4.両翼を成す子ら(3)
迎賓館の一室でユグフェルトを迎えたのは叩頭するディルクだった。
「申し訳ございません。私が主催する会でこのような騒ぎを――」
「謝罪はあとでよい。公子殿の容態は」
「吐血したきり意識が戻りません。原因は調べているところですが、恐らく複数の毒物がエイルリヒの口にしたものに混入されていたと」
「医官は誰がついている」
「イシュテン伯爵とオルノス博士です」
ユグフェルトは歯噛みし、衝立の奥で動き回る医女たちを睨んだ。
「吐血した際に毒物も一緒に吐いたのではないか」
「臓腑を傷つける類の毒はそこで吐き出されたと考えてよいそうです。しかし数種類の毒がかけ合わさったとなると、すでに身体を巡っているものもあるようで……」
説明を聞いただけのディルクを通した話はまどろっこしい。ユグフェルトは手当に忙しいであろうことを分かっていながらイシュテン伯爵を呼んだ。
「伯!」
「はっ」
衝立の奥から飛び出してきた壮年の男は、ディルクの隣に並んで跪いた。
ティアナの父であり、十年にわたって王を診てきた医官は汗だくだった。エイルリヒに水を飲ませ胃を洗おうとしているのだがうまくいかないのだ。
「毒は何が使われた。何に入っていたのだ」
「はい。エイルリヒ様がお口になさった料理、使われた食器をすべて調べましたところ、直前にお飲みになった葡萄のジュースから酸の一種に反応がありました。胃の腑を傷つけたのはこの毒で間違いございません」
「ほかの毒は」
「まだ特定が……」
「何故だ」
「デカンタが割れてしまい、毒入りのジュースがわずかしか残っておりません。試薬を使おうにも充分な量がなく、オルノス博士がエイルリヒ様に現れている症状を観察しているところで――」
ユグフェルトは絶句した。解毒は時間との勝負だ。症状が顕著に現れてから対応していては手遅れになる。
「毒の見当はつかないのか」
ディルクが苛立たしげに言うと伯爵は力なく首を振った。
「特定に至る前に解毒を行うのは危険です。解毒に用いる薬がいずれかの毒に反応し、ご容態を悪化させてしまう恐れもあります」
ユグフェルトは小さく唸る。彼はしばらく王家の主治医を見下ろしていたが、やがて踵を返した。
「手を尽くすように」
「はっ」
今、王に言えるのはそれだけだった。治療は専門家に任せるしかない。彼にはほかにやらねばならないことがあった。
エイルリヒは、ディルクを送り届けに来たウゼロ公国の使節代表。大公の名代であり、大公家の跡継ぎになる嫡子だ。
その彼に毒が盛られたとあっては使節団は黙っていまい。必ず抗議があり、大公へも報せが飛ぶだろう。
ディルクの催す昼食会での出来事とはいえ、城と国の主はユグフェルトである。しかも相手が大公家――〝予備の王家〟なのだから、当然王が責任を負い、対応にあたらなくてはならない。
もしもエイルリヒに万が一のことがあれば大公家の跡継ぎがいなくなる。長子のディルクが公国での一切の権限を放棄する誓いを立てて王家に入ったためだ。彼はすでに大公の後継者になる資格を失っている。
ほかに継承権を持つ公女はいるが、シヴィロにもウゼロにも女の君主を立てた歴史がなかった。公女を後継にするのは難しいだろう。
大公家に跡継がいない場合、王家が一時的に公国を治め、新たな大公を選出すると典範にはある。しかし〝新たな大公〟になれる王族が現時点でいない上、今の公国政府がその権限をシヴィロ国王に集約されることをよしとするとは思えない。
何しろそのような事態に陥ったことがない上に、王家と大公家の間には深い感情的な溝があった。
――崩れる。
二国間の関係。貴族の力の均衡。トルイユ、マルクエールとの外交。そのすぐ先にあるのは戦乱だ。
部屋を出たユグフェルトは、自分を追いかけてくる足音に気がついて振り返った。
