続・井戸端会議
※横読み推奨。
「ファイッオー!」
真夏の日差しが降り注ぐ中、陸上部の掛け声がグランドを駆け巡る。
「まあ外よりはマシだよね」
小河が外の掛け声を聞きながら呟いた。
手首の疲れを取るようにぐらぐらと揺らしていた間瀬がダンっと机を叩いた。
暑さで参っているらしい。
「クーラーもない部屋でよくそんなことが言えるな!空気が悪いだろう!」
「マシと思おうとしたのに空気読めよ!だから悪くなるんだろ!」
「お前らうるさい!二酸化炭素吐くな!空気が重い!」
生活指導の教師の叱責に、小河と間瀬は唇を尖らせながら口を閉ざした。
それぞれの理由から留年の危機を免れるための救済処置を達成できず、4人は生徒指導室という名の使われなくなった教室に通うようになって四日。明日でようやく終わりだ。
救済処置の救済処置として漢字、英語の書き取りと元素記号の暗記。
始めからこうしておけば良かったと教師は一日目に嘆いた。
嵯峨野は勢いよく立ち上がって教師に抗議した。
「先生!これじゃテスト勉強できません!!」
「やらねーくせに何言ってんだ。やりたきゃ帰ってからやれ」
これが終わったら次の日は期末テストだ。
そのことに異議申し立てたのだが、バッサリと切り捨てられてしまう。
座れ、と教師に手を下ろされて、嵯峨野はそれに従った。
「帰りたい…」
「諦めろー」
「帰りに31行こうぜ」
「勉強しろよお前ら…」
教師は一向に真面目にやらない四人にうなだれた。
+++
「サイズはどうなさいますか?」
アイスクリーム店で、店員の決まりきった質問に、小河は首を傾げた。
「キングってどのくらい?」
「さあ」
「食べてみたら?」
間瀬の言葉に嵯峨野が反応し、すぐさま行動に移した。
爽やか過ぎるほどの笑顔で小河の代わりに店員に告げる。
「キングサイズをダブルで!」
「ちょお!俺少食なのに!」
「溶かして飲めよ」
「流動体に進化したアイスなんかアイスじゃないだろ!」
「間違い。流動体に退化してんだよ」
嵯峨野が得意げに言うのを頭を叩いて黙らせた。
4人でアイスを食べながらだらだらと歩く。
小河のチョコチップアイスは店員の計らいでレギュラーサイズだ。
それでも案外大きいな、と食べる前から少しだけお腹がいっぱいになってしまう。
「間瀬のなにー?」
「抹茶」
「一口ちょーだい」
「いやだ」
一音一音を区切って、嵯峨野がスプーンを伸ばしてくるのを遮った。
眉をひそめて、不機嫌そうに間瀬は小河の隣に移動してくる。
「なんで離れんの!?」
「アイス食われんのやだ」
「取らねーって!」
「もうお前らうるさい。伊坂を見習え」
小河とは反対側の間瀬の隣を歩く伊坂は相変わらず重そうな瞼を上げてカップのアイスを黙々と食べている。
それを見ても二人は黙る様子はなかった。
ため息をつきながら静かな伊坂に安らぎを求める。
「伊坂のはバニラだっけ?」
「いる?」
伊坂は一口スプーンに掬って小河の口元に差し出した。
「え、や…俺もスプーンあるんだけど…」
たじろぎながらもスプーンを引っ込めそうにない伊坂に見つめられて、小河が折れる。
もしかしたら他の味が混ざるのがイヤなのかもしれないしと自分を言いくるめてスプーンをくわえた。
程良いバニラの香りが口の中に広がる、ハズレのない安心の味だ。
「んまい」
「ほらあ!伊坂だってチェリー小河にあげてるのに!」
「お前さりげなくチェリーとか言うなよ!売れない芸人みたいだし!」
騒ぎたてる嵯峨野の聞き捨てならない言葉に小河は即座に頭を叩いた。
関わりたくない、とでも言いたげな目をして間瀬が距離を置くのを嵯峨野も小河も見逃さなかった。
二人で間瀬を両脇から挟んで腕を組む。
「どこ行く気だよー」
「仲良しだろー?」
「気持ち悪いんだよお前ら…ッ!」
「涼しくなっていーじゃんいーじゃん」
「良くないッ!」
暑い、と二人を振り払うが、それだけで逃げたりすることはなかった。
プールの一件だけの仲と思っていたのだが、予想以上に4日で仲良くなった。
小河は、普段遊ぶ友だちよりもノリが合うことに満足しながら、どうしても一つだけ気になることが頭から離れなかった。
「古文のノート貸して」
昼休みに教室で女の子たちと話していると、小河が廊下の窓から手を出してきた。
大抵、間瀬が女の子と話しているときは女の子以外話しかけてこないのだが、小河は初めこそ遠慮していたものの最近では躊躇いもなく声をかけてくるようになった。
窓の鍵を閉めてやろうかとも思ったけれど、何となく閉めていなかった。
それでも、うんざりした表情を見せながら間瀬は机の中に手を入れた。
「授業一緒だったか?」
「一緒だよ。間瀬が女の子と話してるから分からないだけで」
「放課後返せ」
「さんきゅ。…それよかさあ」
小河は言葉を切って、眉根を寄せながらちらりと女の子たちを気にする。
そして間瀬の耳元に唇を寄せてこそっと言った。
「嵯峨野とどうなの…?」
「…ッ!なん…っ!」
最近の悩みの種、嵯峨野潤吉。
その彼と「どう」なのかと聞かれても、どうとも答えられないがここ数日頭の中を埋め尽くしているのは彼であり、その対処にあぐねていた。
小河が聞きたいのことが自分の悩みと同じとは限らないのに頭の中にはそれしかなくて、顔を真っ赤にするというあまりにもあんまりな反応をしてしまう。違っていたら「何赤くなってんだコイツ。やらしーこと考えたな?」と鼻で笑われるに違いない。
「しまった」と思うのだが、小河が聞きたかったのはどうやら間瀬の疑問と同じだったらしい。
間瀬の反応が予想外だったのか、小河もたじろぎながら答えた。
「あん時…プールん中から見えたんだよ……たまたま」
思わず言葉を失った。
