3.『娘』の真偽(5)
「だからって! 叩かなくてもいいのに!!」
ディルクが就寝の準備をしているその横でエイルリヒはディルクのために用意されたハーブ酒をちびちびと舐めていた。ほんのりと甘いのが気に入ったらしい。
寝間着に袖を通したディルクも、エイルリヒの向かいに腰を下ろしてハーブ酒の杯を手に取る。
「寝る準備をしないか、弟よ」
「誰のために僕の帰りがこんなに遅くなったか忘れたんですか? 代わりに夜会に行ってあげてたんですよ、どこかの王太子が女の子の寝顔を眺めてにまにましている間に、お詫びのお土産をいっぱい持ってね!」
「ん、ご苦労」
「――殴られたいようですね」
エイルリヒは殴りかかる前に手にした杯を投げかねない形相だ。
ディルクの衣装を片付けたティアナがそろりとエイルリヒの背後に近づき、後ろからその杯を取り上げた。
「エイルリヒ様、酔っていらしたのですわ。早くお帰りになってお休みくださいませ」
そう言われて振り返ったエイルリヒは、まるで自分が痛みを堪えるように顔を歪める。
ティアナが左頬に大きな湿布を貼っていたからだ。ディルクから事情を聞いた彼は激怒した。
「嫁入り前の娘の顔に手をあげるなんて、どこが賢君なんですか!」
「仕方がありません。わたくしは陛下からのお言いつけを無視しましたもの」
王が廷臣や官人に下す言葉はすべて命令である。ティアナは分かっていて背いた。背けば王が怒ることも予想はしていた。ただ、手をあげられるとは思っていなかっただけだ。
少しばかり動揺してしまったことを恥じながらティアナは苦笑した。
「陛下は、やはりユニカ様に特別な思いを寄せていらっしゃるのですね。あんなに歓迎していらした殿下にまで、お言葉にも容赦がなく……」
「そうだな」
「何です? 叩かれただけじゃなくて、何か言われたんですか?」
「お前たちはそろって耳が悪いのかと」
ディルクは淡々と答える。
言われたことを気にしてはいないが、王の激昂ぶりには少々戸惑った。王太子として、王との仲が拗れるのはよろしくない。あとで謝罪すべきか、それともほとぼりが冷めるのを待つべきか。迷うところだが、ここは後者がよいのではないだろうか。
「じきに耳が遠くなるのはお前だと、言い返さなかったんですか?」
「言ってない」
面白い反論の仕方だ、機会があればぜひ使おう。ディルクは密かにそう思っただけで、エイルリヒから酒を取り上げたあともちょこちょこと働いて回るティアナの姿を目で追った。
ティアナやその父が多くの情報を集められるのは、ひとえに王からイシュテン伯爵家に寄せる信頼が厚いからだ。ディルクやエイルリヒはそれに頼りたいところで、今日の温室への案内や侍女の呼び出しも任せてしまったが、王はティアナがすべてを手引きしたことに気づいているらしい。
『城内に放った猫どもをいつまでも歩かせておくな』
そしてあの言葉は、エイルリヒの飼い猫、すなわちウゼロ公国の使節団の中に紛れ込んでいたマティアスの配下のことだろう。この城には外から入り込んだ猫の動きによく気づく、素晴らしい番犬がいるようだ。
城内のことをすべて把握できる王は強い。自分で臣下を選ぶことが出来る。
「ティアナ、お前には三日ほど暇を出す」
「えっなんで?」
瞬時に振り返ったのはティアナだが、間の抜けた返事をしたのはエイルリヒだ。
「顔の腫れが引くまで出てこなくていい」
「殿下……ですが」
「そんな顔で仕事をされては俺が手をあげたんじゃないかと疑われる。休んでくれ。しばらくは動かないことにする。そうだな、十日くらいは」
「はぁ?」
やはり酔っているらしく、エイルリヒの突っかかり方が少し妙だ。それは置いておくとして、ディルクは傍へやって来て跪いたティアナの肩を優しく叩いた。
「陛下はかなりお怒りだった。少し時間をおこう」
「時間をおいたからといって解決することでもございませんわ。ある程度は強行にことを進めねば……」
「お前だけが無理をする必要はない。強行にいくなら、ある程度という遠慮も不要だ」
「……。お力になれず、申し訳ございません……」
「いいと言っている。とにかく、三日間ティアナは休み。明日は屋敷に帰ってエイルリヒの相手でもしてやってくれ」
きゃっとはしゃいだ声を上げて、エイルリヒはクッションを抱きしめる。そんな婚約者と相対して沈痛な面持ちのティアナは、ディルクを見上げるとおもむろに口を開いた。
「あの……一つ案じられることが」
「なんだ?」
「殿下のお世話の指示を出せる者が、いなくなってしまいます」
