6.冷たい夢(2)
キルルは、ユニカに焼きもちを焼いているらしい。これも大人たちから聞いた話である。
笑い話だったから冗談だとも思ったが、キルルは時々強い敵意のこもった目でユニカを見る。
普段はさばさばした面倒見のよいお姉さんなのに。そのキルルを変えてしまうのだから、「好き」という感情はちょっと恐い。
ユニカも同じ気持ちだからキルルと仲良くしたいと思う反面、彼女とアヒムがユニカよりずっと高いところで視線を交わし合い親しく話しているのを見ると不安になった。
ただ三人で仲良くしたいだけなのに。嫌な気分だわ。
ユニカは静かに手を動かし始める二人の間に、自分の手の中に残っていた芋を背伸びして置いた。
が、それはごろんとユニカの方へ転がって落ちてきた。
どうしてだろう、と思った瞬間、足の下がぐわんと波打つように揺れた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げたキルルと転がりかけたユニカを抱きしめてアヒムは屈み込む。
地震だ。先だって、シヴィロ王国の南にあるトルイユ国で大きな地震があった。それ以来、ここビーレ領邦を含むシヴィロ南部の領邦では度々余震に見舞われているのだ。
「アヒム……」
揺れが収まると、アヒムは不安げなキルルの頭を撫でて宥め立ち上がる。幸い大きな揺れではなかったので戸棚からものが飛び出すこともなかった。
「二人とも、怪我はないね。外の様子を見てくる。キルル、ユニカを頼むよ」
そう言われたキルルはアヒムの腕を掴んだまま首を左右に振る。ユニカもさして怯えた表情は見せていないが、アヒムとキルルの服の端をしっかりと掴んだまま硬直していた。
アヒムは仕方なく二人の手を引いて外へ出た。
午後の陽射しは何ごともなかったように穏やかで、余震に慣れ始めた村人達も外へ出てあたりの様子を窺っているが、冷静である。
「ロヴェリーさん」
アヒムは教会堂から一番近いところに家を構える住人に声をかけた。ひょろりと背の高い中年の婦人が、隣家の婦人と一緒に振り返る。
キルルとユニカ、二人の娘にがっちりとしがみつかれた導師の姿を見てロヴェリー婦人は呆れ気味に笑った。
「おやまぁ、アヒム。地震があっても両手に花でいられるんだから、あんたはやっぱり大物だねぇ。そんなに恐かったのかいユニカ。子供は仕方ないとして、情けないよキルル。あんたは今年で二十一だろう」
「うるさい」
笑われたキルルはアヒムの袖に顔を埋めながら毒づくが、普段ほどの覇気はない。
「お怪我はありませんでしたか?」
「大した揺れじゃなかったからね。鍋を火にかける前でよかったよ。みんなも慣れてきたもんだ」
ロヴェリー婦人は近隣の住民を指し示しながら息をついた。不安ではあるが、もう先日のような大きな揺れはないだろうと村人達は思い始めているのだ。ロヴェリーも落ち着いたもので、「もらったソーセージを分けてあげよう」などと言っている。
「明日の夕食のおかずが決まったわね」
キルルも徐々に緊張が解けてきた様子で、ぼそりとそんなことを呟く。
家の中に戻ったロヴェリー婦人が腸詰めを手にぶらさげて出てきたので、アヒムに促されたユニカがそれを受け取ろうと前に進み出た時だ。
「導師様!!」
甲高い叫び声が聞こえた。一同は視線を巡らせ、東から少年が走ってくるのを見つけた。
彼はアヒム達に気がついても止まる気配はなく、転がるような勢いで走りながらなおも叫ぶ。
「導師様! 今の揺れで、グローツ街道の手前の〝あの斜面〟が崩れたらしいんだ!!」
途端にアヒムの顔が引き攣る。彼はキルルを腕から離すと、走って来た少年がアヒムの手前でくずおれそうになるのを受け止めた。
「ヘルゲの家は? 怪我人はいるかい?」
「わ、分かんない。導師様に知らせろって親父に言われて、走ってきただけで、み、見てないんだ」
ぜいぜいと荒い息の間からそれだけ吐き出すと少年は大きく咳き込んだ。彼の背をさすってやりながらアヒムはユニカ達を振り返る。
「ロヴェリーさん、彼に水を。キルルとユニカは家に戻って。私はヘルゲの家に行ってくるから、もし五時までに帰ってこなければ二人で晩鐘を鳴らしてくれないか」
アヒムが首にかけていた懐中時計を外してキルルに渡すと、緊張した面持ちで二人は教会堂の鐘楼を仰ぎ、ぎこちなく頷いた。
