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天槍のユニカ  作者: 暁子
第1章 凍てつく槍の来歴
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3.『娘』の真偽(3)

 (ひる)を過ぎ陽が傾き始めるとあっという間に気温は下がっていった。大気の色は薄青く、余計に寒く感じる。


 ユニカが持っていた本を拝借して読んでいたディルクは、手許の暗さに限界を感じて顔を上げた。バルコニーへ出る硝子戸へ歩み寄り、青白い雪の庭を眺めてから分厚いカーテンを引いて寝室を出る。


「ティアナ、そろそろ灯りを……」


 言い終える前にティアナは火の点いた燭台を差し出してきた。準備していたところだったようだ。


「ありがとう」


「ユニカ様のご様子はいかがでしょうか」


 火を受け取り、ディルクは寝室の中を振り返った。外に残るわずかな日光も遮られ、中は真っ暗だ。しかし、寝台の上に横たわる部屋の主が苦しげに胸を上下させているのが見える気がした。


「辛そうだ」


「効くお薬があれば、もう少し楽にして差し上げられますのに……」


 出血の落ち着いたユニカはすぐに熱に浮かされ始めた。そこでティアナは解熱剤を用意したが、それを見ていた侍女のフラレイが呆れた様子で言ったのだ。


『ユニカ様にお薬なんて効きません』


『効かない? なぜ?』


『毒が効かないんですもの。お薬と毒は使う目的が違うだけで同じものだと聞きます。じゃあお薬も効きません』


 侍女が言った通り、ティアナが飲ませた薬は一向に効く気配がない。仕方がないので、ディルクとティアナは苦しそうにあえぐユニカの傍に交代でつき、汗を拭ったり、量を与えれば少しは効果があると期待して薬を混ぜた水を与え続けている。


「死なないというのも大変なものだな」


「さようでございますね……」


 ディルクはもう一度灯りの礼を言ってからユニカの枕元へ戻った。眠る彼女が眩しくないように場所を考えて燭台を置き、再び拝借した本を開く。


「う、んん……」


 すると間もなく、シーツを掻きむしりながらユニカが呻いた。寝返りを打とうとしたが思うように動けなかったらしく、少しもぞもぞと身体を揺すったあと、諦めの溜め息を残して彼女は大人しくなる。


 ディルクは本を置いて寝台の縁に座り、ユニカの頬に貼り付いた髪をよけてやる。体温が上がっているせいか彼女から漂ってくる香りは一層強い。思わず口づけたくなるような魅惑的な香りだ。


 ユニカの額や首筋に浮いた汗を拭っていると、いつの間にか彼女は目を開いていた。ぼんやりとした無防備な視線で、それでもしっかりとディルクを見つめている。


 構わず汗を拭いてやると、枕元に力なく投げ出されていた彼女の手が不意に持ち上がった。


 震える手はディルクの左頬をなぞって髪に差し入れられ、さらさらと耳の上あたりを這った。


 払いのけたくなる、女の指の感触。


 ディルクはそれをじっと我慢し、口許に笑みを貼り付けたままユニカを見下ろす。


 しばらくユニカにされるがまま髪を撫でられていると、彼女の腕は力尽きたように寝台の上に落ちた。


「だ、れ?」


 掠れた声で彼女は言う。そして大きく咳き込み、身体を折り曲げ呻きながら藻掻いた。


「痛むのか?」


 ユニカの背を優しくさすると、彼女は苦悶しながらもすがるような目で見つめてきた。


「大丈夫」


 怯える子供を宥めるつもりで声をかけ背をさすり続けていると、ようやく彼女の呼吸は落ち着きを取り戻す。


「この水を飲むといい」


 それを見計らって、ディルクは水を杯に注いだ。ティアナが用意した解熱と鎮痛作用がある薬を溶いた水だ。


 ティアナは上手にユニカの身体を抱え起こして水を飲ませていたが、ディルクにはその真似が出来なかった。人の介護の仕方など分からないし、寝返りを打とうとする度に苦悶するユニカに触るのは可哀想な気がする。抱え起こすなど到底無理だ。


