1.レセプション(1)
前方の雪道をラッセルしながらウゼロ公国の使節団は進む。
馬車の速度は思うように上がらず、気密性がいまいちなので寒い。十分に厚着してきたつもりだったが寒くてつい背筋が丸くなり、とてもウゼロ大公の長子らしく凛と構えてはいられない。
それに加えて旅疲れも溜まっており、ディルクは外套の襟を掻き合わせながらさらに縮こまって、大きくあくびを一つ。
「兄上、そういうのはおやめくださいね」
「そういうのとは?」
「人目をはばからず、姿勢を崩したり大あくびをしたりすることです」
「お前さえ見て見ぬ振りをしてくれればすむ話だろう」
「今は、そうですが」
ディルクの隣に座る少年は大仰に溜め息をついた。馬車には二人で乗り込んだので、彼さえ気にしなければほかにディルクの態度を咎める者はいない。
「お前は寒くないのか」
「背中を丸めたからといって寒さが和らぐわけではありません」
「……見栄を張っているだけか」
「見栄も大切です」
「ああ、そう」
ずるずると座席に沈み込み、ディルクは目をつむった。馬車が止まっている。どうせまた、前方で雪にはまった馬車がいるのだろう。
「ディルク様、エイルリヒ様。間もなく都に入りますが、その前にグレディ大教会堂でシヴィロ王国の外務卿と合流いたします。お寒いでしょうが今しばらくご辛抱くださいませ。教会では定刻までお休みになれましょう」
レースのカーテンを引いた窓に騎士の影が映る。努めて明るく言っているようだが、ディルクを慰めるには至らない。彼はふんと鼻を鳴らして騎士には聞こえないよう呟いた。
「こうも進まないならその時間もなくなるだろうな」
「分かりました。引き続き隊列の警護を頼みます。あなた方も寒い中ありがとう」
エイルリヒが言うや、騎士は一礼して離れていった。
遠くから馬車を押すかけ声が聞こえる。どうして排雪板のついた馬車をそろえなかったのか、どうしてシヴィロ側は使節団の来訪を分かっていて主要な街道を除雪していないのかと、ディルクは自分の身体を抱くように腕を組んで縮こまり、いらいらしながら考え込んだ。
眉間に皺を寄せる兄の様子をまじまじと眺め、エイルリヒも彼に倣って座席に沈み込む。
「せいぜい見栄を張ってください。ディルクは、いえ、兄上は、今日からウゼロ大公の長子ではなくシヴィロ国王の養子に、この国の世継ぎになられるのですよ」
「……大出世だな」
「その通りです。兄上が継げる椅子が空いたのは誠に幸運でしたね。ご逝去遊ばしたクヴェン殿下には申し訳ないですが、今上の国王陛下に似ず頭の悪そうな王子様だったので、即位していても時代に見合わぬ平凡な王にしかなれなかったでしょう。小国の連合がしのぎを削る近年、シヴィロ王国もウゼロ公国も、北方の宗主としてより強く結びつき他国を牽引していくべきところでした。クヴェン殿下はそういうところが理解出来ていないようでしたから──」
「まだ十歳そこらの子供に、そういう政治の話が理解できると思うか?」
「僕は、出来ていました」
「ああ、そう」
「そうでなくても陛下はすでに五十五歳。クヴェン殿下が成熟期を迎えられるまで短く見てもあと十五年。恙無く政治を行えたでしょうか? 行えた自信はおありのようですがね」
凍った雪を踏みしだく馬蹄の音が傍を駆け抜けて行った。少しの間をおいてディルクたちが乗っている馬車も動く。都の入り口、グレディ大教会堂へ向けて再出発である。
ディルクは軽くカーテンを持ち上げて外の様子を窺った。まるで白い花弁を思わせる平たい雪が再び降り始めていた。空が重い色で、今にも抜けそうな天井のようだ。その灰色の雲が青白く光った。
「雷ですね」
エイルリヒは姿勢を正し、分厚く立派な装丁の帳面を広げる。
「天の槍。神が悪徳をする者の頭上に下す鉄槌。そんな力を、本当に生身の人間が振るえるものでしょうか。僕は疑っているのですけれど」
「だが、事実、その娘は力を使って自分の故郷を焼いたんだろう」
「区別なく焼き殺して何が『天槍』ですか。それに、娘が一人でやったように見せかけているのかも知れません。村人たちがなんらかの理由で用いた炎が燃え広がって村を焼いてしまった。それを生き残った娘の仕業にしたというお話の方が、よっぽど現実味がありますが」
エイルリヒは嘲笑と一緒に帳面を叩いた。その事件についてまとめられた頁である。実際には決して笑えない、数百人が一夜にして炭と化した悲惨な事件だったのだが。
「『天槍』の謂われがそんなものだとして、もう一つの力はどう思う?」
「〝がせ〟です」
ディルクは軽く目を瞠って顔を上げた。貴族の子弟を絵に描いたような弟は、いったいどこでそういう卑俗な言葉を覚えてくるのだろうと疑問に思う。
「人の、それも若い娘の生き血になら、それくらいの力はあるのかも知れませんよ? 少し試してみたい気がします」