二人は厨房に戻って黙々と調理を再開していた。キルルがシチューに入れる野菜の皮をむいて、ユニカが一口大にそれを切っていく。
「あんた、地震が怖くないの?」
「え?」
「あたしは恐いわ。地面が動くのよ? 崖なんて簡単に崩れるし、あたしの小さい家なんて今度大きな揺れがきたら真っ先に潰れそうだわ」
ユニカは芋を切っていた手を止めてきょとんとしながらキルルの横顔を見上げた。
彼女が何を言いたいのか分からない。
「あんたはいいわね。恐いって言えばアヒムがいくらでもそばにいてくれるんだもの」
「……そんなこと、ない。導師様だっていろんなお仕事があるんだもの。家にいないことも多いわ」
「でも、彼はあんたのためなら、なんとかしてあんたの傍にいようとしてくれるじゃない」
「……」
「ずるい」
キルルの呟きは鋭く冷たく、無防備だったユニカの耳を刺した。思わず首をすくめキルルを見つめると、言った当人も気まずそうにそっぽを向いてたまねぎの皮をばりばりとはがし始める。
「……地震が怖いなら、今夜は導師様のところに泊まればいいわ。わたし、頑張って自分のベッドで寝るから」
「そ、そんなこと出来るわけがないでしょ!!」
怒られた、と思ったユニカはまた首をすくめた。手許が揺れて芋の切れ端がころころと床に転がっていってしまう。
するとキルルはやはり気まずそうに、しかしそれをごまかすように腹立たしげに鼻を鳴らし、芋を拾い上げた。なぜか耳まで真っ赤である。
「いい? あたしがこんな大人げないこと言ってたなんて、アヒムには言っちゃだめよ」
「導師様には……」
「誰にも、言っちゃだめよ」
「うん……」
キルルが念を押す理由はよく分からないのだが、
「わたし、キルルと暮らすの、嫌じゃないわ」
ついぽろりとこぼれてしまったこの言葉は、いつかアヒムの従弟に提案されて以来、悪くはないとユニカが思っていたことだった。
アヒムとキルルだけで仲良くされるのは嫌だけれど、三人でなら。時々やって来るアヒムの従弟と四人で暮らすのもいい。
「キルルのごはんは美味しいもの。毎日食べられたらいいなって、ちょっと思う」
「あんたに言われてもね」
「導師様も、いつも『美味しい』って褒めてる」
「ほんと?」
ユニカが頷き返すと、キルルの口許がにんまりと歪んだ。ところが、彼女は慌てて渋面を作る。
「好き」なアヒムに褒められても、嬉しくなかったのかしら。
ユニカは不思議に思った。
* * *
崩れた斜面はぐずぐずと水っぽく、まるで溶けたかのように荒い土がむき出しになっていた。数日前、初雪が降る直前の大雨のあとで亀裂が見つかっていた場所である。
アヒムが恐れた通り、斜面の下にあったヘルゲという男の家がほとんど土砂に埋まっていた。気がついた近隣の村人がすぐに集まり懸命に泥を掻いている。
「レーナ! レーナ!」
その中に狂ったように素手で土砂を掘っている男がいた。
彼がヘルゲだ。アヒムとは同い年で、子供の頃からの友人である。アヒムは彼の傍へ駆け寄りながら叫んだ。
「ヘルゲ! 怪我はないか!」
「助けてくれ、レーナが埋まってる!!」
「レーナさんは家のどの辺りに?」
「今日も気分がよくないって、ずっと奥のベッドで寝てたんだ」
アヒムは次の言葉に詰まった。
奥。粗末な板の屋根が土砂の中から飛び出しているだけで、ヘルゲの家は形も残っていない。
「……素手じゃ危ない! そこにある板は引っ張り出せるか? それを使って!」
アヒムに言われ、ヘルゲは土砂の中から突き出ていた自分の家の残骸を引き抜いた。彼は再び大きな身体を揺すって泣きじゃくりながら泥を掘り始める。
「皆さん、こちらへ集まって! ヘルゲの周りを掘ってください!」
おお! と気合いの声を掛け合って、鋤や鍬を手にした男たちが泥の上を登ってきた。
彼らのために場所を空けようとアヒムは後退る。その時、彼の右足がずぶりと泥の中に沈んだ。柔らかい泥に吸い込まれた自分の足を見下ろして唇を噛む。
これでは水の中に閉じこめられているのと同じだ。
「また崩れてくるかも知れません。ロッテさん、崖の様子を見ていてください」
アヒムも薬や道具が入った鞄を放り出し、泥から引き抜いた板を使って土砂を掘り始める。
「レーナ、レーナ!」
