5.救療の花(2)
なんと言おうがユニカを説得するのは無理だ。彼がそう思い知るよう、真っ直ぐにディルクを睨んで言い切る。
しかし間近に見上げるディルクの表情は不思議と穏やかだった。むしろ先ほどまでの焦りが消える。それどころか、彼は不意に微笑んだ。
「よかった。思っていたより元気になっている」
「は?」
なんの話か分からないない。元気になった? 私の体調のことだろうか? 思いも掛けない反応にユニカが言葉を失っていると、ディルクは表情を引き締めた。
「君の血を得るために針を刺さなくてはならないことは、申し訳ないと思う。けれど、君の力を借りるしかないんだ」
そして次に発せられた声音は、ぞくりとするほど冷淡なものだった。
「弟が毒を盛られた」
ユニカも王太子と同じくらい冷ややかな視線を返した。
ディルクの弟、つまり大公の息子であればその弟君は確かに要人であろう。毒を含まされ生命を脅かされているのなら一大事だ。しかし〝国にとって重要な人物〟を数えればきりがない。
〝国にとって〟ではなくても、生命を軽んじられてよい人間はいない――だからユニカは誰を救うつもりもなかった。
誰を助けて、誰を助けない。その選択はとても重い――重かった。
だから二度と選ばないために、ユニカは全部を受け入れないと決めたのだ。今はただ一人、王を除いて。
「弟君を特別に助けなければいけない理由はありませんわ」
「理由はある。分かりやすく言おう。あれが死ねば、シヴィロとウゼロは敵対することになる」
「何故ですか。王家と大公家は、兄弟であり主従でしょう」
「国同士の関係には、骨肉の情も無償の忠誠もないものだよ。君が思っているほど両家の仲は安定していないんだ。兄弟や主従と表現すれば聞こえはいいが、国の後継者が訪問先で殺害されるような失態を許し合える仲ではない」
ディルクは重々しく言うが、ユニカには政のことなどよく分からない。もともと口を出すつもりもないし、政治の大事が関わるならなおのことユニカは無関係でありたかった。
「お世継ぎが亡くなるのは大変な混乱のもとでしょうが、ならばそういう時にどうするのか、よく話し合い決めたことが国法に記されているでしょう。法があるなら、あとは大公家から国王陛下のご猶子になられた王太子殿下が両国を取り持てばよろしいのではありませんか?」
この王太子の弟なら、まだ年若い少年だ。毒を盛られ重篤な状態だというなら気の毒だが、もしユニカが特別な力で彼の命を救ってしまえば政治の世界に手を出すことになる。
毒を盛られたというからには、毒を盛った人間、つまり大公の跡継ぎを殺害しようと考えた者がいる。その人間にユニカが殺害計画を邪魔したと受け止められれば、ユニカとその人間、もしくは勢力が敵対することになりかねない。巻き込まれるのは御免だ。
政治は政治を担う者の手によって動かされるべきだ。むしろ王太子はやがてその政治の中心となるべく王家へ迎えられた。王家と大公家、両方の血を継ぐ者としてこれ以上の橋渡し役はいないだろうに。
しかしディルクの返事は予想以上に情けなく、きっぱりしていた。
「私では両国を取り持てない」
「ご継父と、実の父上の仲をですよ?」
頷くディルクをまじまじと見つめて、ユニカは眉を顰める。それはどういう冗談なのだろう。
首を傾げたくなったすぐあとには、けれど少しだけ納得する。
政治の権謀が絡む貴なる家柄の人々の間では、親子の絆も力関係の一部でしかないのかも知れない。例えばディルクと大公の間が親子ながらに上手くいっていないというのなら、政治的な協力を得られる可能性も低い、とか。
しかしそれに同情するつもりはなかった。それが貴族の社会のありようなら。
「でしたら、それは殿下のご器量の問題です。弟君に毒を盛られるような事態を防げなかったのも、その後の外交をまとめ上げられないとおっしゃるのも、殿下のお力不足でしょう」
「確かに、君の言う通りだな」
エイルリヒを止められなかったこと、大公との溝を埋めようとしてこなかったこと。
どちらにもディルクが気がつかず、また目を背けてきたために今日のことは起こった。ユニカは知るよしもないが、彼女の言うことは当たっている。
「だが、自分の招いた事態ならなおさら、私はこれ以上状況が悪化するのを防ぐために手だてを講じなくてはいけない」
「それが私の血にすがることだとおっしゃるの? こんなに気味の悪い力を安易に頼るなんて、シヴィロ王家はやはりその程度なのですね。国王陛下だけでなくあとをお継ぎになる太子様にも期待は出来ないご様子。三百年来の王朝にも終わりが見えたというものですね」
吐き捨てたユニカの手首を、ディルクが掴み上げる。
「そうならないためなら、私は何でもする」
二人は至近距離で睨み合う。ディルクの瞳の中にはユニカの影が映っていた。冷静な強い意志に包み込まれている自分の姿を見て、ユニカは気圧される。
