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天槍のユニカ  作者: 暁子
第1章 凍てつく槍の来歴
13/62

4.両翼を成す子ら(1)

 半年にわたって極度の緊張が続いた領土問題をたった五日間の戦闘で終結させ、講和をまとめた功績は誰の目から見ても大きい。


 しかし失ったものも多く、〝彼女〟は唯一この手に遺った宝であり、心のよりどころだった。


『だめよ、ディルク。こんな端女(はしため)に手をつけては』


 ――ワタシタチノ血ガヨゴレテシマウワ。


 もう動かなくなった娘の背に、血濡れた剣がさらに振り下ろされる。







「――っ!!」


 大きく目を瞠ったカミルの顔が視界の端にあった。


 ディルクは荒い呼吸を繰り返し、天蓋へ向かって伸ばしていた手をゆっくり下ろす。


 夢、だ。


「殿下……」


「悪い、寝坊したか?」


「いいえ。いつもならご自分で起きていらっしゃるのにと思って、ご様子を伺いに来ました」


「そうか」


 ディルクは汗でべったりと貼りついてくる寝間着の襟をはがしながら起き上がった。


 カーテンが開け放された寝室はすっかり明るい。寝坊はしていないというが、支度にかかる時間を思えば起き出すにはぎりぎりの時刻だろう。


 大きく深呼吸して、まだ走り続けている心臓を落ち着かせる。


 どこかに隠れたい気分だった。こんなに情けない姿を侍従に見られるなど、気が弛んでいるにもほどがあると自分を叱る。


「殿下、お顔が真っ青です」


「ああ、夢見が悪かっただけだ。なんともない」


 ディルクがこれ以上構わないで欲しいと思っていることになど気がつきもしないで、カミルは顔をのぞき込んできた。それを振り払うように寝台を降りるが、侍従はちょろちょろとあとをついてくる。


「よくお休みになれなかったのでしたら、今日は午後からお忙しいことですし、追加で予定に入れた午前の授業は取りやめになさってはいかがでしょうか。二時間だけでもお眠りになれば……」


「なんともないと言っている」


 つい声を荒げてしまえば、衣装部屋まで主を追いかけてきたカミルが息を呑むのが分かった。一緒にいた衣装係の侍女も気まずそうに顔を伏せる。


「……すまない。心配してくれるのはありがたいが、本当にどうということはないんだ。しかしまぁ、休ませてくれるならそうしようか。湯浴みがしたい」


「あ、はい!」


 衣装部屋の扉を閉める直前、ディルクはもう一度振り返って侍従に笑いかけた。カミルが悪いわけではない、と自分に言い聞かせながら。





 いつも通りの気さくな笑顔を見せてくれた主に手でも尻尾でも振りたくなったカミルだが、やはりその顔が蒼白だったことが気になって力なく微笑み返すに留めた。


 それにしても驚いた。落ち着きがあって、どこか飄々としているところもあって、何でもそつなくこなせてしまうように見えるディルクがあんなふうに取り乱して叫ぶことがあるとは。


 そしてなんといっても〝その名〟は――。


 思考に耽りかけていたカミルだが、主に言いつけられた風呂の用意を思い出し慌てて主室へとって返した。


「商法の授業は中止、代わりにお風呂、代わりにお風呂」


 呪文のように呟くカミルを横目に侍女たちはディルクの朝食の支度を進めている。


 ぼそぼそ唱えられる言葉に気がついたティアナは銀器を並べる手を止めた。


「午前の授業は中止になさるの?」


「うん、代わりにお湯浴みを。ビーガー博士に連絡しなくちゃ。クリスタ、行ってきてくれないか」


 スープを温め直していた侍女は、声を掛けられるなりあからさまに嫌な顔をした。


「どうして手が離せそうにない彼女に言うの。エミ、お茶はわたしが用意するから行ってきて。博士には、殿下は少しお加減がよろしくないので、午後からのために大事を取ってお休みしたい。代わりに明後日の午後二時から授業をお願いしますとお伝えして」