涙声で妻の名前を呼ぶヘルゲの声が、傾き始めた陽射しの中に痛々しく響いていた。
しばらくして助け出された若い女は、もう息をしていなかった。
レーナの遺体は毛布にくるまれて教会堂へ運ばれた。これから葬儀が終わるまで彼女はアヒムが預かることになる。
泣きわめくヘルゲの隣に座って、アヒムは村の女手がレーナの身体から泥を拭ってくれているのをぼんやりと見ていた。やがて彼女を着替えさせるために目隠しの布が張られる。
自分も泥まみれで、法衣を着替えなくてはいけないことを思い出した。しかし身体が動こうとしない。同じく泥だらけで、役に立たなかった薬と治療具の入った鞄を見下ろしてから力任せに泣いている幼馴染みをの横顔を窺う。
肩に手を添えてやるのが精一杯だった。彼を慰める言葉も浮かんでこない。
先代の導師だった亡き父ならどう言うか考えてみたが、悔しさがこみ上げてくるばかりだった。
ヘルゲが亡くしたのは妻だけではない。レーナの腹の中にはヘルゲの子がいた。彼女が不調を訴えていたのもそのためだ。
彼女の具合が悪いときは決して無理をさせず、休ませるよう言ったのはアヒムだった。それが間違った助言でなかったとしても、喉の奥に棘が刺さったような痛みが残る。
彼の家の裏手にある斜面にひびが見つかった時、ヘルゲのために近所の空き家を整備し片付けたのだが、その時ヘルゲは「雪が本格的に降り始めるまでには移る」と言って家移りを面倒くさがった。レーナの悪阻が特にひどい時期だったので、妻をそっとしておきたかったのもあるだろう。
アヒムは心配しつつもヘルゲの家のことだからと、引っ越しの時期は彼の判断に任せた。
地震の余波がまだ続いていたのに、危険だと分かっていたのに。
呼びかければ手伝いの手はいくらでもあった。たった一日、レーナをアヒムの家で預かって、その間に引っ越しを済ませることはいくらでも出来た。
もっと強く、すぐに住居を移すよう勧めていればよかったのだ。
後悔に呼吸すら阻まれそうだった。白く乾き始めた泥だらけの拳で、思わず前にある長椅子の背もたれを殴りつける。
「導師様……」
アヒムはか細い声に気がつき、はっとなって振り返った。不安げに、慌ただしく動く大人たちを目で追うユニカがいた。預けた導師の時計を掌に乗せている。
「もうすぐ五時です」
「そうか、……そうだね。鐘を鳴らさなくちゃ」
晩鐘ではなく、死者が出たことを告げる喪鐘を鳴らさなくてはいけない。
アヒムはよろよろと立ち上がった。
「ヘルゲ、少し席を外すよ。君はレーナさんの傍に……」
「――そうだ」
「え?」
ヘルゲはアヒムがかけた言葉に反応した――わけではないようだ。両手で顔を覆った彼の口からもれ出た声はやけにはっきりしていた。
「どうした?」
「……何でも、ない」
ヘルゲがぴたりと泣きやんだことを訝しく思いながらも、アヒムはユニカと一緒に手を洗うため井戸へ向かう。
「ヘルゲさん、どうかしたの?」
「……レーナさんが亡くなったんだ」
養父を見上げるユニカの青い瞳が大きく揺れる。
「今夜はちょっと忙しくなりそうだ。夕食を食べたら、ユニカはお休み」
まだ小さいから無理もないが、ユニカは人の命に関わる話題には大きく動揺する。
アヒムは医師として人の死を看取ることあるし、葬儀を執り行えるのはこの村に彼一人だ。死に触れる機会は多い。
そんな時、ユニカは決まって大人しくなった。アヒムの邪魔にならないようにしているというよりは、じっと不穏な気配が消え去るのを殻にこもって待っているふうだった。
「一人で眠れそうかい?」
「ん……」
肯定とも否定ともとれる返事だったが、アヒムは苦笑するだけでどちらなのか確かめられなかった。
喪鐘を鳴らして、集まった村人達に葬儀の段取りを確認し準備しながら、死者を慰めるための祝詞を詠い上げなくてはならない。しばらくユニカに構っていられる時間はないのだ。
キルルがついていてくれるだろうから心配はないが、不安そうなユニカをただ抱きしめていてやれないのは少し心苦しい。
二人は一緒に鐘楼へあがり、鐘を揺らすロープを引いた。
重々しく寂しげな音が夕刻のブレイ村に響き渡る。
一度目の余韻が消えるのを待ち、二度目を鳴らす。これを十二回。
喪鐘に気がついた村人が夕食の支度の手を止めて家先へ出てくるのが、遠くに近くに見えた。




