夏の彼女
特に意味はない
同じクラスに気になる子がいた。彼女はいつも一人だった。窓際の自分の席から離れることがほとんどなく、常に空を見上げている。彼女が特定の誰かと楽しそうにしゃべっているところを見たことが無い。
背筋をピンと伸ばし、両手を机の上に重ね、空を見上げて動かない。その姿を初めて見た時から僕はとても美しいと感じていた。
「お前、あいつのこと好きだったんだ。物好きだなー」
友人の三木杉にこのことを話すと、そんな答えが返ってきた。けれど違うのだ。僕のこの感情は多分恋愛感情とは違う。少しニュアンスが違うが、あえて例えるならば、僕にとって彼女は美術品のようなものだ。モナリザを見て美しいと感じたり、ヴィーナスから目が離せなくなったり。そういったものだ。
「それが恋なんじゃねーの?」
きっと違う。恋ってやつはもっと純粋に好きって感情があふれるものだ。まあ恋なんて一度もしたことが無いのでよくわからないが。
僕が彼女を気にしている理由は何も美しいからというだけではない。もう一つ理由がある。彼女の癖、というか行動がとても気になるのだ。三木杉に話すと彼もそれから彼女のことを気にしているようだった。少しだけど。
彼女は空を眺めているとき、常に重ねた両手の下に文庫本を置いている。そしてその文庫本を読んだことは一度もない。
高校の1年次から彼女とは一緒のクラスだった。彼女の見た目はとても美しく、当時クラスの男子が作った彼女にしたい女子ランキングでは堂々の1位だった。
そのため当時は男女関わらず、多くの生徒が彼女と関係を作ろうとした。しかし周りの思惑とは裏腹に、彼女はとにかく他人を遠ざけた。話しかけてくる人全てに冷たく接し、それでも懲りずに話しかけてくれるお人よしには暴言さえ吐いた。
「どうしてそんなに他人を遠ざけているの?」
一度彼女に訪ねたことがあった。彼女からの回答は、
「他人が嫌いだから」
という無碍もない物だった。彼女との会話で個人的な内容だったのは、後にも先にもこれ切りで、これ以外は特に実益のない、とりとめのない話ばかりであった。
僕たちが通う学校では、1学期に全学年(行先は違うが)校外学習が行われる。クラスで男女別れて5,6人のグループを作り、授業という名の寺社仏閣めぐりをする。その1週間ほど前から準備期間が設けられ、各グループ行きたい場所などを決める。
その日最後の授業が準備時間にあてがわれた日のこと。グループごとに別れ、楽しく話し合いが行われていた。そのころの彼女はまだ、人付き合いが苦手な子、程度の認識のされ方であった。
その時も彼女は一人、姿勢正しく空を見上げていた。彼女もどこかのグループに所属しているはずなのだが、全く席から離れようとしない。すると女子が一人、彼女に近づき話しかけた。
「ねぇ、一緒にどこ行くか決めよ? お昼は美味しいところ行きたいよね」
「別に。私は特に希望無いから勝手に決めていいわよ」
「えー。そんなこと言わないでさ、せっかくなんだし楽しもうよ。ほら、ミーちゃんも凛ちゃんも待ってるから。ね? あっちで一緒に決めようよ」
女子が彼女を連れて行こうと彼女の手を取った。たぶん引っ張ろうとかそういう意味ではなく、催促のつもりで軽く握っただけだと思う。しかし手を握られた瞬間、彼女は人が変わった。
「触らないで! 気持ち悪い。勝手に決めていいって言ってんだから私にかまわないでよ!」
大声を上げながら女子の手を力いっぱい振りほどく。反動で女子の手が勢いよくぶつかり、鈍い音が響いた。
「痛っつ」
痛みに苦しみ女子がうずくまる。普段全く動かず、空ばかり見ている彼女。よく澄んではいるがとても小さい声で話す彼女。そんな子が突然大声を上げ、暴力的な行動をとったためクラス中が凍り付き、誰も動けなかった。手を痛めた女子さえ驚愕の表情で彼女を見上げ動けずにいた。クラス全員がさながら、蛇に睨まれた蛙であった。