ぼそぼそと話していたため、女の子たちに会話は聞こえてないなかったようで三人の女の子はそれぞれに間瀬に声をかけた。
「タカ、どうしたの?」
「間瀬くんらしくないよ?」
「顔赤くしてるの初めて見たかわいっ」
女子の声に間瀬は冷静さを取り戻し、咳ばらいを一つ。
小河に帰れと言いながら
「あとでノート取りに行く…」
「あいよ。俺二組ね、念のため」
それ以上は喋るなとばかりに窓を閉めた。
小河の影が見えなくなると女の子の一人が声を上げた。
「今の子、小河くんだっけ?」
「うん?」
「意外とかわいーね」
「友だち?」
「まさか。俺に男友達がいるわけない」
「だよねー」
答えながら、先ほどの小河の質問を思い出して深々とため息をつけば、周りにいた女の子が気遣わしげに声をかけてくれた。
女の子はいい。
「タカどうかしたの?」
「間瀬君大丈夫ー?」
「慰めたげよっか?」
「ありがとう、大丈夫だから」
優しく笑いかけると、彼女たちはそれぞれの返事をして別の話題に花を咲かせた。
彼女たちにこんな話を聞かせる訳にはいかない。
授業が始まるチャイムが鳴る寸前に教室を出て、一人になれる屋上に向かった。
立入禁止の柵を越えて、屋上の扉を開ける。
吹き抜ける風が気持ちいい。
この開放感が好きだ。
強い陽射しから隠れるように日陰に座り込む。
ようやく一息。
壁に預けていた背中を少しだけずるりと滑らせる。
偶然、一緒にプール掃除をした相手にキスされた。
女の子なら大歓迎だったが、どうしようにも男だ。
最悪。
その一言に尽きる。
「なんでキスなんか…」
そろりと唇に指先を触れる。
「ファーストキス奪われた女子か……」
がっくりとうなだれる。
小河に見られていたのも堪え難い。
次の休み時間に何を言われるか。
からかわれるのは必至だ。
またため息をついた。
あの日からずっとこの調子だ。
気が付けばため息ばかりついている。
小河や嵯峨野たちといるときを除いては。
考えるのよそう…
そう決めて目を閉じた。
15分の休み時間、言ったとおりに間瀬は小河の教室にやってきた。
間瀬が女子を引き連れていないことが不思議なのかクラスの男子のほとんどの視線を浴びた。
「ノートありがと。案外、字汚いのな」
「分かった。お前には二度と貸さない」
「スミマセンでした」
ふん、と鼻を鳴らして高慢な態度を取ると小河は、違うだろ、と話を切り出す。
何を言っていいのか分からず、口ごもってしまう。
眉根を寄せて唇を引き結んで、何とも情けない。
頭の中の整理もついていないままに言葉を発したものだから
「あれは何だったんだ…」
と、一言で片付く質問をしてしまう。
呆れたように小河は間瀬も分かっている答えを返した。
「キスだろ」
「…ッから!どうして俺に!」
「俺が知るかよ、んな事ー…好きなんじゃねーの?ひゅーモテモテー」
「ホチキスで唇止めてやろうか……お前とのほうが仲良いだろう」
「友達と恋愛?は別だろ。男でもいいっつってたからヤケなんかもだけど」
「……。ヤケならお前でも…」
「顔が好みとか」
「ふざけるな」
「こんな話しててもしゃーないだろ、休憩終わる」
面倒くさそうに言う。
それでも言いたいことは言いきっていなくて、次の授業をさぼればいいと思ったのだが即答で却下された。
「次の授業サボれ」
「やだよ。教室ほど涼しいサボり場所ないだろ!」
「ああそうか…」
「次、何?」
「英語。…たぶん自習」
「俺も数学は自習だと思うから」
小河は間瀬に返したノートを掴む。
そのノートの適当なページを開いてさらさらと自分のメールアドレスを書いた。
「言いたいことあんならどうぞ」
「携帯に男の名前が入るのは許せない…」
「じゃあ小河智子とかで入れとけよ…他にはけ口あんならメールしなくていいし」
「…」
くるくるとシャーペンを手の中で回す小河とアドレスを見つめて、考え込む。
不服そうな顔をしていることだろう。
しばらく突っ立っていたが休憩時間終了のチャイムに弾かれたように顔を上げて挨拶もそこそこに教室へ戻った。
英語は案の定、自習でテスト対策のプリントを配られただけだった。
机の下で携帯を開く。
古典のノートに書かれたアドレスをメールの宛先に打ち込んだ。
アドレス帳に登録する気はないが今メールするくらいはいいだろう。
『どうして俺なんだ』
ぶっきらぼうなメールを送って、返事があるか分からないが携帯のバイブ機能をオフにして机の中に携帯を開いたまま置いた。
寝てしまわないようにプリントに手をつける。
一問目を答える前に携帯が光った。
『知るか』
何だその答えは、と思いながら返信ボタンを押す。
『何でしたんだと思う』
送って、シャーペンを握る。
二問目を答えたときに返事が来た。
考えて返事してるのかコイツ。
イラッとしながらメールを開く。
『本当に男でもいいか、間瀬ならいいか』
『俺が女の子たちと遊んでるからか?経験多くても男は許容範囲外だ』
『んじゃなくて、間瀬が好きとかさあ。男はだめだけど間瀬はOKみたいな…マジメな話』
『だからって会った日にキスするか?だから彼女できないんじゃないのかアイツ』
『それには触れてやるなよ……。女子との触れ合いは幼稚園で手をつないだのが最後とかだ』
『哀れだな』
『言ってやるなって。間瀬が好きじゃなかったら、すげー嫌いとか』
『矛盾してないか?嫌いなら触れたくもないだろ』
『男にキスされんのなんかイヤだろ。嫌がらせ嫌がらせ』
『そもそも嫌いになられるような事したか?』
『自意識過剰ー男は大抵お前のこと嫌いだと思う』
『まあ好きになられてもな』
『だから男友達できねーんだって』
『いらん』
いつの間にか話は脱線して、そのまま突き進んで行った。
最後に
