 予想外の出来事に呆気にとられ、アヒムも村長らも目を瞬かせて倒れたヘルゲの背中を見下ろした。


「まったく、様子が変だと思ったら」


 緊張感が一瞬で抜け落ちた空気の中に、不機嫌そうに響く声があった。一同は祭壇の方を振り返り、薄闇の中に立っているキルルを見つけた。どうやら、彼女も裏口から駆け込んできたらしい。


「ごめんなさいアヒム。あれ、割れてしまったわ」


 彼女が指さす先にはヘルゲの傍で真っ二つになった陶製の壺がある。毎朝毎夕、アヒムが祭壇に捧げる水を汲むための儀式の道具だった。どうやらキルルは、裏口にほど近い祭壇からそれを引っ掴んでヘルゲの頭に投げつけたようだ。


「ナイフが見えたからつい……。アヒムも避けようとしてないんだもの」


「引き付けてからかわして足を引っかけようと思って……でも助かった、ありがとう。それよりキルル、顔が腫れてる。どうした?」


 アヒムはユニカを降ろして燭台を手に取った。そうしてキルルの頬と切れた唇に手を触れる。


「ヘルゲに殴られたのよ。ものすごい形相でユニカを追いかけてるから何があったのか訊こうとしたら、思いっきり。ちょっと気を失ってたんだけど、ユニカが行くとしたらアヒムのところだろうと思って、追いかけて、それで」


 壺を投げたわけだ。


「冷やさないと」


 アヒムに唇を見つめられ、キルルは頬を染めながら顔を反らした。


「あとでいいわ。その前に、ヘルゲを縛っておいた方がいいんじゃない?」


 キルルはそう言ってヘルゲの肩をちょんと蹴る。


 壺の一撃を食らったヘルゲはすっかり沈黙している――はずだった。しかし彼の指がぴくりと動いたかと思うと、次の瞬間、その手はキルルの足首を掴んでいた。


「このアマぁ!」


 獣のような瞬発力で起き上がったヘルゲはキルルを引き倒し、傍に落ちていたナイフを再び手に入れ振り上げた。


 そして彼の血走る目は、すぐ傍にユニカがいることに気づく。


 彼はにたりと笑った。掴んでいたキルルの脚を放し、振り上げたナイフの切っ先をユニカに向け変える。


 大きな男の影に包まれた恐怖で、ユニカの視界が真っ白に弾けた。


 きらめく刃が迫る。けれど身体は動かない。


 いやだ、こわい、いたいのは、いやだ!


 ユニカはすべてを拒んできつく目を閉じた。


 そんな彼女の前に滑り込む黒い法衣。優しい香木の匂い。


 はっとしたユニカが目を見開いた途端、どん、と鈍い音がした。


「……っきゃああああ!! アヒム!!」


 ほんのわずかの、けれどもたっぷりと長い沈黙のあと、尻餅をついたまま倒れていたキルルが悲鳴をあげる。


 誰もが、再びその場を支配した静寂に愕然とした。


「ど、し、さま……」


 ユニカはへたり込みながらも、ヘルゲと自分の間に割り込んできた養父の腰にしがみついた。するとヘルゲに寄りかかっていたアヒムは、ゆっくりと振り返って微笑んでくれる。


「ヘルゲ」


 養父はすぐに友人に向き直り、大きな男の肩をそっと抱きしめた。


「すまなかった。もっと強く、君を説得していれば、あの場所に住み続けてはいけないとはっきり言っていれば……。けれど、ユニカは普通の女の子なんだ。ユニカを犠牲にしないでくれ。レーナさんを、一緒に送ろう」


「――嫌だ!」


 ヘルゲはひときわ大きな涙の粒をこぼし、大きくかぶりを振ってアヒムを突き飛ばした。


 その拍子にナイフが抜け落ちる。ぼたぼたと垂れる重い水音、灯りを跳ね返してぬめった輝きを放つ黒い液体、柄までその黒に染まったナイフが転がる音。


 アヒムは呻き声の一つももらさずその場に膝をつく。


 うずくまる彼に、キルルが、村長達が駆け寄る。キルルはエプロンを外して、横たえられたアヒムの腹を押さえつけながら泣き出した。


 彼女のお気に入りのエプロンが徐々に黒っぽく染まっていく。


 どうしてかしら、とユニカは首を傾げた。


 導師様の服が黒いから? 夜の闇のせい? あの黒い水は何?