長い沈黙が続いた後、担任教師が入ってきてホームルームの号令を上げたため、クラスにかかった呪縛が解かれた。。各々、夢から覚めたように慌てて各自の席へと戻る。例の女子は友人たちのところへ行き、その友人たちは彼女を凶悪な目で見つめていた。しかし彼女は気にする様子を微塵も見せず、ただいつも通り空を見上げているのだった。
学校での印象というやつは、一度でも悪くしてしまうと、回復するには膨大な時間や幸運に見舞われることが必要となる厄介な代物である。おまけに悪くするには一瞬の時間さえあればことが足り、何もせずとも勝手に拡散されるからありがたいことこの上ない。
彼女も例にもれず、夏休み直前のころにはもう彼女に話しかける人は誰もいなかった。学年全クラスから最悪な印象を持たれていたようだ。同時に、そのころから彼女は少しづつ学校に来なくなった。
当時の僕は彼女のことを綺麗な女子、とは認識していたがそれ以上の感情はなく、言ってしまえば興味がなかった。彼女のことが真剣に気になり始めたのは夏休み明けの、始業式から3日ばかりたった、その年最後の猛暑日だった。
その日は彼女の2学期初めての登校日だった。2時限目に残っていた夏休みの課題を終わらせ、職員室へ提出しに行こうと教室のドアを開けた僕は、入ってきた彼女とぶつかってしまった。
「ごめんよ、大丈夫? ケガしてない?」
「いえ、別に」
あっさりと何事もなかったかのように彼女は教室へ入っていく。果たして教室は、何も変わらなかった。彼女が現れても何も変化が起きなかった。挨拶や呼びかけはもちろんのこと、誰も彼女をチラリとも見ていない。気づいてさえいないように見える。まるで彼女はいないようだった。
その時初めて、変化の無さというモノの恐ろしさを知った。その光景は嫌悪丸出しよりも凄惨に感じられた。鈍器で殴られるような、そんな暴力性を含んだ無変化だった。
そんな中を彼女は平然と歩いていく。そして自分の席に着くと、読みもしない文庫本を机にだし、いつも通りの格好で空を見上げるのだった。
彼女は何を見ているのだろう。何を感じているのだろう。何も感じても、見てもいないのだろうか。知りたかった。純粋に彼女のことが知りたかった。単純にそう思った。
彼女とぶつかった日から数日後。その日僕は昼休みの時間に、担任から呼び出しをくらっていた。理由はイマイチ覚えていないのだが。昼ごはんを食べながら面談をするとのことだったので、大事だったのかもしれない。
弁当片手に職員室を目指していると、彼女が階段を上がっていく姿を目撃した。僕らのクラスは最上階にあるため、階段を昇るということは即ち、屋上に行くことになる。しかし屋上へ出るドアは常に施錠されており、かけるためには教師の同伴が必要となる。よって彼女はなぜ階段を昇っているのかと不思議に思った。好奇心に負け、彼女を追いかけた。担任との約束はとうに頭の中で存在しなかったものとして扱われていた。
階段の踊り場から見上げると、ドアを開け、屋上へと出ていく彼女の後ろ姿が見えた。屋上のドアが開いていたことは僕の経験上、一度もなかった。不審に思いながら、ドアを確認する。無理やりこじ開けたような形跡はなく、ノブを回してみると簡単に開いた。
そこまで来てようやく僕は我に返った。なぜドアを開けてしまったのか。彼女がどこに行くのか見届けようと思っていただけなのに。帰ろうとも考えたが時すでに遅く、年期の入ったオンボロドアはノブを回しただけで、大きな叫び声をあげていた。当然彼女にも聞こえたことだろう。