『嵯峨野のことは俺も気になってたけど、あんま意味ないのかもしれないし気にして避けたりするほうが自意識過剰かも。…と俺の中で結論出た。っつーか、アイツの気持ちがどうあれ、どうする気もないんだから気にすんな』
と小河からメールが来て授業終了のチャイムが鳴った。
パクンと携帯を閉じて帰り支度を始める。
HRで担任が来るまでに女の子が話し掛けてきた。
「ずっとメールしてたでしょー」
「だれだれ?」
「アドレスも登録してないヤツだよ」
「それなのにずっとメールしてたの?」
「…まあ」
「メール楽しそうだったから気になってたんだよー」
「そんな訳ないって」
男とメールをしていて楽しい訳がない。
鼻で笑うように言うと彼女たちは「そんなことないよぉ」「だってー」とまだ掘り下げてくる。
くだらない事しかメールしていないし、男とメールしていたと知られるのも面倒臭い。
「ほら先生来たから」
知らずと苛立った声音になったかもしれない。
少し後悔しながら、このあとの居残りのときに小河に八つ当たりしようと決めた。
「いって」
居残り課題が終わってすぐに小河の肩に軽く拳をたたき付けた。
叩かれた腕をさすりながら小河は「なんだよー」と唇を尖らせる。
「別に」
と素っ気なく答えると、小河は何も言ってこなかった。
何だか気が楽かもしれない。
「帰りどっか寄るー?」
嵯峨野の言葉に小河は首を振った。
「いい加減テス勉しないとやばい」
「小河テス勉なんかすんの!?いい子ぶらなくていいよ!」
「赤点取りたくねーし…化学がわかんねーの」
「理科なら俺に任せろよ!」
「理科って言ってる時点で任せられるかぁ!」
「分からない所、どこ?」
勢いよく嵯峨野に切り返していた小河は伊坂に尋ねられて態度が一変する。
ロッカーから教科書を取り出して指をさす。
伊坂は教科書を覗き込んで頷いた。
パッと小河の顔が明るくなる。
「分かる?」
「分かるよ」
「教えてくださいっ!」
伊坂が頷くと小河は飛びついた。
嵯峨野は仕方ないなとでも言うように頭をかいて面倒臭そうに
「じゃあみんなでテス勉やるか」
「どこでやるよ?」
「ファミレスは?」
「うるさくするからダメだ」
「うるさくなんかしねーって!」
「嵯峨野元から声でかいし、俺と嵯峨野がうるさくして間瀬がキレて最終的に店に怒られるのは嵯峨野と間瀬だ」
「なんで俺まで!」
「俺最っ初から最後までうるさいヤツじゃん!」
「そうだよ」
「何を今更」
間瀬と小河は二人揃って、しれっと言い切った。
嵯峨野は返す言葉もないのか、居心地が悪そうに視線をそらした。
その様子を気にも留めず、小河は「どうするか…」と頭をかく。
「俺ん家狭いしなー…」
「俺の家も広くはない。ってかお前らを呼びたくない」
「わかってんよ。みなまで言うな」
「あ、俺ん家来る?」
伊坂が何か言いかけたのだがいつの間にやら復活していた嵯峨野が、けろりと言う。
嵯峨野の発言に、伊坂は開きかけた口を閉じた。
小河が気付いていたなら言いかけた言葉を促したのだろうけれど。
そう思いながら間瀬は小河と嵯峨野のやり取りを眺めやった。
「お前だけで十分迷惑なのに、お前の家族にこれ以上迷惑は…」
「大丈夫だよ。慣れてるから!」
「お前は一度自分を顧みろ」
「顧みたところで何も変わらん」
何故だか自信たっぷりに言い切る嵯峨野に落胆しながら、小河は
「じゃあ、嵯峨野ん家ってことで…お邪魔します」
と疲れ切っていた。
嵯峨野の家は大きかった。
4人暮らし、とのことだが祖父母と暮らしても余裕で住めそうだ。
家を茫然と眺めて小河が
「なんだろう…伸び伸び育ってるってことか…」
とぼやいていた。
4人でぞろぞろと家に上がると、女の子がバスタオル一枚というあられもない格好で現れた。
「お兄ちゃんおかえ…っすみませんっ!!!」
ほわんとした笑顔で出迎えたかと思うと、顔を真っ赤にして浴室に逆戻り。
そんなものは気にも留めない様子で嵯峨野は部屋にカバンを投げた。
「ただいまー」
「お前なに普通にしてんの!?すみませんはこっちだ!」
「妹の裸くらいで何をぎゃいぎゃい…」
「ぎゃいぎゃいするわ!!」
「お前の妹なのに可愛かった」
「間瀬も何で通常運転だ!」
「うるさいチェリー、騒ぎすぎだ」
「このやろ…っ」
「あああ、あの、すみません、失礼な格好で…」
喚く小河を遮るように嵯峨野の妹が部屋着に着替えて、わざわざ謝りに出てきた。
小河は正座をして頭を下げた。
「いいえ!申し訳ないのはこっちで……あ、お菓子買ってきたんで好きなのどうぞ」
「あー、ありがとうございますー」
出迎えた時のようなほわんとした笑顔を見せる妹に、小河の表情も緩む。
その様子を見て僅かに伊坂の表情が曇る。
伊坂担当は小河なのに、どうして気付いてやらないのかと少しばかり苛立ちを覚える。
思わず、嘆息。
「小河も間瀬も妹に手出すなよー、特に間瀬」
「裸見られても動じなかったくせになんだ」
「というか伊坂が漏れてますが!」
「伊坂は…興味なさそうじゃん」
嵯峨野はちらりと小河を見た。
間瀬もだ。
小河だけが分からないでいる。
「お前って女の子のアピールに気付かないタイプだよな…」
「え?」
「何でもない。早くテス勉やろう」
「あ、じゃあお茶だけ持ってきますね」
嵯峨野の妹はすっくと立ち上がって「お菓子ありがとうございます」と礼を言ってから部屋を出た。
「お構いなくー」と小河はだらしない表情で手を振って見送った。
空気を切り替えるように嵯峨野が手を打つ。
「テス勉!」
嵯峨野が仕切るのは珍しいなと思いながら、間瀬は教科書とノートを取り出した。
「間瀬、英語わかる?」
「今やってる範囲なら」
「教えて」
「ん」
小河も伊坂の隣で教科書を広げた。
伊坂はどこか嬉しそうだ。