「ええ」


 ディルクの一週間の予定などすべて頭に入っているティアナは、カミルが手帳を広げてあたふたしているうちにさらりと次の指示を出した。クリスタもエミもそれで満足そうである。形無しのカミルはついつい項垂れたが、


「あなたはお湯浴みの手配に行きなさいな」


「あ、ああそうだね。うん」


 ティアナに叱られ部屋を出て行こうとした。しかしそれもいったん思い留まり、テーブルの周りでせわしなく動き回るティアナを捕まえる。


「なあに、カミル」


「あの、さ。殿下がウゼロに恋人を残していらしたとか、そういう話は聞くかい?」


 ティアナは少しだけ目を瞠ると、腕を掴んでいたカミルの手を乱暴に振り解いた。


「寝言で女性の名前を……あ痛っ」


 さらに続けようとしていたカミルは悲鳴を堪えて黙る。ティアナが、ゆっくり力を込めて彼の爪先を踏んでいたのだ。


「クヴェン殿下のときはそうやってなんでもわたしたちが心配していればよかったけど、ディルク様はご立派な成人男性なのよ。わたしたちが心配しなくてもいいことがあるし、見なかったことにしなくてはいけないこともあるわ、分かる?」


 噛んで含めるような言い方ながら、ティアナの表情は険しい。そして爪先がいよいよ痛い。


 ぎりぎりと圧力をかけられていたそこが開放されると、カミルは慌ててティアナから距離を取った。


「わたしたちの仕事は殿下の生活のお世話。人生の相談役ではなくってよ。黙って自分の仕事をしなさい」


「はい……」


 悄然と肩を落としたカミルが今度こそ出て行くと、ティアナは物見高く二人のやり取りに聞き耳を立てていた同僚たちにも凄みのある笑顔を向けた。


「あなた方も、今言ったことは理解できているわよね?」


 彼女らは何度も頷いて、各々に手を動かし始めた。ティアナもまたテーブルの上に食器と料理を丁寧に並べていく。


 知っていても口に出してはいけないことなど、たくさんあるのだ。



     * * *



 ウゼロ公国から迎えられた新しい王太子、ディルク・ヴェッツェル・ニグブル。


 彼の立ち位置をはかるのは大変難しい。


 ディルクはシヴィロ国王ユグフェルトの妹、王女ハイデマリーを母に持ち、ウゼロ大公家に生まれた。


 しかし六歳の時、ウゼロ大公エッカルトに二人目の男児、エイルリヒ・ザシャ・ガーゲルンが生まれると同時に廃嫡。以後、十五歳の成人を迎えるまで、ディルクはハンネローレ城の外で過ごした。


 成人してからは公国軍に籍を置き、二年前のバルタス金鉱山をめぐるトルイユ国との紛争では南の国境を含む金鉱山を奪還。そして講和をまとめる中心人物となった。


 ただし、バルタスの変事では大公の長女、レオノーレ・ヴロニ・ガーゲルンの活躍が大きく取り沙汰される上、講和の直後、ディルクは文官へ転向となったので、彼の功績が注目されることはあまりない。


 指揮官、外交官としての力を示したにも関わらず、この二年、ディルクの存在はずっと埋もれてきた。


 その彼にまさか王国の玉座が巡ってこようとは、シヴィロ、ウゼロ両国の貴族は誰も予想していなかった。


 ウゼロ公国からやって来た新しい王太子。


 果たして彼はどちらの国の人間なのだろう。


 入り乱れながらもシヴィロ派、ウゼロ派と別れている貴族はそれをはかりかねている。


 浮き足立つ他貴族を尻目に悠然と構えていられるのは実に気分がよかった。ブリュック女侯爵はほくほくした気分で腰を上げ、召使いを呼びつける。


 今日、エルメンヒルデ城の外郭にある迎賓館では王太子主催の昼食会が催されていた。その客の一人として招待にあずかったブリュック女侯爵は貴族と談笑しているディルクを遠目に見つけほくそ笑む。