ここで何も言わずに帰るのは何かイケナイことのように感じた。恥ずべき行為だとも。まず簡単に挨拶、そしてあたりさわりのない会話を二言三言交わしたのち、そそくさと教室へ戻ろう。などと算段を立てていると、急に握っていたドアが外側から引かれた。僕の体は屋上へ連れ出される。目の前に彼女が立っていた。
「なに?」
僕の目をしっかりと睨みつけながら問うてくる。恥ずかしいことに彼女の睨みに腰を抜かしかけた僕は、先ほどまで考えていた計画を完全に忘れていた。
「い、いや。今日はすごく天気がいい……からさ。青空の下、ピクニック気分で、弁当食べようかと……思いまして……」
何故か咄嗟に嘘をつく。嘘をつく必要もないのに。ストーカーまがいの行為をしてました、とは言えないけれども。
「……。そう」
簡素に答えると彼女は踵を返し離れていく。取り返しのつかないと所まで来てしまったと自覚した僕は、意を決し彼女のあとを追う。
彼女は自分のバッグまで戻ると、弁当箱を手早くしまい、こちらに向かってくる。
「? どうしたの?」
「別に。場所を移動するだけよ」
「え、どうして? ……もしかして僕が来たから?」
彼女は答えない。
「そんな、悪いよ。君のほうが速かったんだから。僕が他の所へ行くよ」
「いえ、いいの。私が行くわ」
「ダメだ」
「いいの」
「なら、一緒に食べよう、ここで。どう?」
今考えてみるとトンチンカンな提案だと思う。彼女は僕と一緒にいたくないから移動しようとしていたのに、なぜ一緒に食べれば解決だと考えたのか。しかしなぜかその時の僕には最良の提案に思えた。そして彼女も同じであったらしい。数秒考え込んだのち、無言で、コクり、と頷いたのであった。
彼女がいったい何を考えていたのか、未だに解らない。どうして一緒に昼食をとってくれたのかも。ただその日の昼食は、一緒にお昼を食べているとは言い難いものとなった。例えるならば食堂で相席になってしまった見ず知らずの二人組といったところだろう。
ある日のこと、屋上へ向かうと彼女は一人、フェンス越しの街並みを眺めていた。長い髪が風に弄ばれ、彼女の首筋や顔に張り付いている。そんなことを気にも留めず、ひたすらに街を見下ろしている彼女は、とても美しかった。
近づくと僕に気づいた彼女は、またもや睨みつけてきた。少し不安になり、恐る恐る聞いてみる。
「やあ、今日もここで食べていいかな?」
「別に、いいけど」
端的に答えた彼女は座り込み、弁当を取り出した。許可を得てホッと胸を撫で下ろし、僕も彼女の隣で弁当を広げた。
「世界が一つの物語なんじゃないかって思ったことない?」
「へッ?」
それまで何もしゃべらずに、黙々と弁当を食べていた彼女が突然そんなことを聞いてきたため、驚きむせてしまう。僕が一通り落ち着いたとみると、また彼女は話し始めた。
「この世界、いや人生かな。それが物語だと感じたことない?」
「どういう意味……かな?」
「言葉通り。人生は自分で決められるってよく言うじゃない。そうじゃなくてあらかじめ決められた物語が存在していて、私たち人間はその物語に従って生きているに過ぎないんじゃないかって。台本に従って動く、舞台役者のように」
「……」
突然何を言いさすかと思えば、訳のわからない話だった。けれど彼女が話しかけてくれたことを僕がとても嬉しく思っていることはわかった。
「そんなこと考えたこともなかったな。でもそれって簡単に言ってしまえば運命ってことかな?」
「確かに運命とも言えるかもね。でも私が言いたいのはもっと細かい話。今こうして私があなたに話している言葉さえ、あらかじめ台本に書かれていたことかもしれないって。そうやって全人類、台本通りに日々生活しているのではないかって。私時々考えるの」
「……。ありえない話、ではないのかもね。でも実際そうだとしても僕たちには確認のしようがないと思う。ならもし本当にその神様の台本ともいえそうな代物があったとしても、確認できない以上、無いってことと同じじゃないかな。って僕は……考えたんだけど」