間瀬は英語の教科書を探す嵯峨野をちらりと見遣る。
あまりに普通に接してくる態度に、あの行為に他意はなかったのかもしれないと思い直す。
もとより男友達の距離感がまるで分からない間瀬には考えても友愛か愛情かだなんて分からなかった。
思ったよりも静かにテスト勉強は捗った。
もっとうるさくなると思っていたのだが、よほど切羽詰まっているのかカリカリとシャーペンを走らせる音を響かせた。
「嵯峨野、トイレどこ?」
「ん。俺も行く」
二人で立ちあがって部屋を出る。
一回に降りると、静かなものだった。
トイレに向かうまでに、嵯峨野が首をゴキンと鳴らしながら言う。
「伊坂って小河のこと好きだと思う?」
「…思う」
「やっぱり。小河は気付きそうにないなー」
「俺らがお節介焼くこともないだろ」
「んー…でもやっぱ気になるって。割と4人でいるのにさ。内二人がカップルになるとかほら、おいてきぼりっぽいし」
4人の平穏を壊そうとしたのは誰だ。
じとっと思わず睨みつけてしまう。
「何?漏れそうなら先どうぞ」
「そんな訳じゃないけど先借りる」
トイレを先に借りて出てくると、嵯峨野はいつもとは違って神妙な顔付きでいた。
ドキッとはしていない。
けれど少なからず見とれていた。
だから気付いても動けなかった。
焦点が合わないほど嵯峨野が近付いていたのに。
腕を突っぱねて押し返す余裕はなかった。
気付いたら唇が触れて、離れていた。
「先戻ってて」
言われなくてもそのつもりだ。
足早に嵯峨野の部屋に戻ると小河と伊坂が顔を向けた。
「小河!お前の結論間違ってんじゃないのか!」
「何が!?」
「…っあとでメールする」
「お…おー」
伊坂の視線と階段を上る足音に、話を打ち切った。
何なんだ。何なんだ。何がしたい。
気にしないと決めた途端に。
帰り道、小河と別れてすぐにメール画面を開いた。
短く
『嵯峨野にまたキスされた』
とだけ送る。
途中まで帰り道が同じだからと隣を歩く伊坂をちらりと見た。
「伊坂、唐突だけど…男が男にキスするってどんな意味がある……あと引くなよ」
「引かない。男同士でも男女でも気持ちは一緒…多分」
「多分って…恋愛したことは?」
伊坂は首を振って、何かを思い出したように動きを止めた。
小さく口を開いて
「今」
とだけ言った。
「小河のタイプってふわふわした子だと思うよ」
「嵯峨野の妹みたいな?」
「うん」
一度視線があったかと思うと、伊坂はすぐに視線を戻した。
何だかその遠くを見つめる視線が寂しそうで、失恋させてしまったような申し訳なさが込み上げた。
携帯が震えて見てみると、小河からだった。
返事はあまりにも短い。
『まじで?』
思わず
『馬鹿』
と返した。
テスト週間中、放課後には嵯峨野の家で次の日のテスト勉強をした。
だからテスト最終日も四人でいるものだと思っていた。
「土田ー!ゲーセン行くべ!」
「テスト終わってすぐそれか!」
「この解放感が堪らんね」
誰か間瀬の知らない男子に飛びついているのを見て、少なからず戸惑いを覚えた。
「何だそれ…」
キスをしてきたのは謎のままだ。
小河には「間瀬が付き合いたいとか思ってない限り、突き詰めたところで意味はない」と言われた。
けれど謎が謎なままなのはどうにも居心地が悪かった。
問い詰めたい気にもなる。
ため息をついて、女の子たちと遊ぼうと決めた。
いつも話す女の子の集団がいて、声を掛けようとした、その時だ。
「ふざけないでよね!」
背中に鋭い声を浴びせかけられた。
振り返ると、くるくると天然ウェーブのかかった髪の女の子が、いつもはふわんとした目を吊り上げて間瀬を睨みつけてきた。
「彩乃ちゃん…それ、仕舞って」
じり、と後ずさる。
彩乃の手の中には刃が剥き出しになったカッターナイフが握られていた。
周りに人だかりが出来ていたが、カッターナイフを見て誰も手を出せずにいる。
「女の子を何だと思っているの!?私とキスしたじゃないっ!!」
彩乃が悲鳴じみた声をあげてカッターナイフを振り上げた。
「彩乃っ」
ギャラリーの中にいた小河が飛び出すのが見えた。
伊坂も足を踏み出した気がする。
それよりも速かったのは
「っぶないなー…」
嵯峨野だった。
彩乃の背後から振り上げ腕を掴んでいた。
普段は何も思わなかったが、女子に比べれば背もあるしがたいも良い。
黙っていれば爽やかな少年に見えるのだからモテないこともないのでは。
そんなくだらない事でも考えていないと立っていられなかった。
「大丈夫か?」
彩乃は小河が支えたため、嵯峨野が間瀬に声をかけた。
「意外とお前はモテるんじゃないか…?」
「お、今ので株上がった?」
「上がったあがった…」
「小河ー、間瀬が大丈夫じゃねぇ。俺を褒めた」
「俺、職員室行くから間瀬連れて保健室いけ」
「わーった」
+++
「せんせー、保健室で休まして」
「サボりだったらぶん殴るぞー。俺もう帰りたいし」
「サボるくらいなら帰るし!帰れないくらい精神不安定なんだって」
「お前が精神不安定な訳ないだろ帰れ!」
「俺じゃなくて間瀬!」
保健教諭の前に間瀬を突き出す。
先程まで嵯峨野と言い合っていた保健教諭は納得顔でベッドを指した。
「…そういう事ならちょっと寝てろ」
「そのつもりだ」
「何をえらっそうに…お前は帰れ」
「間瀬寂しくなっちゃうだろ!」
「嵯峨野うるさい…」
「ほら、帰れ」
間瀬が言うと、保健教諭は「それ見たことか」と言いたげに手でひらひらと払う。
不服そうな嵯峨野は、しばらく捨てられた子犬のように間瀬を見ていたのだが保健室の扉が開いて体を跳ねさせた。
伊坂が顔を覗かせて
「カッターナイフ…ある?」
と聞いた。
嵯峨野は思い出したようにポケットからカッターナイフを取り出す。
