お役御免でございます、殿下
「クレア、婚約を解消したいのだが」
クレア・ヴァルデンは、ペンを止めた。
机の上には来月分の予算書が広げられており、インクがまだ乾いていない。王太子アルバートの私執務室は午後の光の中に静まり返っていた。入室を許可されたのが昼過ぎで、それから一時間、クレアはずっと書き続けていた。アルバートは別の書類を読んでいた。そういう午後が、この五年でずいぶん積み重なっていた。
だから告げられたとき、驚きはなかった。
アルバートが最近、侯爵家の令嬢に熱心に話しかけているという話は、侍女のアーナから聞いていた。宮廷の夜会にクレアが出席しない日が多かったのも、単純に仕事が忙しかっただけで、アルバートとの距離が遠ざかっていることには気づいていた。
「……承知いたしました」
返答は短かった。クレアは一度、ペンを置いた。
アルバートが続ける。補償の話、父王の許可が先日得られたこと、相手方への説明は自分が行うつもりでいること。声は穏やかで、申し訳なさそうでもあった。クレアはそれをきちんと聞いていた。
そして、手帳を取り出した。
「クレア、今——」
「引き継ぎの日程を確認しておりました」
アルバートが眉をひそめる。
「三日、いただけますか」
「……三日で、何を」
「財務書類が百冊ほどございます。交渉文書のドラフトが各国別に三冊。今月分の予算書はまだ未完ですので、仕上げてから引き継ぎます。三日では少々短いのですが、骨子だけであれば」
部屋の隅に控えていた側仕えの文官が、小さく息を吐いた。クレアはそれを聞き取ったが、特に気にしなかった。
「百冊……」
「はい。五年分ですので。月次ごとの資料と、部署別の収支記録と、交渉ごとの往復文書をまとめたものとで、大別すると三系統になります。索引はすでに作ってありますが、補注を追記しておいた方が後任の方には分かりやすいかと思いまして。なお、イェスナとの交渉が来月に期限を迎えますので、そちらの申し送りも別途しておく必要があります」
アルバートが口を開きかけ、閉じた。
「……分かった。三日、取る」
「ありがとうございます」
クレアは手帳にいくつかの項目を書き込み、ぱちりと閉じた。そして立ち上がり、一礼する。
「では、三日後に資料の一式をお持ちします。財務部の後任の方とも一度お時間をいただけますと、引き継ぎがより円滑になるかと思います」
「あ……ああ。リンダを呼ぼう」
「よろしくお願いいたします。失礼いたします」
扉が閉まった。
廊下に出たクレアは、少しだけ歩調を緩めた。窓の外、中庭の木が風に揺れている。午後の光が斜めに差していた。
(百冊の補注を三日、か。少し急ぐ必要がある)
クレアは歩き出した。
◇◇◇
公爵家の屋敷に戻ったクレアは、その夜から書斎に篭った。
財務部の原本は王宮に保管されているが、控えは実家にも揃えてある。自分が作ったものだから、どこに何があるかは把握していた。問題は「自分以外の人間が読んで理解できるか」という点で、そこが最も手間のかかる作業だった。
インクと羽ペンを新しいものに取り替え、手元の書類に注釈を書き始める。この数字がどこから来ているか。この項目がなぜここに分類されているか。来月に向けた注意点はどこか。五年間、頭の中にあったものを言語化していく作業は、思ったより時間がかかった。補注一つを書くたびに、自分がいかに多くのことを「当然のこと」として処理していたかが分かった。
「令嬢様、もうお休みになってください」
侍女のアーナが声をかけてきたのは、夜半を過ぎた頃だった。燭台の火が揺れ、部屋の隅が暗くなっていた。
「もう少し。今月の予算書の補注が終わっていない」
「……令嬢様は」
アーナが言いよどむ。クレアはペンを動かしながら待った。
「怒っていないのですか。あのお方が、こんな……」
「何に怒るの?」
「殿下が、その……新しい方のもとへ行くと……」
「ああ」
クレアはそちらを振り向かなかった。
「仕方ないでしょう。夜会より書類の方が面白いと思っている婚約者など、殿下も扱いに困ったはずです。それは私もそう思っていましたから」
「そんな、令嬢様がどれほど王宮のために——」
「アーナ」
短く遮った。