途中で彼女の意見を否定していると気づいた僕は、言葉が尻すぼみになってしまう。しかし彼女は真剣に考えるような顔つきで俯いていた。落ち込んでいると思った僕は慌てて付け足す。
「絶対ありえないって言ってるんじゃないよ。ありえなくはないってこと。ありえないとは言えないけれど、あり得る、とも断言できないと思って。だからありえなくはない……って表現上の……違い」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきてしまう。フォローできているとも思えなかったので途中で話を止めてしまった。すると彼女は突然顔を近づけ、間近で僕を見つめると、
「面白いね」
一言、そう言った。何が? と問いただそうとしたが、そこで昼休み終了の鐘がなった。彼女は手早く弁当を片づけると、何も言わず、一人スタスタと屋上を出て行ってしまった。一人取り残された僕は、それからかなり茫然としていたようで、次の授業を遅刻していき、クラスの前で先生にこっぴどく叱られたのであった。
言葉は祈りだと、言葉でできている小説もよって祈りだと、何かの本で読んだことがある。もしもそうだとしたら、僕はいったいどんな祈りを込めるだろうか。
もしもその言葉には祈りを込められる量が決まっていたとしたら、それがごくわずかな量だとしたら。これだけはどうか乗せていってほしいと僕は願う。
どうか、どうか忘れないで
それから僕たちは、屋上で一緒に昼食を取るようになった。しかし相変わらず彼女は半分不登校という状態で、いつ登校してくるのか解らなかった。
そんな生活が続き、学年が上がり、クラス替えがあり、彼女とは違うクラスになってしまったが屋上での昼食は変わらず続いた。この昼食会が特別なこととも思わなくなってきたころ、ある出来事が起こった。
その日は6月の初旬にもかかわらず、雲一つない文句なしの夏晴れだった。屋上は太陽の日差しとコンクリートからの照り返しで、サウナのように暑かった。コンビニで買ったざるそばを食べ終え寝転がると、コンクリートの少し上に陽炎を見ることができた。彼女はレジャーシートの上に正座をつき、膝の上に文庫本、その上に両手を重ね、熱気のため揺れているように見える街並みを見つめていた。
この暑い中、彼女は汗一つかいていなかった。しかし文庫本に真っ赤なカバーをかけているため、見ているこっちが余計に暑さを感じた。そのためだろうか。特に何も考えずふと彼女に聞いてみた。
「その本いつも持ってるよね。何の本? 面白い?」
「さあ? 知らないわ」
「いや、知らないって……」
「読んだことないもの」
「えッ一度も?」
コクりと頷く彼女。
単純に驚いた。常に手元に置いているためさぞお気に入りの小説と思っていたのだが。
「題名は?」
「さあ?」
「じゃあ、なんでいつも持ってるの?」
「……。確かに、言われてみればなんでだろう。こうするのが当たり前のように感じていたから、特に疑問に思ったこともなかった。なんでだろう」
彼女は今更になって戸惑っているようだった。ますます不思議な子だ、と思った。そしてますます本に興味を持った。
「じゃあ見てみようよ」
「いま?」
「うん。見ちゃダメかな?」
「別に……いいけれど」
あまり気乗りしないような態度だった。しかしとても興味を持っていた僕は、彼女のそんな態度を無視して早く見せるよう催促する。
彼女は恐る恐るといったように、文庫本のカバーを外していった。果たして本の表紙が現れた。タイトルは『ナインストーリーズ』。
聞いたことのない題名だった。
「ナインストーリーズか。聞いたことないな。作者は誰なのかな?」