 アヒムから離れたところではヘルゲが喚きながら床を這い回っていた。濡れた手で頭を掻きむしり、妻の名を呼び、行かないでくれと泣いている。


 彼が村人達の影の間を横切る時、その手を濡らしている色がユニカにも見えた。


 あれは黒じゃないわ。あれは赤だわ。


 導師様の血の色!


 ユニカの中で何かが燃え上がった。青白い光が勢いよく膨れ脳裏に満ちた。


 ばしんっ と鞭を打つような音が響くと同時に、祭壇にある真鍮の道具類が弾け飛んだ。キルルたちはぎょっとして顔を上げ、迷わずユニカを見た。


「ひ……」


 誰かが悲鳴をあげかけるが、這い回るヘルゲを無言で睨むユニカの目に留まることを恐れ、それすら呑み込んでしまう。


 鞭を打つような音はアヒムの耳にも届いていた。それは彼がユニカと村人の心に施した封印が解ける音。青白い光――ユニカが生み出した稲妻が祭壇の一部を破壊するのを視界の端に捉え、唇を噛む。


 だめだ。止めてあげなくては。


 アヒムはやっとの思いで首を動かし、虚ろな瞳でヘルゲの姿を追うユニカの様子をぼやける視界に映した。


「ユニカ……っ」


 手を伸ばしたつもりだが、ほんの少し腕が持ち上がっただけだ。掠れた声はユニカにも届いていない。


「アヒム、静かにして、動いちゃだめよ」


 キルルが、ユニカに向けて伸ばしたアヒムの手をとり泣きながら訴えてくる。


 そんなことは分かっている。でも、


「ユニカ!!」


 全身に力を入れて怒鳴ると、ユニカはようやく震えて反応を示した。


 こんなふうに叱ったことはない。驚いただろうなと思いながら、アヒムは娘に笑いかける。傷口から血の塊が溢れたのには気がつかなかったことにして。


「いい子だ、落ち着いて。こっちへおいで」


 おやすみのキスをする時と同じように優しく呼びかけると、虚ろだったユニカに表情が戻った。小さな娘はくしゃりと顔を歪ませ、アヒムの傍へ這い寄ってくる。


「どう、し、さ、ま……っ」


 涙でぼろぼろに濡れた頬を撫でてやりたいが、キルルの手を振り払う力が出ない。もどかしく思いながら、アヒムは声を振り絞る。


「君は、普通の子だ。私、の、大切な、」


 言ってあげなくては。大切な娘、可愛い子、愛しているって。


 君には病を治す力も、傷を癒す力も、〝人を焼き殺す力もない〟。


 ただ私の娘だと。


 けれど音も光も遠ざかる。声を出しているつもりだが、それも聞こえなくなっていく。


「アヒム!!」


 目を閉じてしまったアヒムの耳許でキルルが叫んだ。


「うそ、いや! アヒム、しっかりして!!」


「落ち着きなさいキルル! おい、オリエも呼ぶんだ! 誰か布を持ってこい!」


 足音が駆け回る中で、アヒムの胸にすがりついていたキルルはふと黙った。そしてユニカの手許に落ちていたナイフを拾う。


「リドー、ヘルゲを取り押さえてくれ! あいつが導師を刺した!」


 その騒がしい中へ到着した自警団長は、いきなり飛んできた誰かの言葉に素早く反応した。瞬時にヘルゲの姿を捉えた彼は床を這い回る大柄な若者を捕らえるため、警杖を構えてヘルゲに駆け寄る。が、その横を別の影がすり抜ける。


 それがキルルだと分かる前に、リドーはナイフを握った彼女の腕を掴んでいた。男の膂力に捕らわれてなお、その娘は腕を振り回して暴れる。


「放して! ヘルゲがアヒムを刺したのよ! 絶対ゆるさない、同じ目に遭わせてやる、殺してやる!!」


「やめろ! お前が人殺しになってどうする!」


「うるさい!! ヘルゲ! こっちへ来なさいよ、レーナのところへ連れてってやるわ! 殺してやるからここまで来てよ!!」


 キルルの絶叫を聞きながら、ユニカはアヒムの頬にぺたりと手を当てた。彼の前髪がさらりと流れる。


 同じ黒髪だから、本当の親子に見えるかもね。娘が出来たなんて教えていないからきっとびっくりされる。


 いつだったか、彼の知人にユニカを紹介する時、アヒムが悪戯っぽく笑ってそう言ってくれたのを思い出す。


「導師様……!」


 声を上げて泣き出したユニカを顧みることなく、大人たちはアヒムをどこかへ運んで行った。

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