第82話「守って破って離れて」
源二が麻婆豆腐丼を乗せたスプーンを口に運んでいく様子を、ヨシロウとアンノは緊張の面持ちで眺めていた。
口に入れられた麻婆豆腐をもぐもぐと咀嚼し、飲み込んだ源二の顔が明るく輝く。
「へえ、すごい。こんな味か!」
そんなにもうまいのか、とヨシロウは源二に続き、オヤコドンを口に入れた。
甘みが強めの、甘辛い卵が鶏肉を包み込んで口の中に広がっていく。
「——ふむ」
一口目を飲み込み、ヨシロウが低く唸る。
「あ、なかなか行けますねこれ」
アンノもカレーを一口食べて感心したように声を上げた。
「でも——」
「ゲンジの料理に比べたら全然だな」
アンノとヨシロウの見解は同じだった。
源二が嬉しそうに食べているのでそんなにもうまいのか、と警戒しながら食べたが、源二が作るオヤコドン、カレーには遠く及ばない。
どうして源二はこんなに嬉しそうにしているのだろうか、それともこんなもの「食事処 げん」の敵ではないと思ったとでもいうのか、と二人は源二の見解を待つ。
「これは新しいよ。無理に『げん』に近づけようとしてないところがいい。それでいて、本来の料理の軸となる味をちゃんと捉えてる。これは流行るよ」
「お前はこんな味でいいのか? 確かにお前が再現した元の味には近いかもしれないが、それでも全然違うだろ」
普通、ここは怒るところだろと思いながらもヨシロウが尋ねる。
すると源二は「んー?」と首をかしげて見せた。
「いや、別に俺の味を再現しろとは思ってないよ。むしろ再現されてたほうがキレたと思う」
「なんでだよ」
源二の理屈が分からない。
口ぶりから察するに「おいしくないから『げん』の敵ではない」という考えではない。しかし、ヨシロウからすればベジミール社の新商品は「おいしいことはおいしいが源二の味ではない」から「劣化したものを作りやがって」という感情になる。
ところが源二は新商品に対して完全に好意的な感情を持っていた。ベジミール社は敵であるはずなのに「これは流行る」と認めているうえに「再現されたらキレた」と言う。
もうかなりの期間共に生活していたのに理解できない源二の思考に、ヨシロウは「まだまだ源二に対する理解が足りないんだな」とふと思った。
「いいかヨシロウ、」
麻婆豆腐丼を食べながら源二が言う。
「俺は俺がいた時代の料理の完全再現は求めていない。この時代に必要なのは『新しい食事体験』なんだ」
「その二つ、どういう因果があるんだよ」
旧時代の料理の完全再現と新しい食事体験、この二つのつながりが分からない。というよりも今では完全に消え去った本来の味を楽しめることこそが新しい食事体験なのでは、と思う。
いいや、とヨシロウの言葉に源二が答える。
「お前が考えてることは分かるぞ。味の完全再現こそ新しい体験って思ってるだろ」
「まあな」
「でもな、昔の味を再現したところでそれは昔の追体験であって新しい体験じゃないんだよ。この時代にはこの時代なりの新しい味が必要だ」
この時代なりの新しい味、とヨシロウが反芻する。
「俺は古い人間だから、まず実際に存在するものを再現して扉を開いた。いきなり新しい味を作ってもよかったかもしれないが、そこは守破離ってものがあるからな」
「守破離……」
聞いたこともない言葉にヨシロウとアンノが首をかしげる。
「まぁ、俺の時代の職人によく言われてた言葉だよ。『型を守り』『それを破って応用し』『型から離れて新たな型を作る』。俺はこの守破離って言葉が好きだから自分でも守ってるだけだ」
「じゃあ、今のお前はどの段階にいるんだよ」
守破離がどういうものかはなんとなく分かった。それなら源二は今どの域に達しているというのか。
純粋な興味だけで尋ねると、源二は苦笑して言葉を続ける。
「自分で言うのもおこがましいが、『破』じゃないかな。本来の料理という型を守っていたからこそ味覚投影オフという型破りをできた、って感じだ」
「なるほど」
ヨシロウが納得して引き下がる。
源二の言うことは理解できた。今では機械やAIによる大量生産が当たり前になっているから職人というものはごくごく一部の変わり者という称号になりつつあるが、ヨシロウもハッカーとしてのこだわりがあるから守破離の概念は納得できる。
源二にとっては料理が守るべきものであるように、ヨシロウはハッキングがそれに当たる。
はじめは基本に則ってシステムを理解し、それを応用して例外を打ち崩し、最終的には自分なりのハッキングルートを編み出す——まさに守破離だ。