今は刃も出ていないし、振り上げる仕種をした訳でもないのにビクリと体が震えた。
伊坂はカッターナイフを受け取って嵯峨野にもう一つ言付けを伝える。
「あと、間瀬のとこ居てやれって小河が…」
「おうよ任せろ」
ぐっと親指を立てたのを見て、伊坂は踵を返した。
嵯峨野は振り返ると、保健教諭ににたっと笑って見せる。
「いろってさ!」
「わかったから、ムカつく顔すんな。何かあったのか?」
それより、と言った保健医の質問に、嵯峨野は軽く答えた。
「間瀬の女遊びに耐えられない女の子がついに刺したんだよー」
「怪我は?」
「間瀬がビックリしたくらいで他は大丈夫」
「そうか…なら職員室行ってくる」
「あいよー」
ひらひらと手を振って見送ると、嵯峨野は間瀬が座るベッドの脇に椅子を持ってきて座った。
それから、窘めるように言う。
「だから言ったじゃん。いつか刺されんぞーって」
その言葉はハッキリ覚えている。
言い訳も見つからなくて、先ほどの彩乃の言葉を思い出していた。
『キスしたじゃない!』
嵯峨野に対して、同じことを思っている。
キスしたのなら、その結果が欲しい。その理由が。
「女々しいな…」
「ん?」
振り向いた嵯峨野と目が合って、今しかないと思った。
そう思うと、案外すんなりと言葉は出てきた。
「何でキスしたんだ」
嵯峨野はそのことか、と間瀬から視線を外す。
言おうかどうしようか迷った末、
「嫌がらせ」
と一言で済ませた。
それを受けて、間瀬は「じゃあ…」と言葉を紡ぐ。
「二回目は」
「聞くかふつー」
「二回目の方が意味あるだろ」
一回目は弾みでも、二回目にはそれなりに理由があるはずだ。
問い詰めると嵯峨野はバツが悪そうに顔をしかめた。
また逡巡しているのか、頭をかいたり「あー…」と意味のない音を発したりする。
それでも言葉を待っていると、嵯峨野はため息をついて話し始めた。
「誰でも"初体験"って覚えてんだろ」
「まあ…」
「女との経験多い間瀬でも、男は初めてだろって嫌がらせだった。で、お前のこと気になり始めてどーしよーって思って…二回目は確認」
「はあ?」
「二回目なんかするつもりなかったのに間瀬が俺のこと意識するからつい」
「意識するだろうあれは!!」
「だから、期待した」
嵯峨野の真剣な口調に気を取られて一瞬、何が起こったのか分からなかった。
世界がぐるりと反転したような気分だった。
目の前には影のかかった嵯峨野の顔があってその髪がはらりと落ちてくるのを見て、押し倒されたのだと理解する。
「はっ!?」
「間瀬の"初めて"全部ちょうだい」
そっと頬に手が触れたかと思うと、親指の腹で間瀬の唇をなぞった。
「俺の初めてもあげるし、怖くない怖くない」
嵯峨野は、な?と妖しく微笑む。
ひくりと喉が鳴った。
「―――…あれ?」
+++
終業式。
例の一件は誰も怪我がなかったのだからと小河が言いくるめ、被害者である間瀬も問題ないと言ったために不問になった。
彩乃の心境は不問にする訳にもいかず、話し合ったのだが間瀬がもう誰か女の子と遊ぶことはないから、と言うと向こうも気が動転していただけで、遊びだと理解していたと頭を下げた。
全面的に悪いのは間瀬だと小河たちに罵られたのだが。
嵯峨野と伊坂の教室へ向かう途中、間瀬は小河に嵯峨野との顛末を簡潔に話した。
「よくわからないままにアイツの中では付き合ってることになったらしい。俺は何も答えてないが」
「別にいいんでないの?意識してたんだし」
「まあ……というか案外普通でいるんだな」
友達って。
伊坂の時もそうだったが、もっと複雑な表情でもされると思っていた間瀬は困惑気味に言う。
友達の距離感が分からない。
そんな間瀬の気持ちは分からないようで、小河はあっさりと首を傾げた。
「何がよ?」
「男同士…」
「ああ。元々気にしないタイプだったけど、今はそういうの増えてるらしいしなー友愛と愛情間違えやすいんだと」
「へえ…」
「真性は学年に一人の割合らしいから同学年と付き合えるだけ良かったんじゃね?」
「三人だと思うけど」
「へえ」
「伊坂。小河のこと好きだろ」
「はあ?何言って…」
「こういうのは伝染するらしいからな」
意地悪に笑ってみせると小河は「しーなーいー」子供のように言い返す。
くくっと笑って、間瀬は思い出したように言った。
「そうそう。嵯峨野にアドレス帳削除されたからアドレス教えろ」
「消されたって…なに、全部?」
「女の子のは全部」
「おい、俺男だぞ」
「智子で入れてたからな」
「はぁ!?」
「智子で入れろって言ったのお前だろ」
「要望じゃねぇよ!お前が男の名前入れるの不服そうだったからだろ!」
「次はちゃんと入れるさ」
「それもそれで怖いんだけど。どういう気の変わりようだよ…女子はもう懲り懲りですかー」
羨ましいことだと小河は唇を尖らせる。
友達だと思えるようになったのは小河のおかげなのだが、言う気も失せた。
「お前のこと可愛いって言ってる子がいたけど紹介してやらん」
「え!何それ!!」
「知らん。あ、伊坂ーアドレス教えて。あとフルネーム」
「ん」
ちょうど教室から伊坂が出て来るのが見えて声をかけた。
「ちょおい無視かよ!」
「何騒いでーんっの!」
「ぅおっ」
嵯峨野が勢いよく小河に飛びつく。
伊坂と赤外線で携帯を交わしながらその様子を見て、ぷっと吹きだした。
案外、男友達も相手を選べば悪くない。
今度はちゃんと"小河智充"と入れてやろう。
アドレス帳の登録件数は両親を含めて5件。
前よりは随分と減ったが内容は充実しているな、と間瀬はアドレス帳を見て満足げに笑った。
◇◇◇◇◇◇
夏休みに入って一週間。
課題に手を付ける気にもなれず、ベッドにごろり。