 しかし、弱ったユニカも横になったままでは水など飲めないようで、ディルクが唇に押しつけた杯の縁から水を啜ってみるもののほとんどを零してしまう。


 同意は得られそうにないが、仕方あるまい。


 さっきから幾度もそうしているように、ディルクは自ら水を口に含んでユニカの唇へ運んだ。少しずつ、染み込ませるようにその奥へ水を流し込む。


 すると思いもかけず、彼女の唇がちゅっと吸いついてきた。


 一口目を与え終わり、身体を起こして彼女の様子を確かめてみる。ユニカは枕にすがりつきディルクを警戒しながらも、潤んだか弱げな目でこちらを見上げていた。


 蝋燭の火に照らされてもなお青白い肌。濡れた薄紅色の唇は薄く開いていて、何か言いたげだが、声を出すのは辛いらしい。


 これには驚いた。まだ水が欲しいということだろうが、こんな誘い方が出来るとは。


 思わず笑いがこみ上げてきた。出来れば熱に浮かされていない正気の時にこういう顔を見せて欲しいものだ。


 ディルクはもう一度口づけの理由を作るため、水を口に含んだ。ユニカの望みでもあるのだから咎められる謂われもあるまい。


 熱のせいだろう、重ね合わせたユニカの唇は熱い。長いまつげがゆっくりとディルクの目許を撫でる。彼女がまぶたを伏せたのを感じながら、ディルクはわずかに首を傾けて二口目の薬をユニカの唇の奥へ流し込む。


 そしてこぼれかけていた雫ごと温かいそれを舐めた。もう少し柔らかな感触を楽しもうと重ねたままの唇を押しつけるが、


「……じゃま」


 ユニカはぷるぷると首を振ってディルクの唇を振り払う。そしてシーツに顔を埋めるように、身体を少しだけ拗りうつ伏せになる。


 ……邪魔?


 ディルクはユニカの身体の両脇に手をついたまま呆然と彼女を見下ろした。


 何時間も看病してきた人間に対してなんという言い種。大した娘ではないか、天槍の。


「手を出すには早すぎると思いますけど」


 脈絡もなく耳許でぼそりと呟かれ、ディルクはむっと口を引き結んだまま身体を起こした。気配は感じていたのであまり驚かない。


 振り返った彼の鼻先では、ユニカを気遣い、そっと寝室へ忍び込んできた弟がにやにやと笑っている。


「水を飲ませてただけだ。うまく飲めないようだったから」


「ちょっと身体を起こしてあげればいいのに」


「触ると痛がる」


「だからって、寝かせたまま飲ませるとむせちゃいます。本当はキスしたいだけなんじゃないですか?」


「それはなきにしもあらずだな」


「邪魔って言われてましたけどね」


 くっくと喉の奥で笑い、エイルリヒは嘲りを隠さずディルクを見下ろした。


 背筋を伸ばした彼を頭の天辺から爪先まで見てみると、なぜか正装をしていた。いつの間にかユニカの部屋から消えたと思っていたら着替えてきたらしい。


「どうした、めかしこんで」


「どうしたって兄上、今晩も夜会ですよ? しかも、あのブリュック女侯爵のご招待」


「ああ……」


 ディルクは冷めた表情で視線を泳がせる。


「忘れていた。今から戻って支度しても――間に合わないな。欠席する」


「こらこら、だから僕が着替えてきたんですよ?」


「俺には似ても似つかない。背が足りてないぞ」


「はぁぁ!? 兄上に変装してきたつもりなんて微塵もありませんよ!!」


「しーっ」


 怒鳴ったエイルリヒの口を塞ぎ、ディルクは寝室を出た。後ろ手にそっと扉を閉める。


 うるさかったかも知れないが、肩越しに振り返って見るユニカに反応はない。これしきの騒ぎでは目を覚ませないほど彼女は弱っているのだ。命に別状はなさそうだが、回復にはどれくらい時間がかかるのだろう。


 ディルクがわざと自分から関心を逸らしていることに気がつき、エイルリヒは扉が閉め切られるのと同時に再び声を張り上げた。


「行かないわけにはいかないでしょう? あの女侯爵、いくら先延ばしにしても兄上に接触しようと迫ってくるんですから!」


「分かったからもう少し声を抑えろ」


「彼女との接触を避けて通れるものと思わないでください」


 ディルクは相槌も打たなかった。ただ「しつこい」と言わんばかりにエイルリヒを睨み、カウチに座る。そして何もないテーブルの上を見つめるばかりで、弟の言葉に答えを返す気配はない。


