6.冷たい夢(3)
燃やした香木の匂いが漂ってくる中、キルルは教会堂に集まった人々のために夜食のスープを温めていた。
何もこんなに夜遅くまで葬儀の段取りについて話し合うことはないのにと思う。ランプの油や蝋燭がもったいない。アヒムが休めないのも腹立たしい。
カタン、と扉の揺れる音がしたので、キルルは身構え振り返る。入ってきたのは白い顔をしたヘルゲだった。
「ようやくお腹が減ったの? 今スープを持って行こうと思ってたところよ。パンも欲しい?」
「いや、ちょっと、一人になりたくてよ……。酒、なんてねぇよな」
「ないわね」
半日も経っていないのに、ヘルゲはげっそりとやつれたように見えた。さすがにキルルも哀れに思う。
ヘルゲは昔から顔を合わせれば必ず喧嘩になってしまう相手だったが、キルルとレーナとは針仕事の仲間だったし、ヘルゲが五年越しで愛を射止めたレーナをとてもとても大切に思っていたのは知っている。
二人の間に子供が出来たと分かって、アヒムが宥めすかさねばならないほどはしゃいでいたのもついこの間だ。遠い昔のことのように思えてしまうけれど。
「お酒より、何か食べるのよ。ほら」
熱いスープをよそって差し出すと、所在なさげに突っ立っていたヘルゲは無言で器を受け取りテーブルに着いた。
慰めはほかの村人から充分に受けているはずだ。他人が慰めるほどヘルゲは愛妻の死を実感するだろう。
だからキルルは一人になりたいと言ったヘルゲの気持ちを自分なりに推し量って、いつも通りつっけんどんな態度を崩さないことにした。
「ここで泣いたりしちゃだめよ。ユニカが寝てるんだから」
「……分かったよ」
ヘルゲがスープを啜り始めるのを横目に、キルルは教会堂へ向かった。
だから、彼がその直後に席を立ったことなど知るよしもない。
眠れそうになかったが、養父が寝台を使ってもいいと言ってくれたのでユニカはアヒムの寝室で寝ることにした。
アヒムには香木の匂いが染みついている。彼が祭壇に向かう時、傍で必ず香木を燃やすからだ。ユニカはその匂いが好きだった。
今日、キルルと一緒にシーツを取り替えたが、やはり寝台にはアヒムの匂いが残っている。そんな毛布に顔を埋めて目をつむっていたら不安な気持ちが少しは遠のき、うつらうつらしてきた。
葬儀があると教会堂へ人が集まる。ユニカはそれが苦手だ。祈りの会や教義の勉強会の時とは違って、皆が不穏な興奮を内に抱えている気がするのだ。
早く戻って来て、導師様。ユニカは微睡みながら呟く。
そしてようやく眠れそうだと思った時だった。
どこかで〝かちゃっ〟……と、金属がこすれる微かな音がした。
驚き、一気に覚醒したユニカは毛布の端を握ったまま目を見開いて暗闇の天井を凝視する。
音が聞こえてきたのはこの部屋の向かい。きっとユニカの寝室の扉を開けた音だ。
アヒムが様子を見に来てくれたのだろうかと思ったが、彼はユニカが自分の部屋で寝ていないことを知っている。キルルもだ。
では、誰?
耳の奥でどくどくと心臓が騒ぎ始める。
声も上げられずユニカが固まっていると、ついにこの部屋の扉が薄く開いた。〝誰か〟は手燭を持っているらしく、真っ暗な部屋の中にすっと一本、橙色の光が射し込む。
灯りを持った人物はそっと部屋の中へ入ってくる。忍び足で寝台に近づき、寝ているユニカを覗き込み、そして目が合った。
「うわっ」
「……っ」
まさかユニカが起きているとは思っていなかったのか、相手は文字通り飛び退いた。
「な、なんだ、起きてたのかよ」
やって来たのはヘルゲだった。小さな明かりの下では顔もよく見えないが、アヒムのところへ頻繁に遊びに来る男だったのでユニカは彼の声をよく知っていた。
「悪いな、驚いたか。ちょっと相談があってよ。話がしてぇんだが、だめか?」
「お話……?」
ユニカは毛布を身体に巻き付けるようにして起き上がる。
「あの、レーナさん……とっても残念なことになって……」
アヒムの机から椅子を引っ張って寝台の傍へ寄ってきたヘルゲは、ユニカの言葉にぴたりと動きを止めた。そして小さく笑ってから落ちるように椅子に座る。
「なんだ、ユニカも分かってるのか。大事な親父さんを忙しくさせちまってすまねぇな」
その後なんと言葉をかけていいか分からずにいたユニカは、ヘルゲから謝られてさらに困惑した。
揺れる灯りの向こうでユニカが視線をうろつかせるのに気づき、ヘルゲは突然ユニカの頭を掴んだ。本人は撫でたつもりだ。しかしアヒムの優しい手つきとはまるで違う豪快さにユニカは思わず悲鳴を上げる。
「こ、こら、騒ぐなって。悪い、つい近所のガキどもにやってる感じで……」
「お話……お話ってなに?」
警戒心が解けないユニカはますます強く毛布を抱きしめ、寝台の端に寄っていく。もちろんヘルゲとは反対の方へ。
