6.冷たい夢(1)
今眠ったって、きっとろくな夢を見ない。しかし不調を訴える身体は休眠を求めていて、そう長く眠気に抗うことも出来ないだろう。
ユニカは血抜きの針を刺されたばかりの腕を――白い肌に残る青黒い痣を睨んでからきつく目をつむった。
こんな力を持っていても、ユニカにはいいことなんて何もなかった。
ユニカが欲しかったのは人を救う力ではない。ささやかな家族との時間。愛してくれる人、愛する人との時間。
それさえあれば、強靱な生命も、癒やしの力もいらなかったのだ。
* * *
記憶の始まりは八歳の春。
唐突に、鮮やかなぬくもりとともに始まる。
「君の名前は、ユニカ。私は今日から君の父になる、アヒムだ。よろしく、私の可愛い娘」
二十代半ばの導師がそう言って、ぼんやりしたままのユニカの頬を包み込むように撫でてくれた。
その温かいこと、愛おしいこと、ずっとそうして欲しかったことを覚えている。
やがて溢れてきた涙が止まらず、ユニカは彼に身を任せてしばらく泣いた。
その若者が、ユニカにとって最初の親である。
若くして父の後を継いでいたアヒムは、村人からの信頼が厚いブレイ村の導師だった。
アヒムの家系は曾祖父の代からこの村の教会堂を守る導師職を務めており、またアヒム本人が都で学んだ知識人ということもあって、年長者からも相談を受けられるし、同世代の者達からも頼りに思われていた。
そんな彼のもとで、ユニカは暮らし始めた。
教会堂で行われる教義の勉強会や祈りの集会の世話を手伝い、家事の仕方を覚え、アヒムの時間が空いた時には読み書きも習う。村人達もよく声をかけてくれたし、おおらかで優しい養父と暮らすうちに、ユニカの頭の中に立ちこめていた陰鬱な靄が晴れていくようだった。
時間が経ち、理由も分からぬままざわついていた心が落ち着き、アヒムとの暮らしに慣れてきた頃。ユニカは偶然、自分が導師に引き取られた理由を悟った。
ユニカの親はもういない。亡くなったのだとアヒムから聞いた。
彼らはただ死んだのではなく、殺されたそうだ。彼らの娘、つまりユニカに。
誰かから聞いたわけではない。
優しくユニカに接してくれる村人達だったが、彼らの目には時折怯えが浮かんだ。ひそひそともれ聞こえる声。そうした違和感の断片をつなぎ合わせ、ユニカは自分でその答えを導き出した。
また、目に映るものすべてに灰色の靄がかかる。でも不思議と動揺はしなかった。していないつもりだった。
「ユニカ」
しかし、やはり養父から見れば様子がおかしかったようだ。
「今日は繕いものをありがとう。上手になったね。とてもきれいに縫えているよ」
こく、と頷くだけで、ユニカは手許の本から顔を上げようとしない。その隣に椅子を持ってきて、アヒムは穏やかに笑いながらユニカの横顔を見つめてくる。
お互いに黙ったまま、しばらく。沈黙に堪えきれなくなったのはユニカだった。
「なんですか、導師様」
「ユニカこそどうしたの?」
「わたしはどうもしていません。導師様の方が、ご用があってわたしを見ているのではないのですか?」
「……そうだなぁ」
ユニカの不満げな視線を惚けながらかわしたアヒムは、彼女から本を取り上げてテーブルに置き、その小さな身体を自分に向き直らせた。
「元気がないよ」
「そんなことありません」
「じゃあ怒ってる?」
「そんなことありません」
顔を覗き込んでくる養父の前でこれ見よがしに唇を引き結び、ユニカは取られた本を奪い返そうと手を伸ばした。しかしアヒムはさっと本を押さえ、テーブルの上を滑らせて遠くへやってしまう。
「……お行儀が悪いと思います」
本は大切にしろと言ったのに。ユニカはますますむくれてそっぽを向いた。
「そうだね」
ふとこぼれたアヒムの声はどこか悲しげだった。それが気になって彼の表情を確かめた途端、ユニカはぎゅっと頭を抱え込まれる。
「もう、導師様! どうなさったのですか? 何かお聞きになりたいなら聞いてください! ご用があるなら言ってください!」
なんだかいらいらしてしまったのは不安だったからかも知れない。喚きながらアヒムの腕から藻掻き出たユニカは、彼の顔を見上げてぎくりとした。
泣き出しそうな顔をした養父は、再びユニカを抱きしめて絞り出すような声で言った。
「ご両親のことを知りたいかい?」
一瞬、息が詰まる。
どうしてそんなことを聞かれるのだろう。養父は、ユニカが何かに気がついたことを知っているのだろうか。