険しい表情で彼の一歩手前まで歩いてきた甥が、じっとこちらを見つめ、おもむろに跪いた。
「陛下にお許しいただきたいことがございます」
「今すべきことが分からぬか」
「分かっております」
「余は公国への対応にあたる。そなたは毒が混入された経緯を調べよ。貴賓が集まる席でこのような事件が起きるとは、早速に王太子としての器量を問われる事態になりかねんぞ。この騒ぎの首魁を捕らえるのだ。そなたの名でな」
「それはすでに進めております」
立ち去ろうとするユグフェルトを、ディルクの強い口調がさらに呼び止める。
「エイルリヒが飲んだジュースは、ブリュック女侯爵から薦められたものです。女侯には迎賓館のひと間にお留まりいただき、手土産をどのように保管していたのかお話を聞いています」
王は、そう告げるディルクの視線にぎくりとした。
不抜の意志を宿す、青みがかった緑の瞳。
形式通りの挨拶をそつなくこなす、有能だがどこか冷めた印象がディルクからまったく消えていた。
そしてその容貌はよく似ていた、二十年以上前に大公家へと嫁いでいった彼の母――ユグフェルトの妹に。
シヴィロ王国とウゼロ公国、その間にある溝の深淵にいる彼女に。
彼女はこれほど強い意志を持ってユグフェルトを見つめてきたことはなかったが、血の繋がった甥の面差しには、確かにユグフェルトと同じ血が流れている証があった。
「すべきことは、毒を盛った犯人の捜査、公国、貴族への対応。それから何より、エイルリヒの手当です」
淡々と投げかけられる言葉で我に返り、ユグフェルトは静かに息を整えてから言った。
「それはイシュテンとオルノスがすることだ」
「ですが間に合いません。このままでは、あれは死にます」
「……」
畳みかけられると、言葉を返せなかった。
今、ひとつの対応を間違えばじきにたどり着く最悪の結末。それを認めるしかない。
「エイルリヒが死ねば、王家と大公家の亀裂が決定的なものになってしまいます。シヴィロとウゼロは、もう兄弟でも主従でもいられなくなるでしょう」
シヴィロ王国とウゼロ公国の特殊な関係は、周辺諸国にも類を見ない。
各々〝国〟であり、別々の君主を戴きながら、ウゼロ公国の軍事、財政はシヴィロ王国からの干渉を受ける。
また両家の距離も微妙なものだった。
もとが同じ王家とはいえ、大公家は二百年以上前に王家から枝分かれしたのである。
それを最も王位に近い家系として独立させ、頻繁に血を交え、王家に後継のいない時には大公家から王位継承者を迎える。その例はこれまでに三件。
この関係から分かるように、シヴィロ王家はウゼロ大公家なしには存続できない。にも関わらず、常に大公家に対して優位を保っていた。
あくまでも主君はシヴィロ王家であり、ウゼロ大公家は第一の臣下でしかないのだ。
そしていつの時代でも、必ず臣下が従順であるとは限らない。
二国間で官吏の異動もあり、それぞれに戴く君主を決めた貴族が両国内に入り乱れている。シヴィロ王国とウゼロ公国が袂を別つようなことがあれば、どちらの国も内部に敵を抱えた状態で同時に疲弊し滅んでいくだろう。
「私は、大公家に生まれ王家に入ったということになっていますが、」
「やめよディルク。公の発表を覆す言葉を口にしてはならぬ」
ディルクは王が遮った言葉の先を大人しく呑み込んだ。そしてふと笑みを浮かべ、瞬きひとつあとには再び表情を引き締める。
「事実、私に両国を繋ぐ力はありません。それが出来るのはエイルリヒです。大公が親シヴィロの意見でも耳を貸す可愛い息子、次代の大公。あれが私の第一の臣下になってくれることで両国の溝は埋まるでしょう。ここで両国の楔に成り得るエイルリヒを喪うようなことがあれば、我々の王朝はあと五十年と保たずに滅びます」