そういって彼女が背表紙を見せてくれるのを待った。しかしいくら待っても彼女は本を動かさない。不審に思い顔を覗いてみると、彼女は茫然としたような顔をしていた。
「ナインストーリーズ。超能力者さん」
そうボソリとつぶやくとまた固まってしまった。
「どうしたの?」
尋ねても反応を見せない。何となく触れてはいけないものだったのかなと思い、一言ゴメンと謝った。しかしそれさえ聞こえていないようだった。
それからは二人してただ茫然と過ごした。休み時間終了の鐘が鳴り、僕は片づけを始めたが彼女は依然として心ここにあらずなようだった。彼女の肩を軽くたたき呼びかけるとハッとしたように顔を上げ、僕の顔を見つめた。少し鼓動が早くなる。しかしそれも束の間、彼女はすぐに片づけを始めた。
二人して階段を降り、教室前の別れ際、彼女は一言伝えてきた。
「なんだか気分が悪くなってきたから今日は早退するわ」
思い出してみると彼女の声を聴いたのは、この言葉が最後だった。しかしこの後に起こった出来事によって、当分の間忘れ去ってしまっていた。
その日、家に帰ると玄関口で父親が客人と話していた。父親が僕を紹介したため、一応ペコリと頭を下げる。
客人はとても痩せぎすな男だった。歳は若いように思われた。20代前半の社会人。もしくは大学生といったところか。身長は高いが、それに見合った太り方をしていないため宇宙人の典型的な例に見える。
どうやら話はもう終わっていたらしく、僕と入れ違いに帰って行った。通り過ぎざま、独り言か僕に話しかけたのかわからないが、彼の言葉が聞こえた。
「なるほどね。君も関係があったのか。弟さんか君か。確率は二分の一だったわけね。でも選ばれたのは……。それが良かったのか、悪かったのか……」
所々聞こえなかった。意味も解らなかった。そのためその時は、変人と思ったのみですぐに忘れてしまった。父親に聞くとなんでも町内会で知り合った人らしく、占いがよく当たると有名な人らしい。ますます変人だ。夏祭りの花火についての話だったらしいが僕には関係のないことだった。
その夜、事件は起きた。僕には翔という弟が一人いるのだが、その翔が行方不明になった。夜になっても帰ってこなかったのだ。警察に連絡をすると家出を疑われたが、弟はそんな奴ではない。家族やご近所さん総出で捜索は行われたが一向に見つかる気配はなかった。深夜になりご近所さんには帰ってもらったが、僕たち家族は朝まで捜索を続けた。しかし結果は何も得られず、とりあえず僕は親の意向に従い登校した。
昼休み、屋上で待っていたが彼女は訪れなかった。今日は登校しない日か、と思い一人昼食をとった。しかし次の日も、そのまた次の日も、それからずっと彼女は訪れなかった。
特に何もない日が続いた。弟は見つからず、彼女も学校に来ない毎日だった。
動きがあったのは、約一か月後になる。夏休み前の終業式の日だった。
全校生徒が集められ、いつもの校長の長い話が終わり、さあ夏休みといったとき、僕たちの学年だけが体育館に残された。なぜだろうと訝しんでいると、彼女が昨日、ビルから転落し亡くなったことが学年主任から伝えられた。
驚いた。単純に。しかしそれだけだった。彼女の死を知らされても、ありがちな悲しいといった感情や泣きたくなったりはしなかった。ただただ驚かされただけだった。集会が解散となり各自教室へ戻る。それからも特に何も感じることはなかった。ああ、そうなんだ。もう彼女とは会えないんだな、と考えるのみであった。周りも同じ気持ちだったようだ。最初こそ亡くなったのが事故なのか、それとも自殺なのか話している声がチラホラと聞こえていたが、すぐにそんなものは砂が突風に吹かれたようになくなった。再びいつもの風景が広がる。違う点といえば夏休み前で、少し浮足立っているということくらいか。