「ああ、えっとな、アヒムには秘密にしておいて欲しいんだけどな」
「どうして?」
「あいつに言うと怒るかもしれねぇからだよ」
「導師様が怒るのは、いけないことをした時よ」
ますますユニカが怪訝な顔をするので、ヘルゲは白状するように隠し持っていた小皿とナイフを見せた。
「そうだな、あいつはしちゃいけねぇことをした時に怒る。都で揉まれて勉強してきて、それでもひねくれずにますます賢くなって帰ってきてよ。あいつの言うことはだいたい正しい。けど、正しいことを言われて困る奴もたまにいるもんなんだよ。例えば今日の俺とかさ」
ナイフを見たユニカは蒼白になった。
思わずヘルゲの後ろの扉が開いていることを確認する。何かされそうになったらあそこまで走っていけるだろうか。
「待ってくれ、別にいきなり刺したりしねぇよ。ユニカさえよけりゃ頼みてぇんだ。それならアヒムもいいって言うはずだ」
「何を、するの?」
拒んで逃げた方がいい。そう思いきろうとしていたユニカの心を、突然泣き出したヘルゲがくじいた。
彼はひとしきり肩を揺すって泣いたあと、涙をぬぐい、鼻をすすりながら小皿とナイフを差し出す。
「血を分けて欲しいんだ。その皿にちょっとでいい。一口で飲めるくらい。痛いかも知れねぇが頼むよ、ユニカ」
「――血?」
ユニカは意味が分からず、首を傾げる。
「何だよ、分かってんだろ。お前の血はすげぇ薬だ。もしかしたら、レーナの口に入れて飲ませりゃ生き返るかも知れない」
「薬? 生き返る?」
「お前の親は、血を売ってくれたもんだぜ。それで助かった病人や怪我人もこの村には大勢……」
呆けて見つめ返してくるユニカの様子を、ヘルゲは惚けているのだと思った。しかし、話を進めても彼女の反応は変わらない。
「お前、覚えてないのかよ」
「わたし、導師様に会う前のこと、知らなくて、」
血が、薬に? 血を売って 助かった病人や 村には
大きく瞠ったユニカの目からぼろりと大きな涙がこぼれた。
そのことにユニカ自身も驚く。わけも分からず恐ろしく、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られる。
「本当に覚えてないの? なんでだ! どうして覚えてない!?」
初めはただ訝しげだったヘルゲもユニカと一緒にみるみる青ざめていった。そして、堪えきれなくなったように椅子を蹴倒してユニカに掴みかかってくる。
「わ、わからないわ……!」
ヘルゲに掴まれた肩が砕かれるかと思うほど痛い。男の怒声が頭の奥までびりびりと響く。
「痛い……っ」
呻いたユニカを投げ捨てるように突き飛ばし、ヘルゲは大きく肩で息をしながら立ちつくした。
「……フィギラたちが死んだあと――お前、しばらく表に出てこなかったな。ひと月、いや、ひと月半くらい」
自分の肩を抱いて震えながら、ユニカはヘルゲを見上げた。
彼は何を言っているんだろう。知らない、分からない。
この恐怖が夢であることを願ってひたすら目を閉じる。ユニカはアヒムやキルルを呼んでいるつもりだったが、ひとつも声にならない。
「エリーアスも出入りしてた、いつも何か運んで……薬だって言ってたか……」
ぶつぶつと呟いていたヘルゲは、床に転げ落ちていたナイフを拾い上げてじろりとユニカを睨んだ。
「アヒムの野郎、お前に何かしやがったな……」
そう唸るや、ヘルゲは小さくなって震えていたユニカの腕を掴んだ。彼女が悲鳴を上げる前に口を塞ぎ、大蛇のような腕で羽交い締めにする。
「頼むよユニカ。何も覚えてねぇならそれでいいんだ。黙って血を分けてくれ、レーナを生き返らせてくれ!!」
ヘルゲは抵抗していたユニカの腕にナイフを押し当てる。間髪容れずにすっと刃を引けば、ユニカの柔らかい肌は簡単に切れた。
痛い、恐い!
その気持ちが、ユニカの中で突然爆ぜる。
パチン! と目の奥で青い光が弾けた。
ぎゃっ、と響く短い悲鳴。
ヘルゲの腕が弛み、ユニカは寝台から落ちる。考えるより早くユニカは扉へ向かって走っていた。
「待ってくれ! 待てって!」
ユニカは切られた腕を押さえながら寝室から廊下へ、そして外へ飛び出した。重たいヘルゲの足音を感じながら教会堂のアヒムのところへ向かう。
「ユニカ!?」
途中、夜食を運び終えたキルルとすれ違ったが、ユニカは一目散に教会堂の裏口を目指した。彼女に気を取られていたキルルは後ろから突進してきたヘルゲを避けられずにぶつかる。二人は一緒になって倒れ込んだ。
「ちょっと、何なの!?」
「うるせぇな!!」
ヘルゲは引き留めようとしたキルルを殴りつけユニカを追った。
教会堂へ入られる前に捕まえなくては。中には村人がいる、アヒムもだ。彼らに見つかる前に……!