小河は扇風機の風が当たるベッドに両手足を広げて寝転がる。
目を閉じて眉を潜めるのは暑さのせいではない。終業式の日に間瀬に言われた言葉が頭の中でリフレインされるからだ。
『伊坂は小河のこと好きだろ』
間瀬には気にするなと言っていたがあんなことを言われて気にならない訳がない。
「参ったなあ…」
言いながら、寝返りを打つ。
そう言われてちっとも嫌だとも思わない自分にも参っている。
また寝返りを一つ。
それでも気分は晴れなくて、意味もなく寝返りを打ち続ける。
枕元に置いていた携帯が額にコツンと当たって寝返りを止めると携帯が震えた。
直接振動があたってビクッと体が跳ねた。
見ると、間瀬からの着信だった。
「お前のせいで」と思わなくもなくて、電話に応えた声は少し刺を含んだ。
「もしもし」
「何だ機嫌悪いな」
「半分くらいお前のせいだ」
「伊坂か」
即答された事と伊坂の名前にぴくりと反応してしまい、誰も見ていないのに「うっせ!」と叫んでごまかした。
その様子が目に浮かんだのか間瀬は鼻で笑って用件を済ませる。
「今からヒマか?」
「暇」
「夏祭り行かないか」
「そういうのは嵯峨野と二人で行けよ、初デート」
からかうように言うと、間瀬もむっとした声で返す。
「小河のこと可愛いって言ってた子たちも来るんだけど…伊坂が気になるなら伊坂誘おうか?」
「女の子で!」
「そうか。まあ伊坂は家の用事とかで来れないんだけどな」
「何故言った!」
「言ってみた」
一瞬喜んでしまったではないか。
がくっとうなだれると間瀬はカラカラと笑って場所を伝える。
「じゃあ今から白浪神社」
「あいよー」
ため息をついて、気持ちを切り替えて家を出た。
ちらほらと浴衣姿を見かける中、待ち合わせ場所に行くと間瀬がすでに待っていた。
携帯を片手に腕を組む姿は、間瀬が学校で何と言われているのか思い出させた。
絵になる、とまでは行かなくても何となく目を惹かれる。
「嵯峨野は?」
「来ないよ」
「初デートは?」
「からかいたいんだろうがそれはもう済んだ。残念だったな」
「赤裸々に嵯峨野との進展を俺に言ってるのに気付かないお前が残念だよ」
指摘すると間瀬は本当に気付いてなかったようで、ハッとすると顔を赤らめた。
「のろけるな」
「そんなつもりはない」
ハイハイ、とあしらっていると、カラコロと下駄を鳴らして女の子たちが手を振って歩いて来るのを見つけた。
パーマのかかった茶髪を肩に流している子も目をはっきりさせるメイクの子も髪をアップにして普段とは印象が異なる子も、見知った顔だった。
間瀬の教室に行ったときに間瀬を囲んでいる女子たちだ。
何度か会釈したことがある。
「ホントに連れてきてくれたんだ」
パーマヘアの子が小河を見て嬉しそうに言った。
「連れてきてって沙希が言ったんだろ」
「一回話してみたかったんだよねー。タカと違って女の子遊びしなさそうだし」
「俺ももう遊んでないし…」
間瀬が拗ねたように言うと彼女たちはくすくすと笑った。
会話に入れずにいる小河に気付いて彼女たちを紹介する。
「沙希と、真里菜と栞」
「あ、どうも」
頭を下げるとそれぞれに挨拶が返ってきた。
その様子を見ながら間瀬が、「まあ」と言って二の句を継ぐ。
その言葉が波紋を呼んだのだ。
「小河の好みはいないと思うけど」
「そうなの!?」
「ええ…?いや、自分の好みがわからん」
「ふわふわした子好きだろ。嵯峨野妹とか」
「ああ…たしかに」
間瀬は名前を出さなかったが、彩乃もそうだ。
普段はふわふわと笑っていた。
沙希がつまらなそうに口を開く。
「アタシらとはタイプが違うのね…」
「あはは…でもまあ、君たちが俺と付き合いたいわけでもないだろうに、いいでしょ」
諦めたような口調で小河が言うと空気が死んだ。
何かまずいことを言っただろうか。
彼女たちはしらけた表情でいるが、小河はあまり話しかけられたことのないタイプの子たちだ。
小河と付き合いたがるとは毛の先ほども思えない。
助けを求めるように間瀬を見やると、彼も今にも盛大なため息をつきそうな顔で小河を見つめていた。
「お前…だから彼女できないんだよ」
「えー」
「アタシら三人で回るから、じゃ」
沙希がため息混じりに言う。
間瀬もそれを止めようとはしなかった。
カラコロと人ごみに飲まれていく彼女たちを指さして小河は間瀬を見遣る。
今度こそ間瀬は頭を抱えてため息をついた。
「馬鹿め」
「第一声が」
「そうとしか言いようがない。お前に彼女ができるのは奇跡に近いから大事にしろ」
「大事にはするけど…あれぇ…」
首をかしげた。
間瀬はそんな様子に目もくれず、携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「俺。暇か?…ああ、デートデート。うん…白浪神社。じゃーな」
電話を切った間瀬に「誰?」と尋ねる。
間瀬は短く「嵯峨野」と答えた。
「んじゃ、俺帰ったほうがいいね」
「いろ。まだ罵る」
「えー」
+++
「ってことがあった」
「そりゃあバカだな!」
先を歩く間瀬の隣を歩いていた嵯峨野は小河を振り返って笑った。
「お前に言われると腹立つな!」
間瀬は嵯峨野が来るなり、小河を見て「デートじゃねぇ!」と叫ぶ嵯峨野を「うるせぇ」と一蹴して先ほどのことを話した。
どれほどバカな行為だったのかを散々罵られ、小河は返す言葉もなく隣を歩く女の子に曖昧に笑いかけた。
「それは小河さんが悪いですよっ」
あまり強い口調でもなくやんわりと窘めるように言うのは、嵯峨野妹だ。
里美という名前だとさっき聞かされた。
「でも、そう思ったってことは小河さん自身が興味なかったんじゃないですか?」
「…かもね。普段話すようなタイプと違ったしなあ…俺の好みはいないって間瀬も言ってたし」