頷きそうになったものの、ユニカは辛うじてそれを堪えた。
自分で考えついた恐ろしい答えが真実なのか確かめたい。そういう気持ちはあった。
でも、本当だったら。
『二人とも黒こげで』
『娘が――を操ると……』
『神の――と言えば聞こえはいいが、』
『――で救われる者がいたと言ってもな……』
親殺しめ。
「どうしてわたしは何も覚えていないのですか?」
「君の心が、忘れた方がいいと思ったからだよ」
「導師様は、わたしが忘れてしまっていることをご存じなのですか?」
「うん。君が知りたいと言うなら、教えてあげることも出来る」
きゅ、と、アヒムの腕に力がこもる。優しい力だった。ユニカが拒めば解き放してくれるし、ユニカが望めばそのままずっと抱きしめてくれているつもりだと分かるような。
ユニカはアヒムの腕にしがみついたまま、必死で首を振った。
知らなくていい、もういない人たちのことを知ってどうしよう。その人たちの命を奪ったのが誰であれ、今は心優しい導師が父になってくれたのだからそれでいい。
その時ユニカは、何も知らずにいることを選んだ。記憶が封じ込めたものには触らないことにした。
それはアヒムのところへ引き取られて半年ほどが経った頃のことだった。晩秋のもの悲しい夕陽が窓から射し込み、ほんのりと温かかったのを覚えている。
事件が起きたのはそれから一年後。
シヴィロ王国南部の村にも冬が訪れ、辺り一面がうっすらと白いものに覆われる日があってからだ。
疫病が村を襲う、直前の冬のことである。
* * *
アヒムはブレイ村で生まれ育ったが、十六の時から約十年の間をシヴィロ王国の都アマリアで過ごした。王都の大学院で医師になるため学んでいたのである。
彼は人当たりもよく優秀で、大学院を辞する直前には王家の期待も厚い医師になっていたらしい。
卒業を前に大学院を去ったのは、ブレイ村で導師職を務めていた父の死があったからだ。
元々、都で身につけた医薬の知識を故郷に持ち帰るつもりでいたアヒムは、引き留める教師や学友たちにきっぱりと別れを告げて、父の後を継ぐためブレイ村へ戻って来た。
そして、若く賢い導師は故郷で熱烈に歓迎された。導師は妻帯を許されているので、ぜひアヒムの妻に嫁にと、娘を差し出す村人はしばらく後を絶たなかったそうだ。
それが突然止んだのは、アヒムがユニカを引き取ったからだろう。
ユニカが普通の子供であれば、いずれはアヒムのもとを離れ、誰かの妻になり、違った形で村に受け入れられたはずだ。そんな未来があるなら、村の娘達もアヒムとともにしばらくユニカの面倒をみてもよいと思えたのかも知れないが。
アヒムと生活すること、すなわちユニカと暮らすことというのを受け入れられる娘はいなかった。
そういうわけでユニカはアヒムと二人暮らしだったが、熱心にアヒムのもとへ通い続ける娘は、たった一人だけいた。
両親がいないという点ではユニカと同じの、キルルという娘である。
「次」
きつい口調で言われて、ユニカは水を含み重たくなったアヒムの法衣を必死に持ち上げ、差し出す。キルルはそれを受け取ると室内に渡したロープに広げてかけていく。
「次は?」
「もうないわ」
「あら、そ。手伝ってくれてありがと。助かったわ」
笑顔も素っ気もない謝辞だ。キルルはふんぞり返るように胸を張ってユニカを見下ろし、肩口からこぼれてきていた太い三つ編みを背中へと追い払った。
「シチューも作っていくわね。洗濯籠を戻してきて。それから納屋に行ってお芋を四つ取ってきて。大きめのをね」
「……」
ユニカは返事をしなかった。キルルは構わず持参したエプロンを引っ掴んで厨房へと向かう。
〝おうへい〟なんだから。新しく覚えたばかりの言葉でちょっとだけ、そしてこっそりとキルルをなじったあと、ユニカは籠を抱えて居間を出た。
キルルは、アヒムより六つ年下の幼馴染みというやつらしい。赤子の頃に火事で両親を亡くし、先代の導師や村長に面倒をみられて育ったとか。
彼女の左頬から首筋にかけての広い範囲には、大きな火傷の痕があった。両親を亡くした火事で負った火傷だ。もうずいぶん時間は経っているが、肌は今でも引き攣れたままで赤茶けていた。キルルはもとが色白なだけに、その傷跡はとても目立った。
しかし、キルルはそれを隠していなかった。長い栗色の髪は大きな三つ編みにしてまとめていて、前髪もさっぱりと短いから火傷の痕は少しも隠れていない。