「まあいいでしょう。今日のところは、僕が名代。それで黙らせてきますから、兄上はユニカのところにいてください。彼女が目を覚ましたらすかさず『私が助けた』って王子様っぽく主張してお近づきになるんですよ。兄上が楽しいならやめろとは言いませんが、寝てる間にキスしててもぜんっぜん意味ないんですからね。僕らはまだ彼女に少しも認知されてないってことをお忘れなく」


 兄が返事も抵抗もしないのをいいことに、エイルリヒはディルクの頬をつねって引っ張ってみた。見目麗しい顔がくにゃりと歪むのを見て少しだけざまあみろと思ったが、やはり反応がないので、つまらなくなって手を放す。


「それだけ言いに来たんです。あとはお願いしますね。マティアス、行きましょう」


 ユニカの部屋を出たエイルリヒは、薄暗い西の宮の廊下を歩きながら舌打ちした。


「まったく、か弱い〝兄上〟です。ねぇマティアス?」


「……」


 侍従が返事をしないのは承知の上で彼はさらに吐き捨てる。


「この僕が百万歩くらい譲って認めてあげるって言ってるのに」


 ディルクの駆け引きの巧さは、ずっと彼を観察してきたエイルリヒがよく知っていた。大公はそれを認めなかったが、次の大公になるエイルリヒが認めてやると言っているのだ。ディルクが王になったら、彼の王冠と王錫のもとに仕えてやると。


 しかしそれだけではディルクにかけられた呪いは解けないらしい。


「ディルクのやる気が挫かれると本当に困るんですよね……。仕方ない、〝あれ〟は早めに排除しておきましょう」


 あまり手荒な真似はしたくないのだけど。


 そうは言うがエイルリヒの足取りは軽かった。


 まず叩き潰すのは、年老いた強欲な女侯爵だ。



     * * *



 近くに誰かいる。人の気配が動く。


「殿下、お食事をしに一度お部屋へお戻りください」


「いや、いい。彼女が目を覚ますまで傍にいないと」


「本日中にお目覚めになるかは分かりませんわ。とても重い怪我ですもの」


「夜明けくらいまでならここにいてもいいだろう。さっきから何度も目を開けてはまた眠ってるんだ。もうしばらく様子を見たい」


「ですが、それでは殿下のお身体に障ります。ご昼食も召し上がっていらしゃらないのに」


「――あ」


 天蓋がめくられ、ユニカは突然目に入った灯りが眩しくてぎゅっと目を瞑った。片目だけをゆっくり開けてみれば、見知らぬ若い男が燭台を掲げてこちらを見下ろしている。その少し後ろには若い女官。


 見知らぬ……いや、夢現に見た気がする。何度も汗を拭ってくれたり、それから。


「眩しかったか、すまない」


 彼はそう言ってユニカに微笑みかけると、灯りを女官に持たせて寝台に腰掛けた。そしておもむろにこちらへ手を伸ばしてくる。


 ユニカは慌ててその手を払いのけた。すると胸や腹から突き上げるような痛みが全身を駆けめぐる。


「……っあ、う」


 自分を抱きしめるように縮こまって痛みをやり過ごしていると、振り払ったはずの手がそっと背中をさすってきた。なぜこの男がこんなに馴れ馴れしく触ってくるのか分からない。ユニカは痛みを堪えながら彼を睨みつける。


「さっきより意識がはっきりしているな」


 睨めつけられても彼は気にせず、笑いながらユニカの目尻に滲んだ涙を指で拭い取った。


「誰……」


「先日お会いした。覚えていないか?」


 ユニカはゆっくりと息を吸いながら青年を見上げる。起き上がろうと思ったが痛みに邪魔されそれもままならない。刺客だったら〝天槍〟を喰らわせてやればいい。が、この男の身分の高そうな装いは、それとは違う気がした。