「三日後、私はアッシュフォード伯の辺境へ参ります。泣く時間があるなら、荷造りを手伝ってください」
アーナが固まった。
「辺境伯のところで財務を任せてほしいとの書状が届いております。給与条件も悪くありませんでした。王宮での手当の三倍ほど」
「さん……」
「それだけ帳簿が荒れているということでしょう。やりがいのある仕事です」
クレアはページをめくり、次の書類を手元に引いた。アーナはしばらく立ち尽くしていたが、やがて「……荷造りの、手伝いをします」と小さく言った。
◇◇◇
二日目の昼過ぎ、財務部三席のリンダが引き継ぎ説明を受けに来た。
若い女性で、真面目さが顔に出ている人物だった。クレアは彼女のことを良く知っていた。正確な仕事をする。ただし、独自の体系には慣れが要る。
「まず全体の構成を説明します」
クレアは箱を三つ並べ、それぞれを示した。
「一つ目が月次予算書の束。二つ目が各省庁の収支記録。三つ目が対外交渉の文書類です。それぞれ年度と用途で分類しており、巻末の索引から逆引きできるようにしてあります。今回、補注を全て追記しましたので、以前より読みやすくなっているはずです」
「……はい」
「交渉文書の中でも、来月に期限が来るものを特にご注意ください。イェスナとの毛織物取引の条件交渉です。先方が必ず削りに来る条項に赤い印をつけてありますので、その点は譲らないようにとお伝えください。交渉担当者への説明書も同封しています」
「分かりました……」
リンダの顔が、少しずつ青ざめていくのがわかった。
「これは全て……クレア様がお一人で?」
「大臣のお名前で提出しておりますが、実務は私が担当しておりました」
「五年間……」
「最初の三ヶ月が特に大変です。分類の体系に慣れるまでは、索引をこまめに引きながら進めてください。それと、ご不明な点があれば手紙でご連絡を」
「て、手紙……辺境から」
「返信は早くて二週間ほどかかります。急ぎの案件はお早めに」
リンダが乾いた声で「はい……」と言った。その手が、受け取った書類の束の上でわずかに震えていた。
クレアはそれを見て、最後にもう一言付け加えた。
「リンダさんならできます。あなたは数字の感覚が正確です。体系に慣れさえすれば大丈夫です」
リンダが顔を上げた。少し驚いたような表情だった。
「……ありがとうございます」
クレアは軽く頷いて、次の箱を引き寄せた。
◇◇◇
三日目の夕刻、クレアは最後の補注を書き終えた。
ペンを置いて、書斎を見渡す。棚の本は持っていく。引き出しの手紙は整理した。父に宛てた手紙は昨日出した。財務部の書類は明日渡す。残っているのは、明朝の着替えと、旅の荷物だけだった。
引き出しの一番上に、ロレン・アッシュフォード辺境伯からの書状があった。封はすでに一度開いており、内容は頭に入っている。
無骨な文字だった。文体も素っ気なかった。しかし条件は明確で、曖昧な言葉が一つもなかった。給与・業務範囲・住居・業務への干渉の有無。必要なことが過不足なく書かれており、余計な社交辞令がなかった。
クレアはそういう書き方を信用した。
婚約破棄の翌日、公爵家に書状が届いたとき、アーナは「また厄介な縁談の打診では」と顔をしかめていた。だがクレアが内容を読んで「行きます」と言ったとき、アーナは止める言葉を持てなかったらしい。給与の話をしたとき、その表情がさらに複雑になったことも覚えている。
仕事の条件が良ければ、行く。それだけのことだった。
書状を引き出しに戻し、立ち上がった。荷造りの残りをアーナに頼み、早めに眠った。
◇◇◇
翌朝、王宮を訪れたクレアは財務部の前でリンダに資料一式を引き渡した。
箱が三つ。ガレン大臣も廊下に顔を出し、「ご苦労でした」とだけ言った。クレアは「お世話になりました」と返した。それで十分だった。
廊下を歩いていると、角の先にアルバートが立っていた。
偶然ではなかった。そういう立ち方だった。
「クレア」
「殿下」
アルバートは少し間を置いた。
「……本当に行くのか。辺境へ」
「はい」
「急すぎないか」
クレアは少し首を傾げた。
「そうでしょうか。引き継ぎが終わりましたので、あとは出発するだけです」
「怒っていないのか……と、聞いてもいいか」
「怒る理由が見当たりません」
