4.両翼を成す子ら(2)
「王太子殿下」
ディルクはその声で初めて彼女が近づいてきたことを知ったかのように顔を上げた。
見上げた先では横に立派な体躯の貴婦人が口許を扇子で隠しながら笑っている。
「ブリュック女侯。ようこそ、今日は楽しんでいただけていますか」
「もちろんですとも。お招きいただき、恐悦にございます」
立ち上がったディルクに対し彼女は膝を折り、優雅に叩頭して臣下の礼をとった。ディルクも彼女の手をとって口づけ、老齢の女侯爵にエイルリヒの隣の椅子を譲る。弟の顔が一瞬強張ったのを見たが、無視だ。
「先日はせっかくご招待くださった宴を欠席してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ、殿下。ウゼロからの長旅に続き、毎日のように他家の歓迎を受けていらしてはさぞお疲れだったでしょう。わたくしの方こそ、配慮の足りぬお手紙を差し上げてしまったことを悔やんでおります。エイルリヒ様、あの夜はありがとう。殿下の代わりにこの婆のお話相手になってくださって、とても楽しいひとときでしたわ」
「それはよかった」
ブリュック女侯爵とどういう話を楽しんで来たのかは聞いていないが、エイルリヒにとってはあまりいい思い出ではないらしい。いつでもうまく笑顔を作れる彼が頬を引き攣らせている。
「今日の機会にはぜひ殿下と色々なお話をしたいと思っておりました。……それにしても、」
エイルリヒの表情に気づいてもいないブリュック女侯爵は、ディルクを見上げてわざとらしく目を潤ませた。
「ご立派になられましたこと。ご誕生の報せを聞いたのがついこの間のように思い出されますのに、もう二十年も昔のことだなんて」
微笑むディルクの目許がひくりと動く。ブリュック女侯爵にはそれが分かった。扇の向こうで彼女の目はさらに細められる。
「わたくし、本当に嬉しかったのですよ。なんといってもハイデマリー様が……あの奔放な姫さまが公妃に、そして母君になられたと聞いた時には我が子のことのように感激してしまいました」
「……わざわざ公国へもお祝いに駆けつけてくださったそうですね」
「ほほほ、殿下は覚えていらっしゃらないでしょう。よくお休みになっていた殿下を抱かせていただきましたのよ。姫さまにそっくりな御子だとあの日も思いましたが、こうしてご立派に成長なさっても、母君の面影の強いこと」
色の薄い金の髪、目鼻立ち、そしてエメラルドでもペリドットでも表現できない、不思議な青みを帯びた緑の瞳。ディルクの容姿に女らしさがあるわけではないが、一度ハイデマリー王女を見たことがある者なら彼女を思い出さずにはいられないほど、王女によく似ていた。二人の間には最も近しい血縁があることを感じずにはいられない。
そして、人々はことさらにそのことを囃し立てる。もう片方の血筋については決して目を向けないように。
しかしそうはさせない。新しい王太子が誰と誰の血を継いで生まれてきたのかを、いずれ公に認めさせる。そして中央で失った影響力を取り戻し、政界へ復帰するのだ。
そんな野望を滲み出させる女侯爵が扇をぱたぱたさせると、つんと香水の匂いが漂ってきた。なるほど、エイルリヒはこれが嫌なのか。固まりきった笑顔で女侯爵に相槌を打っている弟が面白い……もとい気の毒だ、とディルクは思った。
ユニカからもとても強い香りを感じたけれど、あれはいくら強く香っても、決して嫌な気分にならない匂いだった。脳を直接包み込む、甘い花の匂いでもあり、麝香のようにつんとした渋みもあり、思わず手を伸ばしたくなるような。
あれから彼女には会えていない。もう身体は大丈夫だろうか。
そういえば、西の宮に立ち入ることは禁じられたが手紙や贈りものは禁止されていないのだ。明日にでも何か届けてみよう。
「殿下?」
「ああ、はい、なんでしょう」
自分を拒む青い瞳に思いを馳せていたディルクははたと現実に戻った。目の前にあるのが会いたくもなかった老女の顔で、残念なことこの上ない。
「いやですわ、ぼうっとなさって。お酒を過ごされましたかしら?」
「いいえ、さほどのことは」
しかし微笑まないわけにもいかず。
女侯爵はディルクの社交の笑みを好意の表れととっているのか、初対面の緊張感も遠慮もまるでなかった。近くにいた召使いを呼びつけると、彼女から受け取った杯をディルクに押しつけてくる。
「でしたら、ぜひこれをお召し上がりくださいな。我がタールベルク領邦の葡萄酒をお持ちしましたの。ハイデマリー様も親しんでくださったものですのよ」
そう言いながら、女侯爵手ずからディルクの手にあった杯に葡萄酒を注いだ。