「やめておけ。今上の陛下と同じ諡を付けられるぞ」
「吸血王?」
「噂だけどな」
賢君と名高い当代のシヴィロ国王。その唯一の汚点は恐らく後世にも語り継がれるだろう。それは果たして、ただの噂に過ぎないのか。それとも彼の名誉を唯一汚す事実なのか。まだディルクは確かめられていない。
「諡が歴史書に書き加えられるのもそう遠い先のことではないでしょう。もう全盛期は過ぎておいでです」
もそもそと身じろぎしながら座り直し、ディルクは少し低いところにあるエイルリヒの顔を見下ろした。
「お前も、そういうのはやめておけよ」
「そういうのとは?」
「王の治世が近々終わるなんて発言」
「兄上さえ黙っていてくだされば済む話です」
「それは、今はそうだが」
エイルリヒがつんと顔をそらすので、ディルクはやれやれと肩をすくめてから窓枠に肘をついた。
「陛下へのご挨拶の口上を忘れないように、今からしっかり復習っておいて下さい。それから──」
憂鬱そうなディルクの様子を覗うと、エイルリヒは兄の肩に手を置いた。そしてまだ子供らしい高い声音でその耳許に囁きかける。
「これは母君のことにけじめをつける最後の機会です」
「知ってるよ」
ディルクは静かに呟き、弟の手を払いのけた。
* * *
温室へ続く柱廊を歩く間、ユニカは侍女たちがそわそわしているのに気づいていた。
彼女らはひそひそと何ごとかを話し合い笑っている。そういう声ほど耳に入りやすい。
「楽しそうね。今日は表で何かあるの?」
彼女らが騒ぐもっぱらの原因は、ユニカが暮らす王城の最奥で起こることではなく、権謀が渦巻く政治の舞台や貴族の子弟、流行のお芝居についてだった。そして今日、彼女達が可愛らしくさえずるのは、王城の内郭、外郭のそれぞれの様子。加えて名だたる大臣の名前ばかりだ。今日のネタは城内で行われる行事についてに違いない。
ユニカが突然振り返ったものだから、彼女らはさっと青ざめて頭を垂れた。
「も、申し訳……」
「何かあるのと聞いているのよ」
「はい、あの、本日はウゼロ公国からの使節団がご到着の日で、」
「ウゼロの。ああ、そういえばクヴェン殿下が亡くなったのだったわね」
ユニカにとってはどうでもよいことだったので、このところ娯楽を自粛していた理由を忘れかけていた。
シヴィロ王国の世継ぎであったクヴェン王子の葬儀から、早ひと月半。王国はその間喪に服し、貴族院の議会にて、典範に則りウゼロ大公の長子を世継ぎとして迎えることが決定した。
公子は確か二十一歳。なるほど若い娘たちが騒ぐはずである。
「いつご到着なの?」
「午前のうちにはと伺っております。そろそろご到着かも……」
ユニカが読書のために向かおうとしている温室は、王家の私的空間の中でも〝表〟に近い。温室は広く、中には四阿もあるので、王が近臣をそこへ招き密談することもある。
しかし、ウゼロの公子を迎えるにあたっては種々の儀式がある。いずれは公子も温室に出入りするだろうが、今日はここにいても姿を見ることなど出来まい。
しかし貴族の子女である侍女たちは、自分や家の地位を高める機会を常に窺い、手っとり早く高位の貴族の子弟に気に入られるのが仕事のように思っている。若いウゼロの公子、そしてシヴィロ王家にこれから入るというお人の目に留まれば王妃の座とて夢ではないと期待してしまうのだろう。
ユニカとしては特に興味を引かれるわけでもなかった。彼女は彼女を庇護する王のことにさえ興味を持たないようにしていた。
望んで城にいるわけでもないし、望んで生きているわけですらない。ただじっと、約束の時を待っている。ただその時がくるまでは時間が有り余っているわけで、それを食いつぶす術だけは彼女の求めるところだった。
「見に行ってみる?」
「えっ……?」
侍女たちはきらりと目を光らせて食いついてきた。
「でも、温室へ行かれるのでは?」
形だけの一度目の辞退。ここで言葉を翻してやろうかとも思ったが、ユニカは抱えていた本を撫でながら考えた。
王国の服喪につき合っている間、読書とレース編み以外の趣味を慎んできた。舞踊も歌も、湯舟に花を浮かべてゆったり入浴するのもだ。少し身体を動かしたい。
ユニカの存在は公には認められていないため、公子のレセプションに呼ばれることはないし姿を見せることも許されない。だから遠目にこっそりと使節団の行列を見るくらいしか出来ないだろうが、散歩がてらに。
「読書は午後からでいいわ」
侍女達は、きゃーっと黄色い笑い声をあげて手を取り合った。すっかり公子に会えるつもりでいるかのよう。
見に行くだけなのよ、とはユニカも訂正しなかったが。
ごろごろと空が鳴り始めたのを聞いて、ユニカは眉を顰めた。
「ドンジョンまで参りましょう。わたくし、人目につかず広場を見下ろせる場所を存じております!」
うなじがピリピリしだしたので、ユニカは侍女が言った言葉を軽く聞き流してしまった。