答えるまでに、間はなかった。
「殿下は正直にご決断されました。私は次の仕事が決まっています。お互い、よかったのではないでしょうか」
「……本当に、そう思うのか」
「はい」
アルバートは少しの間、クレアを見ていた。五年間、向き合ってきた顔だった。クレアはその視線を受け止めながら、特に何も感じなかった。怒りも、未練も、どこにも見当たらなかった。
アルバートが何か言いたそうにして、やめた。
「それと、交渉文書の件ですが」
クレアが続けた。
「来月のイェスナとの期限をお忘れなく。リンダ様に申し送りはしましたが、念のため。あの案件は先方が強気に来ますので、条件の第三項は絶対に下げないようにしてください」
アルバートが目を細めた。
「今この瞬間まで、そのことを気にしていたのか」
「気になっていましたので」
「……そうか」
クレアは一礼した。今度こそ廊下を歩き出す。
背後でアルバートが何か言いかけたが、声にはならなかった。クレアは振り返らなかった。
◇◇◇
王都の門を抜けた馬車の中で、クレアは窓の外を一度だけ見た。
カルデナの城壁が遠ざかっていく。五年、通い続けた場所だった。石造りの門楼が陽光を受けて白く光っていた。
特に何も思わなかった、というのは正確ではない。ただ、言葉にしようとしたとき、うまく形にならなかった。五年分の記憶があって、仕事があって、それが終わった。それだけのことだった。アルバートのことも、財務部のことも、もう自分が心配しなくていい話になった。
クレアは新しいメモ帳を開いた。最初のページに「着任後・確認事項」と書いた。
二行目に「帳簿の現状確認」。
三行目に「担当者への聞き取り順序」。
四行目に「横領リスクの確認方法」。
アーナが窓の外を見ながら泣いているのが分かった。クレアは何も言わなかった。人が泣くとき、言葉をかけても仕方がないことの方が多い。
馬車が揺れる。城壁はもう見えなかった。
アッシュフォード領まで、馬車で五日かかると聞いていた。クレアはメモ帳を一度閉じ、膝の上に置いた。窓から外を見る。王都を離れるにつれ、建物が減り、木が増え、空が広くなっていく。
悪くない景色だ、とクレアは思った。
◇◇◇
婚約解消から、二ヶ月が経った。
アルバート・レガーナは財務会議の席で、初めて沈黙した。
ガレン大臣が配布した月次資料には、数字はあった。ただし根拠が書いていなかった。前月比のグラフはあった。ただし出典の記載がなかった。資料の体裁は整っているが、何かが足りない。何かがずれている。
「この予算の算出根拠は」
「……申し訳ございません、ただいま確認を」
リンダが小声で応じた。隣の文官が何かを探し始めた。
「クレア様の整理体系に……その、慣れるまでにまだ時間がかかっておりまして」
「慣れるまで、というのは」
「独自の分類が非常に精緻で、索引を引かないと関連書類が特定できない箇所がありまして……」
アルバートはそれ以上聞かなかった。
会議の後半、外務部の担当者が立ち上がった。イェスナとの毛織物交渉について、先方が返答を待っている状態が二ヶ月続いており、強い不満を示し始めているという報告だった。
「こちらからの条件提示が遅れております。ドラフトの作成が……難しい状況で」
「なぜだ」
「これまで担当してくださっていた方がおられなくなりましたので……」
担当者が言葉を選んで止まった。アルバートは「分かった」と短く言い、次の議題へ移った。
会議が終わり、執務室に戻る。机の前に座って、窓の外を見た。中庭の木が揺れている。
思い返せば、交渉の案件はいつの間にか資料が揃っていた。財務会議の前夜には必ず書類が届いていた。外務部から連絡が来ると、翌日にはドラフトが出来上がっていた。誰が作っているかを、きちんと確かめたことがなかった。クレアがいる間は、何もかもが静かに動いていた。
あれは誰がやっていたんだ、と今更聞いても遅い。リンダは「クレア様が」と言った。ガレン大臣は目を逸らした。外務部の担当者は言葉を選んだ。誰もが知っていたのに、アルバートだけが見ていなかった。
それが分かったところで、何も変わらない。
そこへ、使いの者が私信を一通持ってきた。
差出人を見た瞬間、手が止まった。