 齢七十を目前にして、まさか失墜した家名の勢いを盛り返す機会が巡ってこようとは思いもしなかった。


 王太子の複雑さを理解できるのは、我がブリュック侯爵家をおいてほかにない。


 天の主神に感謝し、彼女は召使いに手土産の葡萄酒とジュースを持たせ、ふくよかな身体で人混みを掻き分けながら愛しの王太子に近づいていく。


 一方ディルクは、今まで話していた貴族の御曹司と別れ近くの椅子に一人で座っているエイルリヒの隣へ移った。


「何を気にしている」


「別に? 何も気にしていませんけど。あ、でもこれ、今日の袖口のレース。ティアナが編んでくれたんですよ。いいでしょう」


 エイルリヒはしきりに見下ろしていた自分の手をディルクの顔の前につき出した。白いレースで象られた繊細な紋様がひらひら揺れる。


「ふーん……」


 会場で会ってから弟はいつもに比べ少し落ち着きがないように見えていたが。婚約者からの贈りものを見てにやにやしていただけらしい。ディルクはげんなりとして溜め息をついた。


「ふっふっふ。実はこの付け根の方に、小さく『ティアナからエイルリヒへ』って編まれてるんですよ。まだ婚約が公表前ですから大っぴらには言えないことですけど、ちゃんと編み込んでくれて。ね? いいでしょう」


「そうだな」


 ディルクは浮かれた弟の声に冷たい相槌を打っただけで、目の前にかざされていた彼の手を押し退ける。そして杯に残っていた葡萄酒を啜りながら、低いところにある弟の頭を見下ろした。


「結局三日間、伯爵の屋敷に滞在してどういう作戦を練っているのかと思えば、本当にティアナと遊んできただけだったわけだな」


「ええ、楽しかったですよ。ティアナとの仲も深まったし。ああ、早く結婚したい」


「ふーん……」


 嫌味のつもりで言ったのだが、まったく気づいて貰えなかった。逆にかちんときたディルクは空の杯を給仕の者に渡し席を離れようとする。が、その袖をエイルリヒが捕まえた。


「ちょっと待った。ティアナとどんなふうに過ごしたのか聞いてくださいよ。てゆーかどう仲が深まったのか気になりませんか?」


「子供同士の付き合いの壁を越えたってことじゃないのか」


「どうせそういういやらしい想像をしているんだと思いました。だったらなおのこと聞いてください。十五歳の壁は思いの外高くて厚くて、兄上が想像していたところにはたどり着けていないんですよ……」


「別に何も想像してない」


「そうだ! たまには兄上らしく相談に乗ってください!」


「……客の相手をしないと」


 エイルリヒの反応を見る限り、彼は兄の反応を覚知していないようである。噛み合わない会話を続けるつもりはなければ惚気も悩みごとも聞きたくない。ディルクは熱っぽく訴える弟を無視して席を立とうとするが、エイルリヒはがっちりとその腕にしがみつく。


「女性をベッドに引きずり込むのは兄上の得意技でしょう!?」


「人聞きの悪い。引きずり込んだことなんてない。全部同意の上だ」


「だから、その同意の得方を教えてくださいってば!」


「大人になってから考えなさい、お前にはまだ早い」


「いーやーだー! せっかくクレスツェンツ王妃がユニカを引き取った理由も伯爵から聞き出してきたのに! 教えて欲しくないんですか!?」


 エイルリヒを引き剥がそうとしていたディルクの力が弛む。


 周辺の貴族の関心がそれぞれの方向へ向いていることを確認して、彼は再度弟の隣に座り直した。


「それを早く……」


「その前に、ティアナを口説くためのアドバイスをください。じゃなきゃ教えない」


「お前……」


 てっきりティアナ云々は〝その話〟をするための前置きかと思ったが、エイルリヒの目はふざけていなかった。ディルクが呆れていると、その弟の目がちらりとディルクの背後へ向けられる。


『あーあ、彼女が来ましたよ』


 唇の動きだけでそう言うと、エイルリヒはディルクの腕を解放した。

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