「……太子が言うことではない。それを防ぐのが王家であり、政である」
「いいえ陛下。風を捉え舞い上がるには、一対の翼が必要です。シヴィロとウゼロは、離れれば地に墜ちるしかない。ふたつに分かれたときから、その運命を互いに言い聞かせ、共に歩んできたはず」
マントを翻しディルクに向き直ると、ユグフェルトは持っていた杖で強かに床を打った。
「ならば、どうせよと言う」
ディルクは立ち上がり、いら立つ王の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ユニカなら、」
王の瞳に激しい動揺が映る。
「『天槍の娘』の血なら、エイルリヒを救うことが出来るのではありませんか」
「……ならぬ」
「陛下! 国歩をかけてもそうおっしゃるのですか? たかが娘ひとり、それも数百の民を焼き殺した娘を、そこまで庇護されるのは何故ですか」
「よく知っているではないか」
ディルクは緘黙して、認めた。ユニカを調べ上げて来たことを。
それは何故かと問われればまだ答えるつもりはなかったが、王はそれ以上問うてこなかった。
「あの娘が犯した罪は、余の罪でもある」
「は……?」
「娘がよいと言うのであれば、力を借りるがよい」
ユグフェルトの前では、常に天秤が揺れている。
国、民、貴族、外交、さらにもっと細かく別れた世の中の出来事、ものごとが、その天秤の皿に乗って揺れている。
王は、いつもそれらの重さを量らなくてはならない。
選んで、棄て、選んでは、また棄てる。
そうして棄てたものの中から這い出し、ユグフェルトを呪っているのがユニカだった。
その彼女を、ユグフェルトはまた棄てる。国と彼女を秤にかけて。
二人は黙ったまましばらく動かなかったが、やがて王の方が、先に王太子に背を向けた。
急にしおれてしまった後ろ姿を怪訝に思いながら見送り、ディルクも迎賓館を出る。
そして最寄りの厩舎――来賓たちの馬を預かっておく厩へ立ち寄り、鞍の乗っていた青毛の馬を引っ張り出した。するとそれを見た馬丁が慌てて止めにやってくる。
「お待ちを! お、王太子殿下? どちらへ……」
ディルクがつけるサッシュで彼の身分を知った馬丁は、おろおろしながらもしっかりと馬の轡を押さえた。相手が誰であろうと勝手にこの馬を持ち出させる気はないという意思表示だ。
しかしディルクは構わない。
「この馬を借りる。急ぎ内郭へ戻らなくてはいけない」
外郭から西の宮まで戻るには長い階段と坂道が続いていた。自分の足で戻るのでは時間がかかりすぎるのだ。エイルリヒの身体を冒す毒がどれほどの早さで彼を死に至らしめるのか分からないというのに、時間を食ってはいられなかった。
「し、しかし、これはエリヤ子爵さまの」
「エリヤ子爵だな。よい馬だ。あとで礼をつけて返すと伝えておいてくれ」
「ええっ? うわぁっ」
馬丁を説得するつもりなど初めからなかったディルクは、鞍にまたがり馬腹を蹴る。
漆黒の巨体に押し退けられた馬丁はあっけなく転び、解放された青駒はディルクに従って厩を飛び出した。
(あの馬鹿、どこが最小限だ)
ディルクは馬を駆りながら、最初の門で着けていたサッシュを外して振りかざす。
そして王太子の紋章を認め門を開けた衛兵に上の門へも開門の信号を送るように指示を出した。
(ユニカが「嫌だ」と言ったら、お前は本当に死ぬぞ)
そうでなくても、ユニカの血に毒を消す力がある確証はない。
彼女には毒が通用しない――その噂から解毒に近い効力を推測できるだけだ。
これは多分、エイルリヒが言っていた〝ユニカを表へ引きずり出すためのアイディア〟。
危険すぎる賭けだった。
エイルリヒは己の肩にかかる国運ごと命を差し出し、誰もが必死になる状況を作り出したのだ。