元を辿れば、間瀬がそんな発言をしなければこんなことにはならなかったはずだ。
思ったけれど口には出さなかった。
「好みはどんなのですか?」
「ふわふわした子?」
「ふわふわ……肉体的に?」
「いや、雰囲気。里美ちゃんみたいな」
「じゃあ私たち付き合えますねー」
「そうだねー」
「口説くなっつったろぉ!?」
「口説いてねえ!!」
ほのぼのとして、笑い合っていた小河と里美の間に嵯峨野は割って入ってくる。
チョップをぎりぎりのところで避けながら小河は反論したが、里美は笑っているだけだ。
「癒しー…」
「小河の回復の泉は伊坂だろ」
「え、伊坂以外求めちゃダメか」
「ダメだよ。浮気者」
「小河さん彼女さんいらしたんですか?」
「いやいやいや。彼女ってか男だし」
「あ、全然おっけーです!」
「何がかな!?」
弁明をしようものの、里美は親指をぐっと立てて「きゃー!」と騒ぐだけで、話を聞きそうになかった。
意外と里美は癒しではないかもしれないと気付いて、こっそりとため息をつく。
伊坂がいればなぁ…とふと思う。
「違う違う…そんなんじゃない」
伊坂のことを思っているのではないと頭を振る。
頭が恋愛直結になっていて、どうにも恥ずかしくなってしまう。
思わず呟いた言葉に間瀬と嵯峨野が容赦なく返してくる。
「俺ちょっとバカかもしれん」
「今気付いたか」
「さっきから散々言ってるだろー」
「ちっがうよ。なんか恋愛脳直結になってて勘違いっぷり全開」
「恋愛脳ならさっき発揮しろよ…」
「あ、ごめん。できなかった」
「脳内ピンク色?」
「ピン…それエロ直結だろ!春色程度で!!」
「恥ずかしくない恥ずかしくない」
分かってるから、とでも言いたげな嵯峨野の笑顔にいらっとして、肩を殴りつけた。
「いって」と笑う嵯峨野に躊躇いもなくため息をつく。
それでも釈然とせず、間瀬に仕返しをしてやろうと口を開いた。
「嵯峨野のことで悩んでた間瀬くらい脳内が恋愛直結…」
「え、何それお兄ちゃん!?」
「いや俺も知りたい間瀬!」
「小河お前!」
「俺、風当たってくるー」
思った通りに嵯峨野兄妹が食い付く。
二人に詰め寄られる間瀬が鋭く睨みつけてきたが、笑顔で切り返す。
あとで文句くらいは聞いてやるさ、と思いながらむせかえるような人ごみから抜け出した。
人いきれでむっとする屋台の群れから外れ、拝殿のほうに向かうと人はぐんと減った。
息がしやすくなったような気がして、大きく空気を吸い込んだ。
一人になって伊坂のことを考えようかと思っていたのだが、自分がどうしたいもなければ伊坂が本当に自分のことが好きなのかという確証もない。
考えても仕方のないことだと気付いたのが、ついさっき。人ごみを抜け出した瞬間だ。
おかげで考えることがなくなってしまった。
明かりが灯る屋台の並みをぼんやりと眺めて拝殿の手前の階段に座りこむ。ひんやりとした階段が心地よい。
自分から抜け出したとは言え、これだけの明かりを目の前に一人暗がりにいると置いて行かれたような気分になる。
少し寂しさを覚えるものの、あの人ごみに戻るのも気が引けてただただ、ぼんやり。
10分ほど経って、諦めて人ごみに戻ろうかというとき、こちらに向かってくる人がいた。
参拝者だろうかと思って腰を上げると、その影は真っ直ぐ小河のところにやってきた。
いつもと違って、前髪をまとめて後ろに倒してピンで止めていた。
「伊坂!?」
「これ」
どうぞ、と伊坂はどこかの出店で買ったと思われるきんきんに冷えた缶ジュースを手渡す。
あまりの自然さに「あ、さんきゅ」と答えて受け取ってしまう。
伊坂が階段に座ったものだから、その隣に腰を下ろしてジュースを喉に流し込む。
ぷはっと口を離して、ようやく疑問を口にした。
「なんでいるの……用事は?」
「用事中。出店の手伝いだから」
「そー…でしたか…」
肩すかしをくらったような気分だ。
もしかして間瀬は知っていたのだろうか。そうだとしたら憎い。
「あ、そんでも何でこっちに?メインは無いだろ」
「間瀬に聞いた」
「よく分かったなー。店の手伝いはいいの?」
伊坂は静かに頷いた。
何となく、気が楽だ。
さっきと静かさは変わらないが寂しくはない。
「そーいや、前髪…なんで上げてんの?」
いつもと雰囲気が違って野暮ったさが薄れた伊坂を、間瀬や嵯峨野も見てしまった。
それがなんだか悔しい。
以前、似合わないと小河が言ったのを覚えていたのか伊坂はヘアピンを取った。
「前髪ジャマだったから…」
「あー、別に取んなくてもよかったんだけど…」
言っていることがめちゃくちゃだな、と自分で呆れる。
気まずくて困惑気味の伊坂から視線を外すと、ひしめき合っていた人たちがパラパラと移動していくのが見えた。
「…?何かあんの?」
小河の疑問にすぐ察してくれたようで伊坂は短く言った。
「花火大会」
「へえー、知らなかった」
まばらに散っていく人たちを見て、どこかいい場所でもあるのだろうかと思う。
また人ごみになるのも嫌だなと考えていると、伊坂が立ち上がって「こっち」と拝殿の更に奥を指差した。
その先は森のように木がひしめき合っていて今居る場所よりも暗かった。
伊坂について行って、人が来ない理由が分かった。
「これ、ちょっと行ったら死にますよね」
「骨折程度」
「いやー…どうかなぁー…」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
森を抜けて視界が開けたと思えば、一寸先は闇だ。
闇、というよりも崖だ。
暗がりでその先が見えないため、「あ、これは落ちたら死ぬな」と直感的に思う。
落ちないように後ずさって大きな木にもたれかかる。