高価な白粉でもなければ傷跡は隠せないから諦めている、と彼女は言う。が、また別の人から聞いた話では、アヒムが隠さなくてもいいと言ったから彼女は堂々と火傷の痕を見せているらしい。
キルルはアヒムのことが「好き」なのだそうだ。これも、大人のお喋りを盗み聞いた話。
それを聞いた時、ユニカはなぜか胸のあたりがもやもやした。
ユニカだってアヒムが好きである。キルルと同じ気持ち。仲良くすればいいだけなのだが、やはり何となくもやもやする。
それでも、さばさばした彼女の性格は嫌いではない。ユニカに対して〝おうへい〟だとは思うけれど、まめにアヒムの家を訪れユニカには出来ない家事をやってくれるし、料理上手だったりするのもある。
彼女が家のことを手伝ってくれるのをアヒムもありがたがっていた。
ところで、納屋から出てきたユニカは芋を抱えて扉を閉めるのに難儀していた。手がふさがっていて扉の取っ手を掴めないのだ。
そうしているうちに背後から大きな影が覆い被さってきた。
「籠でも持ってこないとね。両手でものを持ったまま転んだりしたら怪我をするよ」
教会堂で行われていた会合から戻ったアヒムだった。納屋を閉めると、彼はユニカから芋を三つ取り上げて、器用に片手で持ってしまう。そして空いた手をユニカと繋ぐ。
その温かさにほっとして、ユニカは頬を染めながら養父を見上げた。微笑み返されると照れくさくて、けれどももっと心が温かくなる。
そして二人で居間へ戻ると、アヒムは部屋の中に吊された洗濯物を見て少し申し訳なさそうに笑った。
「キルルが来てくれてるのか」
「シチューを作るって」
「嬉しいね。手伝おう」
手を繋いだまま向かった厨房では、キルルがバターを切り分けているところだった。
「アヒム! お帰りなさい!」
彼女はアヒムに気がつくや否やナイフを放り出し、飛びかかる勢いで彼に抱きつく。アヒムはキルルを抱き留めるもののすぐにやんわりと身体を離した。
「ただいま。洗濯物をありがとう」
「ユニカも手伝ってくれたわ。お天気がよければよかったんだけど、雪が降って来ちゃって」
「そうか。でも今は止んでるよ。まだ積もらないだろうね」
「こんなに早く積もってもらっちゃ困るわ!」
相手がユニカだったら決して見せない輝く瞳で、キルルはアヒムを見上げて笑う。
そういう時のキルルは可愛く見えた。と同時に、やっぱりユニカの胸の中ではもやもやと煙が立つ。
ユニカは二人の傍でなんとなく弾かれた気分になりながら手の中に残っていた芋をすりすりと撫でる。
すると突然、キルルの声が低くなった。
「あのね、アヒム。寝室を掃除した時にちょっと気になったんだけど……」
「ああ、最近細かいところまで掃除の手が回っていなかったから、ちょっと埃っぽかった? 机周りとか、本も出しっぱなしで、」
「埃を払って全部書棚に戻しておいたわ。そうじゃなくて……ベッドに枕が二つあったんだけど……まさかユニカと寝ているの?」
一瞬、キルルの鋭い視線がユニカに向けられた。目が合ってしまい、ユニカは肩をすくめてアヒムの法衣を掴む。
「この頃はよく一緒に寝るよ。まだ地震も続いているし、ユニカは風や雷の音が苦手で、心細くて眠れないこともあるって言うから」
「ね?」と同意を求めつつアヒムはユニカの頭を撫でる。それを聞いたキルルが今度ははっきりとユニカを睨んだ。
「だめよそんなの! ユニカだってもう九つよ? 男の人と一緒に寝るなんて」
「男の人って……私はユニカの父親なんだから、そのくくりには入らないと思うけど」
「本当の親子じゃないもの! あたし、九歳の時にはもう好きなひともいたわ。ユニカだってそういう歳なんだから」
「ユニカにも好きな男の子がいるのかい?」
「もう、違うったら! そういう話じゃなくて」
真っ赤になって怒るキルルの頭にもアヒムは優しく大きな手を乗せる。穏やかな眼差しで、けれどあまりに静かすぎる目で見つめられて、キルルはあえなく言葉を呑み込んだ。
「ユニカにそういう自覚が出てきたら、私達は自然と適度な距離を置くことが出来るようになるよ。でも今は、ユニカをただ包んで守ってあげることが親としての私の役目だから」
さらさらと前髪を撫でられ、キルルは何度か口を空回りさせる。そして結局何も言わなかった。キルルの頬の赤みが見る間に引いていき、唇を噛んで調理台に向かった彼女は無言で夕飯作りに戻った。
「シチューを作ってくれるんだって? キルルも一緒に食べていくんだろう?」
「いいわ、自分のうちで食べる」
「そう……手伝うよ」
「うん……」