「そういえばそうだな」
ティアナのほかにも、ディルクの世話をする侍女は何人もいる。彼女らに指示を出すのが侍従のカミルの仕事なわけだが、実質指揮を執っているのはティアナだった。カミルは明日風邪を引いて休みかも知れないし、どうせ来たって要領が悪く、あまり使いものにならない。
「ツェーザルに言って人を手配しておいてくれ」
「かしこまりました」
それが最後の心残りだったらしい。ほっとして微笑んだティアナの表情はいつも浮かべる事務的な笑顔とはまた違っていた。
その彼女の顎に指を引っかけ上向かせると、ディルクはくすくすと笑う。
「口を開けば仕事のことばかりだと思っていたが、そういう顔もするんじゃないか」
ディルクが言い終わるや否や、向かいの席からクッションが飛んでくる。それを器用に払い落とし、彼は何食わぬ顔でティアナから手を離した。
「ティアナ、もうさがって休んでください。兄上はまだ僕と話があるのでしばらく起きています。明日、僕はちょっと寝坊しそうですけど、あの……遊んでくれますか?」
「もちろんです。お待ちしております」
「やった! 昼過ぎには屋敷に到着するようにしますから!」
「はい。それでは殿下、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
部屋を辞するティアナに向かって、ソファの背もたれによじ登らんばかりの勢いで手を振っていたエイルリヒ。しかし彼女が扉の向こうに消えた途端、すとんとその場に座り直して脚を組んだ。
「で、こんな序盤でティアナを温存というのはどうしてですか?」
「言っただろう。陛下が怒っていらっしゃるからだ。主治医として重用しているイシュテン伯爵も、王太子付きとして召し抱えているティアナも、あの方なら簡単に切れる」
ぶす、とふくれて、エイルリヒは黙る。否定はしない、むしろ賛同しているだろう。伯爵父子は張り切って協力してくれているが、こんなに早い段階で彼らの力を失うのはもったいないことだ。
「それから、マティアスの部下も撤収だ」
「どうして!?」
「これ以上、あの娘の暮らしぶりで知りたいことはない。直接会えばいい」
「でも、陛下が許しなく西へ立ち入るなって……」
「許しを貰えればいいだろう」
「どうやって?」
「さあね」
ディルクはほくそ笑みながら杯に口をつけるが、特にいい案があるわけではなかった。
『見え透いた嘘はやめよ』
ユニカのことを知らない振りで問うたディルクに、王はそう言った。ばれている。
ディルクがユニカに接触しようと図っていたことを、彼は知っているのだ。
その割に譴責一つで済ませるとは甘い。ティアナを叩きつけるほど怒っているのは確かだが、あの程度でディルクが大人しくなると思っているのだろうか。
「さあねって、兄上はともかく、僕にはそんなに時間がありません。あと二十日ほどで帰国なんですよ」
「すぐにまた戻ってこられるだろう。成人すればお前は正式に大公の跡継ぎ。頻繁に行き来することになるさ」
「そうですけど……あ、ねぇ。いい案がないなら、僕の考えで進めてもいいですか?」
ディルクは杯越しに弟の表情を窺った。吊り気味で大きな目が期待を込めてこちらを見つめている。
「どうするつもりだ?」
本能的に嫌なものを感じとり、ディルクは思わず問い返した。
「よっぽどのことがあれば、許しは得られるでしょう?」
「だから、何をするつもりだ」
エイルリヒはただ肩を竦めて「内緒」と笑っただけだった。
「大丈夫。〝ある程度〟強行になんて遠慮は僕にはありませんから。必ずユニカを表に引きずり出してみせます」
「……お前の場合は少し遠慮して欲しい」
まだ大きな躓きを経験していない――彼の場合は一生躓くことはないかも知れないが――エイルリヒは恐れ知らずで、大胆で、子供らしく残酷だ。
生まれたときから公国の頂きに立つことを教え込まれてきた彼はディルクよりも人の動かし方を心得ているし、人を使うことに対して迷いがなかった。エイルリヒが大公になれば、ディルクは一生、第一の家臣に踊らされる玉座の主になるだろう。
「あれ、なんで僕とティアナで言うことが違うんです?」
「お前、誰と誰に迷惑がかかるとか、考えてないだろう」
「そんなことありませんよ。きっと最小限になるようにします」
ディルクはその〝最小限〟の中に自分が含まれていることをひしひしと感じた。しかし、
「だったら任せよう、エイルリヒ」
「御意に。……って言えばいいのかな、王太子殿下」
それでも、あの娘が欲しい。