安堵の息をつくと、伊坂がじっと見つめていた。
「な、なに」
声が上ずりそうになるのをなんとか抑える。
珍しく伊坂が言いづらそうにした。
「嵯峨野の妹…」
「ああ、里美ちゃん?どうかした?」
「呼ばなくていいの?」
「あいつら来たらうるさいからなー…」
騒ぐ様子が目に浮かんで苦笑する。
だが、伊坂は「そうじゃなくて」と首を振った。
「好きなんじゃないか…と」
伊坂はそう言って目を伏せた。
悪い事をしたような気分になって、小河も視線をそらして頭をかく。
「いや…、何か考えてくれたのかもしらんけど、悪いけど恋愛対象ではないよ嵯峨野の妹って時点で」
ちらちと視線を戻すと、伊坂は目を丸くして小河を見つめていた。
気恥かしさがこみ上げて、また目をそらす。
「友達の兄妹とかと付き合うの嫌だろー…なんか、こう…うん」
考えがまとまらなくて尻すぼみになる。
それでも伊坂は納得したようで、小さく頷いた。
小河もほっと胸を撫で下ろす。
まだ花火まで時間があるのか、伊坂は座りこむ。
その隣に腰を落ち着ける前に聞いておきたいことがあった。
「あの…さ、伊坂」
「ん?」
「間瀬が言ってて…違ってたら別にいいっつか忘れてほしいんだけど…」
「うん」
「……俺のこと好き、…ってほんと?」
言ってから、バカな質問だなと後悔する。
ただの自意識過剰なだけではないだろうか。
今すぐ逃げ出したい。
「違う」と言われて「あ、はいそうですか」と返せる自信もなくなってきた。
かと言って今ここで「やっぱなし」と言うのも不自然な気がする。
ごちゃごちゃと考えている小河をよそに、伊坂はあっさりと答えた。
「言わない」
「は…?」
この答えは予想外だった。
「言わない」という答えは言っているようなものだが、有耶無耶にされたのは変わらない。
そもそもどうして言わないのか。
誤魔化すなら「違う」と言えばいい。
「あの…何で言わない?」
伊坂の顔を覗き込むように聞くと、伊坂はまっすぐと見上げてきた。
前髪に隠れた瞳がいつもより精彩さがあってどきりと胸が跳ねた。
「言ったら、小河が逃げられなくなるから」
今度は体がびくりと跳ねた。
ドン!っと爆発音が背中から聞こえてきたからだ。
「うおおお…びっくりした…」
色鮮やかな花火が空に咲いて散った。
驚く小河を見て、話をはぐらかされたと思ったのか伊坂は立ち上がり黙って花火に見入る。
いつもと変わらないことがもやもやする。
花火なんて気にならない。
伊坂に尋ねたのは勢いも少なからずあったけれど、真面目に取り合う気があったからだ。
小河は伊坂の腕をぐっと掴んだ。
「…言え。その、…逃げるつもりないから」
格好良く言うつもりが、妙に恥ずかしくなって顔を伏せてしまう。
もしかしたら顔が赤いかもしれない。
その証拠とでもいうように、伊坂の空気が和らいだ。
小河の気持ちが完全に見透かされているのも分かる。
そのせいで更に気恥かしさが増す。
伊坂の腕を握っていた手を器用に繋いでくる。
「小河から言ってくれないと言わない」
またも思わぬ言葉に、がばっと顔を上げて伊坂を見る。
こんな風に笑うヤツだっけ…と首を傾げてしまう程、満足げに、少し意地悪さを含んだ笑みを浮かべていた。
「あ…っくぅー…ずるいぞ!」
「小河もずるい」
「そう…ですが…」
手が汗ばんでいくのが恥ずかしい。
手を放そうとすると、伊坂は強く握ってくる。
「あの…セリフは保留にはなりませんか…」
「だめ」
「この野郎…」
意外と強情だ。
こうなるともう腹をくくるしかない。
手をつないでいるのに何を言っているのかという状態ではあるが。
すぅっと肺いっぱいに空気を送り込む。
「…っすき!…だぁー…」
好き、と言った瞬間にまた花火が開いて、言い切るつもりが気が抜けてしまう。
なんとも情けない告白になってしまったと落ち込んでいると、握っている伊坂の手が震えた。
何かと思って顔を上げると
「……っく」
口元を手で押さえて小河に背中を向けていた。
「ちょっと待て笑ってるだろ!!」
「少し……ふっ」
答えたと思えば、また伊坂は顔をそらした。
恥ずかしさよりも何とも言えない怒りがこみ上げる。
まだ笑って震える肩を、軽く叩いた。
「ちょっと人生初告白!!」
「っくく…ごめん。好き」
重ねられた唇に驚く暇もなかった。
気付いた時には目の前に平然とした伊坂の顔があった。
「今キスした…よね?」くらいの感じだ。
「いや…なんだろう…。恥ずかしがる間もなく」
「もっかいする?」
「今日は遠慮する…」
わんこのように手懐けられると思っていたのは間違いかもしれないと考えを改め直す。
ある程度言う事を聞いてくれるのは策略なのか天然なのか測りかねる。
「あ、前髪上げてんの実は好き。……なので俺以外に見せないでください」
心が狭いと言われてもこれだけは譲れなかった。
回復の泉である伊坂が、そんな暴言を吐く訳もなく、従順に頷いた。
このあと間瀬から電話で「どこにいるんだ」と怒られ、小河たちの場所にやってきた間瀬と嵯峨野に「ようやくか」と呆れられた。
何なんだと言い返そうかと思ったら、その前に里美が目を輝かせて「詳しく!」と言うものだから花火を見る余裕もなく四人ではぐらかした。
告白し合ったところで四人でいると今までと全く変わらず、なんだかコレもいいなと思う。
けれど間瀬が伊坂は出店の手伝いで来れないことを知っているとあっさり吐いたため、肩を殴っておいた。
間瀬メインの話と小河メインの話が元々、別で書いてたのですが一緒くたにして載せちゃいました。
どちらかでも気に入っていただければ幸いです。
流動体のくだりとか、筆者がアホの子なので間違えていたとしても大目に見てください…。
最後までお付き合いありがとうございましたっ!