そんなクラスを茫洋と眺めていると、担任が息を切らして転がり込んできた。何事かと周囲が固まる。担任は僕を見つけると、大声を上げた。
「弟さんが見つかったそうだ!」
病院へ駆け込むと弟はベッドの上で眠っていた。傍らに点滴があった。母が言うには今朝、巡回中の警察官がさざれ鉄橋の下で眠っているところを発見したということだった。病院での検査の結果、身体にはどこにも異常は見られないため、ただ単に眠っているだけだろうということだった。明日には目を覚ますでしょう。医師の言葉だった。
けれど弟はそれから2週間もの間、昏々と眠り続けた。毎日見舞いに訪れた僕は、その寝顔を見るたびに、この瞼はもう二度と開かないのではないか、という思いに苛まれた。
目を覚ました翔はいなくなる前から何も変わっていなかった。翔はあの一か月はなかったことになっている。本当に。
翔は所謂記憶喪失になっていた。失踪していた一か月間のことを何も覚えていなかった。いなくなる前日を昨日だと思っていた。この様子を見て僕は神隠しのようだと薄気味悪く感じた。しかし間もなく翔は退院し、変わらぬ毎日を過ごした。
この出来事があったせいか、そんなわけないと声を大にしたいのだが、僕は彼女の死をすっかり忘れてしまっていた。夏休み明け、クラスで彼女の話をする人はただの一人もいなかったと思う。いや、いなかったのだろう。いたのなら必ず覚えているはずだ。記憶では彼女の席はもうなくなっていたように感じる。彼女の席が最後尾列だったため撤去されたことに気づかなかったのだろう。
僕はついに一度も彼女を思い出すことなく高校を卒業したのであった。
彼女を思い出したのは大学2回生に上がった春だった。親を何とか説得し、一人暮らしの許可を得た僕は鼻歌交じりに引っ越しの準備をしていた。机の引き出しを整理していると一冊のノートを見つけた。まったく見覚えのないノートだった。不思議に思いページをめくるとどうやら高校時代の日記のようだった。全く記憶にないため、他人の日記を盗み見ているような気分になり夢中になって読んでしまった。
彼女の記述がそこにあった。読み進めるうちにまざまざと彼女のことが思い出された。屋上で弁当を食べあった日々。彼女の謎の会話。そして、彼女の死。なぜ忘れていたのだろうという疑問が溢れた。だって僕はあんなにも……。
とうとう彼女の見ている物や考えは知れずじまいだった。彼女はいったい何を考え、思っていたのだろう。なぜあんなにも他人を遠ざけたのだろう。なぜ僕とだけは話してくれたのだろう。
彼女のことを考える。
空や街並みという世界を構成する物たちを見つめ続ける彼女。姿勢正しく、窓の外を眺める彼女。両手はしっかりと文庫本の上に。彼女の持っていたあの文庫本。赤いカバーの文庫本。
そして僕は気づく。あれは彼女の祈りだったのだろう。彼女がどんな祈りを込めていたのかはわからない。けれど祈りが込められていたことは確かだ。
毎日祈りを込めながら空を眺めていた彼女。
受け止めていた君は、いったい何を受け取ったのかい。僕はそれが知りたくて、ついには知れずじまいで。
だから僕はこの物語に祈るのだ。この、僕の生きている世界という名の物語に。そいつがいったいどれくらいの量の祈りを運んでくれるのか。わからないから、絞っておこう。これだけは必ず運んでもらえるように。
どうか、どうか決して忘れさせないで。
ナインストーリーズという本を調べてみると、JD・サリンジャーという作者に行き当たった。聞いたことのない名前だったが、著者の他作品に聞き覚えのあるタイトルを見つけた。『ライ麦畑で捕まえて』これを書いた人の作品だったのかと思いながら、僕はネット通販で『ナイン・ストーリーズ』を購入した。