 相手をまじまじと観察し、ユニカは彼が着けているソリテールの指輪に目を留めた。


 金のリングに、盾の形の大きな青い宝石が乗っている。細かな模様はよく見えないが、青地に金で双翼の獅子が描かれた盾はシヴィロ王家の紋章だ。


 その紋章を身に着けることが許されるシヴィロの王族は、今やたった二人だけだった。


 国王と、


「王太子……?」


 ユニカの解答に、ディルクは目を細めて頷いた。そして呆然とする彼女の髪を一房掬い上げ、それに口づけて見せる。


「先日からそう呼ばれている。君は私の入城の日に、私たちの上にストールを落としたひとだろう。同じ匂いがするよ。……さっき柱廊(コロネード)で襲われたことは覚えているか?」


 ユニカは息を呑んだ。


 なんということだ。兵士に襲われるところを見られていたというのか。まさかとは思うが、自分は王太子にこの部屋まで運ばれて介抱されていたのか?


 彼を徹底的に避けるつもりが、寝室に侵入されたばかりかこの身体のことを知られてしまったのだとしたら……。


 しらを切り通して追い払おう。今はそれしかない。ユニカは内心青ざめつつも無表情を装い、王太子から顔を背けた。


 そして彼の手から髪を抜き取り、枕元の柵にすがりついて上半身を起こした。息を止めて痛みが収まるのを待ってから、この上なく皮肉な笑みを浮かべてみせる。


「覚えておりません」


「……おかしなことを言う」


「覚えていないものは、覚えていないのです」


 ユニカはめいっぱい嫌味な笑みを浮かべた。相手が不快に思ってくれればそれでいい。


 しかし彼はわずかに眉を顰めただけで、また前触れもなくユニカに向かって腕を伸ばしてくる。


 柵に掴まっていた手を取り上げられ、彼女の身体はかくんと傾いた。痛くてどこにも力が入らず、ユニカは引き寄せられるまま彼の腕に捕らえられた。


「あのまま死んでしまうかと思った」


 間近に迫った青緑の瞳に橙色の火の色が入り込み、揺れている。


 きれい。


 ユニカの思考は一瞬止まりかけたが、すぐに我に返り、背中にもう一方の腕が回り込むのを阻止しようと藻掻いた。すると彼は諦めたのか、少し身体を離して支えになりながらユニカを寝台に横たえさせてくれた。


「熱もあるだろう。何度も薬を飲ませたんだが、ほとんど効いていない」


 その言葉に、ユニカは眠りの狭間に味わった甘い水の味を思い出した。味だけではない。


 目の前に迫った王と同じ色の髪、青の混じった湖のような緑の瞳。しかも、あれを何度も? 覚えているような、いないような……。


 頭の中身がぐるぐると掻き回されているような気分だ。王太子がここにいるというだけでも混乱するのに、夢現に見た彼の顔が近すぎてさらに混乱した。私は何をされたのだろう。


 しかし動揺しないように、何の反応も示さないように、ユニカはもう一言も発すまいと唇を噛む。


「君は噂に聞く『天槍の娘』なんだろう?」


 そんな彼女の気も知らず、王太子は低い声で問いかけてくる。


 『天槍の娘』。


 心臓がぞっと縮み上がるのを感じながらユニカは息を呑む。そして、彼女を映した青緑の瞳を呆然と見つめ返す。


「知っていらっしゃるの?」


「やはりそうなのか」


 王太子の声音には少なからず嬉しさが滲み出た。ふと綻ぶ表情は、普通の年頃の娘が見ればあっという間に心をとろけさせてしまうほど絵になるもの。


 しかしユニカは全く別の感情に頬を赤らめる。


 そういうことか。そうに決まっている。


 何の目的もなくユニカに近づく人間など、いるはずがないのだから。


 彼は、ユニカが『天槍の娘』だと見当をつけたからここにいるのだ。


 物珍しい、王にとり憑く魔女の顔見たさに。


「王太子殿下」


 ふつふつとこみ上げる怒りにまかせ、ユニカは努めて柔らかい笑みを作る。そしてきっぱりと言った。


「早く出て行って」


 これほど無礼な態度はないだろう。どんな理由であれ、介抱してくれた相手に向かって礼ではなく出て行けなどと言うのは。


「……出て行くつもりはないよ。君の身体が気がかりだ。まだしばらくはいる」


 しかし拒まれたはずの彼はくすりと笑ってそう囁き、おもむろに立ち上がった。


「雪を取ってくる。よく冷やした水で汗を拭けば気持ちがいいはずだ」

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