クレア・ヴァルデン——ではなく、クレア・アッシュフォードと書いてあった。
封を開くと、短い文が入っていた。
「お世話になりました。このたびロレン・アッシュフォード辺境伯と婚約いたしましたことをご報告申し上げます。在任中のご厚誼、誠にありがとうございました。どうかご健勝にてお過ごしくださいませ。
クレア・ヴァルデン(近日中にアッシュフォードと改めます)」
アルバートはしばらく、手紙を見ていた。
次の言葉を探した。ない。窓の外を見た。手紙を、机の端に置いた。
それだけだった。
◇◇◇
アッシュフォード領に着いてから、一ヶ月が経っていた。
クレアの執務室は南向きで、夕方になると斜めに光が差し込む。石造りの窓枠から見える景色は、王都とは違う。山が近く、空が広い。風の音がする。
今日も帳簿を広げたまま、日が傾いていた。
「まだやってるのか」
扉を叩く音と同時に、ロレン・アッシュフォードが顔を出した。茶と、簡素な焼き菓子を持っていた。
「もう少しで特定できます」
「何を」
「横領です」
ロレンが部屋に入り、机の脇に立って資料を覗き込んだ。
「……どこだ」
「ここの数字と、この仕入れ伝票を照合すると、毎月一定の差額が出ます」
クレアは二枚の書類を並べた。
「この列の数字が、ここより継続して少ない」
「五年前からか」
「三年前からです。担当者の交代時期と一致しています。明日、該当の人物を呼んで話を聞けば、はっきりすると思います」
ロレンが低くため息をついた。それから、机の端に茶碗を置いた。
「来てもらって、よかった。本当に」
クレアは帳簿から目を離さないまま、
「私もです」
と言った。
一瞬の間があった。
「それは……仕事が、ということか」
「……どちらにも、です」
短い沈黙が落ちた。
クレアは、自分の頬がわずかに熱くなったことに気づいていた。それを気づかれないよう、帳簿に視線を戻した。ペンを持ち直す。次の列を確認する。
ロレンが静かに笑う気配がした。
「茶が冷める前に飲め」
「……はい」
クレアは茶碗を手に取った。一口飲む。温かかった。
窓の外では、山の稜線に夕暮れの色が広がっていた。赤みがかった光が石の床に伸びてきて、帳簿の端を照らしていた。
「明日、その担当者を呼んで話を聞く」
「はい。それまでに証拠の整理を終えておきます」
「……急がなくていい。今日はもう終わりにしろ」
クレアはロレンを見上げた。
「でも横領の——」
「逃げない。明日でいい」
短く、はっきりした言い方だった。
クレアはしばらくロレンを見ていた。それから書類を揃え、帳簿を閉じた。
「分かりました」
机の上を片付けながら、クレアは思った。
怒ることも、恨むことも、なかった。王都を出るとき、失ったものの大きさより、これから何をするかの方が気になっていた。それは今も変わらない。この帳簿も、この仕事も、この場所も、自分の力でちゃんと動いている。
それで十分だった。
「令嬢」
ロレンが扉の脇に立ったまま言った。
「アッシュフォードの財務が、ちゃんと動くようになったら」
「はい」
「もう少し、別の話をしたい」
クレアは振り返った。ロレンは窓の外を見ていた。少し耳が赤いような気がしたが、夕暮れの光のせいかもしれなかった。
「……はい」
クレアは小さく答えた。
ロレンがこちらを向いた。いつも通りの、無骨で飾り気のない顔だった。それがどういうわけか、ひどく安心できる顔だった。
「急がない」
「はい」
「急がなくていい」
そう言ってロレンは扉から離れ、部屋を出ていった。廊下に足音が遠ざかっていく。
クレアはしばらく、閉まった扉を見ていた。それから窓の外に目を向けた。
山に、日が沈んでいった。空の端がゆっくりと赤から紫に変わっていく。王都では見えなかった色だった。
クレアは机の上の茶碗をもう一度手に取った。すっかり冷めていたが、それでも飲んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本作は短編シリーズ「令嬢の軌跡」の一作です。
それぞれ独立した物語ですので、どこから読んでいただいても大丈夫です。
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