少し緑がかった黄色が彼女の領邦特産の葡萄酒である証らしい。確かに美しく珍しい色。甘みが強いがあとに残る酸味もほどよい。素直にディルクが褒めると、女侯爵はえ笑って顔のしわを深くする。
「エイルリヒ様にはこちらをどうぞ。お酒を作るのと同じ葡萄で作ったシロップを、お城のソーダ水で割ったものですの」
「ソーダ水? それは珍しい。城内にあるのですか」
「殿下はまだご存じないのね。ドンジョンの奥に湧いているそうですわ。街区へも水道管を使って引いてあるので、貴族や市民も利用しております」
ディルクと同じようにエイルリヒにも杯を持たせ、女侯爵は別のデカンタから淡い黄色の液体を注ぐ。気泡が弾ける飲みものをエイルリヒはしげしげと眺めていた。
その様子に、ディルクはわずかな違和感を覚える。
「エイルリヒ様、ソーダ水は初めて? その泡は水に溶け込んだ不思議な空気が驚いて外へ出てきているものですのよ。のどごしがくせになりますわ。さぁ、お飲みになって」
エイルリヒは相槌を打つと、恐る恐る杯に口を付けた。しかしひと口啜ったところで杯を離し、何か考え込むように沈黙したあとさらに二口飲む。
やはり、どこか様子が変だ。
「あら、お口に合いませんでしたかしら?」
当然、エイルリヒの様子はそう解釈されるだろう。女侯爵は残念そうに目尻を下げたが、エイルリヒは首を振ってそれを否定した。
「いえ、ちょっと口の中が変な感じだなって。でも甘くていい香りがしますね。美味しいです」
彼の返事に安堵して喜ぶ女侯爵とは反対に、ディルクは違和感と疑問をぬぐえなかった。
口に合わなかったのなら合わなかったで、弟は受け流す術を心得ているはずである。周囲にそのことを知らしめるような態度はとらず上手く隠せるだろうに。
ディルクが怪訝そうにしている内に、エイルリヒは休みながらも急いでそれを飲み終えてしまう。
「ところで、殿下」
女侯爵の声色が急に猫撫での甘ったるいものに変わった。ディルクは温い微笑みを絶やさないまま、女侯爵へと視線を戻す。
「もうシヴィロ王国へいらしてから十日ほどが経ちますが、こちらのお暮らしには慣れていらっしゃいまして?」
「ええ、陛下や周りの者が大変よくしてくれていますから」
「それはようございましたわ。……まだ公のお役目も決まらぬ内にこのような申し出はお節介かと思うのですけれど、いずれ殿下も、様々な催しのために臣民の前にお立ちになるでしょう。その時はやはり、お隣に寄り添ってお仕えする者が必要かと思いますの。殿下が成人したご立派なお世継ぎなればこそ、皆々の目はそうした体面が整っているかということに向きますわ」
ディルクは内心、鼻で笑った。
やはり来たか。どの貴族と話しても、二つ目か三つ目の話題はこれだ。縁者の若い娘をディルクの傍に差し出し、妃を立てたいのはどこの家も同じだからだ。
しかしこの女だけはそれも遠慮するのではないかと思ったが、ディルクが期待したほどこの女傑は奥床しくはなかったらしい。
「わたくしの姪の長女に、フルオーラという娘がおります。今年で十七になりました。まだ若輩者ではございますが、王城にお仕えできる行儀や作法は身に着けております。いかがでしょう、殿下。決まったお妃を娶られるまで、コンパニオンとしてフルオーラをお使いいただけませんでしょうか」
「……」
ディルクは返事に詰まった。遠慮どころではない、この女はなんと明け透けにものを言うのかと呆れ返る。
コンパニオンとは妃の代役のことだが、実質は妃の位が与えられない愛妾だ。
妃を迎える前の王族の男子に仕える女性。この仕組みが利用されることは、周辺の国々でも珍しくはない。
しかし王子が妃を迎え、役目を終えたはずのコンパニオンが寵を盾に王家に居座り、政に口を出しては国を乱す例も少なくなかった。ゆえにシヴィロ王国のここ数代の君主たちはその仕組みを自然と遠ざけてきたのである。
一族の娘を妃に推挙しても、他貴族からの支持がなければ潰される。そして今のブリュック侯爵家に他家からの支持は得られない。
ならば非公式の側女として、縁者をディルクの傍に。くだんの娘がディルクのお気に入りになりさえすれば、他家の支持はなくともブリュック侯爵家はディルクに対して影響力を持てるようになる。
それにしても、コンパニオンが家を乱した例を実際に知るディルクに対して、妾を持つよう薦めるこの老女の無神経さには恐れ入った。
彼女は追い詰められている。ディルクと結びつかなければ政界で生きていけないほどに。しかし、それはディルクの知ったことではなかった。
「女侯、申し訳ないが」
誰が、お前の血縁などに手をつけるものか。
汚らわしい。