言い返せずに黙った彼女に、ディルクはさらに押し迫った。
「王族は国に仕える者。私を迎えてくださった陛下はそうおっしゃっていた。君はあの言葉を口に出来る君主の覚悟と尊さを考えたことがあるか」
握られた手首が痛い。ユニカは相手が冷静を装っていることに気がついた。ディルクは焦っているのだ。なんとしてもユニカの血を得たいと。
ユニカは思わずせせら笑い、いっそうきつくディルクを睨んだ。
「覚悟というのは、領地を放り出し都に逃げ込んだ貴族を落ち着かせるため、病の民を死地に閉じこめる覚悟のことでしょうか」
呻き声、爛れた皮膚に湧き出る膿み、こときれ、炎天下で腐っていく死体の放つ悪臭。
あの光景を知らない者に、覚悟だなんて言わせない。
王に見捨てられた故郷を思い出し、ユニカの瞳の底に暗い炎が灯る。それを見つけたディルクはにやりと口の端を吊り上げた。
「――なるほど。君と陛下の関係が、少しだけ分かった」
彼に素性を調べられているとは知りもしないユニカは、さらに眉間の皺を深くした。そしてディルクの手を振り解こうと藻掻く。が、逆にもう片方の手も捕まえられる。
「そうだ、私たち王族がしなくてはいけないのはそういう覚悟だ。誰かの父で、夫で、兄で、恋人である民を死地に送り、切り捨てる覚悟だ。――私も陛下に倣おうと思う。国を守るために棄てなければならないものがあるなら、棄てる」
ディルクは掴んでいたユニカの腕を、彼女の方へ押し返した。突き飛ばされる形になったユニカはあえなく寝台の上に倒れる。
何をするのかと思いきや、その場に跪いたディルクは浮き上がったユニカの脚を手に取った。唖然とするユニカを視線だけで見上げながら、湯船で磨いたばかりの肌に手を這わせ、そっと足先を両手で包み込む。
そして、厳かな所作で足の甲に口づけた。
それは、とても旧い作法の一つ。相手への屈服を示す儀式だった。
「――っ! 王家の方が、軽々しくこんな真似をなさっては……!」
「軽々しくしたつもりはない」
今度は足首を掴まれた。さすがに王太子の顔を蹴るわけにもいかず、ユニカはどうしていいか分からない。古いゆえに格式の高い所作は、ディルクが生半可な思いでここへ来たわけではないことをユニカに理解させた。
「まだ何をすればいい。どうすればエイルリヒを救ってくれる」
「……」
ディルクは返事をしないユニカをじっと見つめたが、新しい反応が返ってこないので再び彼女の足に唇を寄せる。
「やめて!」
彼が触れる前に、ユニカはたまらず脚を払った。驚きのあまり激しく脈打つ胸を押さえ、跪いたままこちらを見上げる王太子から目を背けた。
「……分かりました。血は提供しましょう。でも医女をここに」
「ありがとう」
「えっ、な――!?」
ディルクの香りが近づく、そう思った瞬間、ふわりと身体が浮き上がる。肩に掛かっていた毛布が滑り落ち、ユニカは抱え上げられたのだと気づいた。
「待って、何をするつもりなの!? 私は宮から出ないと言っているでしょう!」
「医女を連れてくる時間はないと私も言った。一緒に迎賓館まで来てもらう。フラレイ!」
「はいっ」
嫌な予感が当たり、ユニカは頭のてっぺんからさっと血が降りていくのを感じた。
迎賓館? 外郭ではないか。ここ一年内郭の外へほとんど出ていないユニカにとって外郭は異世界といってもいい場所だ。
びくびくしながら様子を見守っていたフラレイは呼ばれるなり目を輝かせこちらへ駆け寄ってくる。ディルクに名前を覚えて貰えたのが嬉しいようだ。
「君の外套を貸してくれないか。それをユニカに羽織らせてくれ」
「はい、ただ今お持ちいたします!」
「ま、待ちなさいフラレイ! 持ってこなくていいわ。着替えくらいさせて。私、今から休むつもりで、薄着で、」
「大丈夫、侍官の制服は暖かいよ。向こうでもすぐに部屋を用意する」
「そういう問題じゃなくて」
「フラレイ、早く」
「はい!」
控えの間に消える侍女を止めることも叶わず、ユニカは歯噛みしてディルクを睨んだ。ユニカに睨め付けられていると気がついた彼は、自分が抱えている娘を見下ろしにこりと笑う。
「……石鹸の匂いがしたが、風呂にでも入っていたのか?」
足の甲に押しつけられる唇の感触を思い出し、ユニカは舌を空回りさせて真っ赤になった。それを肯定ととったディルクは喉の奥で笑い、フラレイが持ってきた外套を、とりあえずユニカの腹の上に乗せさせて部屋を出る。
「降ろしてちょうだい! 自分で歩くわ!」
「無理だろう。やっとのことで立っていたくせに」
またもユニカは言い返せなかった。ディルクの心の乱れを見破っていたつもりだったが、こちらの見栄もすっかり見破られていたらしい。
ユニカは抵抗するのを諦め、ディルクの腕の中で大人しく縮こまった。