同時に、源二はベジミール社に守破離の概念を押し付ける意思がないということも理解した。
守るべき伝統がないからこそ、ベジミール社が新たな伝統の先駆けになることを期待しているのだ。
そう考えると、源二の言い分が分かってきた。
源二が作り出している料理は伝統の再現かもしれないが、ベジミールはこの時代の新たな伝統を作り出した、だから源二はそれに期待しているのだ、と。
「まぁ、だからと言って楽観視はできないけどな。こいつで満足する人間もいるだろうし、逆にここから『げん』の料理に興味を持つ人間が出るかもしれない」
「お前としては棲み分けができる、という感じか」
源二の思考の広がり方にただただ驚くしかできない。
ヨシロウもアンノもただ「このままでは『げん』がベジミールに食われる」か「ベジミールなんて敵じゃない」かのどちらかに傾くと思っていた。
ところが源二はそうではなく、「食事処 げん」もベジミール社も共存できる道を見出している。
「そうだな。まぁ、多少は『げん』から離れる客もいるかもしれないが、味が完全に競合してないからむしろ選択肢と入り口が増えたってことで味覚投影オフに興味を持つ人間は増えると思う」
「え、じゃあタイショーは逆にビジネスチャンスって思ってるんですか?」
アンノの驚いた声に、源二はもちろん、と頷いた。
「だって俺がまだ成し遂げていない、『味覚投影オフ』の全国展開を果たしてくれたんだぞ? これなら場合によっては日本全国からうち目当ての客が来るぞ」
「うまくいくといいんですけどねえ……」
あくまでも消極的な意見のアンノに、源二はうまくいくさ、と答えて見せた。
「そうなると早速全国的に宣伝を打つ算段を立てる必要があるな。ヨシロウ、ニンベン屋を動員だ」
「あいよ」
こうなるともう源二は止められない。
ベジミール社としては明らかに「食事処 げん」を買収すべき対象、応じないなら倒すべき敵として認識しているはずなのに、源二は全く意に介していない。むしろベジミール社の施策を自分の商機と捉えて動こうとしている。
職人でありつつ商人、先行者でありつつ後続だけに利益を与えない、そんなしたたかさに、この一か月不安を抱え続けていたヨシロウも心の荷が下りたような気がした。
源二ならきっとうまくやる、ベジミール社と戦うのではなくうまく利用してのし上がる、そんな予感に自分もできる限りの協力をしよう、と考える。
だが、そう考えてからヨシロウは「待てよ」と自分の考えに歯止めをかけた。
「おいゲンジ、」
ふと気になったヨシロウが源二に声をかける。
「ん? どうした?」
「もし、全国へのアピールがうまくいって客が増えた場合——今の店舗も狭くなったり人手が足りなくなったりしねえか?」
「あー……」
そこまで考えていなかったのか、ヨシロウの指摘に源二が間の抜けた声を上げる。
「そういやそうだな。またすぐに手狭になる可能性もあるのか」
「どうすんだよ、流石に今度はチェーン展開ってことにならねえか?」
今回の移転も、チェーン展開という選択肢もあったのにそれを選んでいない。
しかし、全国の人間が客になる可能性を考えるといつまでもトーキョー・ギンザ・シティに一店舗だけを構えていることも難しくなってくる。
「うーん……」
ほんの少しだけ、源二が考え込む。
「ま、それはその時でいいんじゃないか? ベジミールの新商品が呼び水になって客が殺到するという保証はないし。俺の話はあくまでもそうなってほしいな、という楽観的希望だ」
「うわ、こいつ逃げやがった」
確かに捕らぬ狸の皮算用かもしれないが、考えられる可能性はピックアップしておくに越したことはない。
それを丸投げした源二をヨシロウがじとーっとした目で見ると、源二は苦笑して手を振った。
「冗談。流石にその時はチェーン展開も考えるよ。というか、チェーン展開を考える時期になったのかもしれない」
源二も分かっている。ビジネスチャンスを最大限に活かすにはチェーン展開するしかないということを。
とはいえ、本当にビジネスチャンスとなるのかどうかはまだ分からない現状、チェーン展開を視野に入れつつベジミール社の今後の動きを見るしかない。
「『げん』がチェーン展開ですか……夢、ありますねえ」
アンノがスプーンを咥えたままうっとりと呟く。
「もしチェーン展開が叶ったら、俺、全国『げん』巡りしてみたいっす」
「叶ったらな」
ほら、早く食えよ、とヨシロウがアンノを小突き、アンノも「急かさないでくださいよー」と言いつつ残りのカレーを口に運んだ。