そう吐き捨てたいのを堪えて、ディルクは変わらぬ笑みで女侯爵を見下ろした。
「もう、ぜひ妃にと思う方を見つけましたので」
女侯爵の顔から笑みが消えた。驚きの声を上げたまま、その先の言葉が出てこない。ゆるく扇を揺らしながら懸命に冷静さを保とうとしているのが見て取れる。
いい気味だ。
「それは、おめでたいこと。どちらのお家の姫君でしょうか。シュライエル侯か、メヴィア公の姫君? それともジオグ伯の……?」
女侯爵は、ディルクが宴の招待を受けた貴族の名前をいくつかあげた。いずれもディルクに縁者の年頃の娘を薦めてきた。本気であれば今後も根回しをしてくることだろう。
ディルクはどれを受けるつもりもない。彼が手の内に収めたい娘はたった一人だけなのだから。
「これはまだ、私一人の思いで決めてあるだけの話。陛下にもご相談申し上げ、正式にことが進みましたらご報告する機会もあろうかと思います。ですから、フルオーラ嬢にはぜひ正妻としてのよい嫁ぎ先を見つけて差し上げてください」
「は、ぁ……さようでございますか」
思惑が外れた女侯爵は扇子の奥で歯噛みした。
まさかこの王太子は、徹底的にブリュックを無視して政界に呼び戻さないつもりなのでは。
湧き上がった危惧の念が女侯爵から自信を奪う。そして彼女を焦らせ、判断力を鈍らせる。
「では、殿下。また別の機会をもうけますので、今度こそ我が家へいらしてくださいな。お見せしたいものがたくさんございますのよ。ハイデマリー様の持ちものも残っておりますから、それらをお返しいたしたく――」
口にするには細心の注意を払わねばならない言葉が、彼女の乾いた唇からあっさりと零れてしまう。すべてはディルクの気を引きたいがために。
「母の?」
きょとんと目を瞠って首を傾げたディルクは、身を屈めて女侯爵の鼻先へ顔を寄せた。そうして扇一枚を隔て、至近距離から彼女を睨む。女侯爵が「しまった」と思った時にはもう遅い。
「なぜ、他国へ嫁いだ母の持ちものが未だに女侯のお手許にあるのかは存じませんが、」
女侯爵はごくりと唾を飲んだ。口の端だけを吊り上げて笑うディルクの目には、嫌悪感と怒りがありありと浮かんでいた。
「棄てていただけますか。私には関わりのないものです。行こうエイルリヒ、そろそろ陛下がお見えになる時間だ。一度席に戻らないと」
あまりに冷ややかな言葉に、女侯爵は細かく扇を震わせながら青ざめた。
関わりのない。それはやはり、ブリュック侯爵家を掬い上げることはないという意味だろうか。
いや、これで終わらせるわけにはいかなかった。
何ごともなかったように一礼し、彼女から離れようとするディルク。
「お、お待ちください、殿下……」
女侯爵は王太子を引き留めようと手を伸ばした。その時だった。
隣で、椅子の肘置きに捕まりながら立ち上がったエイルリヒの身体がふらりと傾いだ。
「きゃあっ」
かと思ったら、ブリュック女侯爵の召使いを巻き込んで彼は倒れてしまう。
召使いが持っていた硝子のデカンタが床の上で砕け散り、一斉に彼らのもとへ注目が集まった。
「こ、公子さま……!」
そして下敷きにされた召使いは、エイルリヒを見上げた途端に悲鳴を上げた。彼女の胸に転々と赤い雫が落ちてくる。
「エイルリヒ、どうした?」
割れた硝子で怪我でもしたのだろうか。
ディルクは二人に歩み寄り、床に手をついたまま動かない弟を引っ張り起こした。ぐったりした彼の身体は、やけに重い。
ディルクに助け起こされながらも項垂れたままのエイルリヒは、小さく呻き、くぐもった咳をする。
それと同時に鮮烈な赤が飛び散った。あたりを満たす甘やかな葡萄酒の香りに濃厚な鉄錆の臭いが混じり込む。
「エイルリヒ!?」
ディルクは息を呑み、うつむいたままでいる弟の顎を掴み上向かせる。
真っ赤に濡れたエイルリヒの口許。その端からさらに血を滴らせる彼の目は虚ろで、やがて瞼が降りると同時に、その身体はディルクの腕の中へ倒れ込んできた。
「ひぃ……っ」
女侯爵が椅子を蹴倒して立ち上がる。血の滲んだ葡萄酒の水たまりを踏んでさらに狼狽える老女。それを皮切りにあちこちで悲鳴が上がり、迎賓館の広間は騒然となった。
なんだ、これは。
弟の身体を抱き留めたまま、ディルクは呆然と血溜まりを見ていた。
聞いていない。こんなことは聞いていないが、まさか。
「殿下、公子さまを別室へ……!」
駆け寄ってきた侍官に切羽詰まった声で耳打ちされ、彼はようやく我に返った。
「案内を」
「はい!」
ぐったりと四肢を伸ばしたエイルリヒを抱き上げ、ディルクは苛立たしげに唇を噛む。
意識を失ったように見える弟の口許が、微かな笑みを浮かべていたからだった。




