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PREFER-TATION RUNNERS -嗜好と思考のコンフリクト-  作者: 蒼井 刹那
第1章「山野辺源二という男」
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第1話「山野辺源二の苦難」

 夜も更け、もうすぐ終電もなくなろうかという時間。

 切れかけた街灯の明かりの下を一人の疲れ果てた男がとぼとぼと歩いている。

 

「今日もこの時間か……。最近、残業ばかりで疲れた……」

 

 はぁ、と男——山野辺(やまのべ)源二(げんじ)が立ち止まり、ため息を吐く。

 

 あの新型ウィルスの流行以来、源二の生活は大きく変わった。

 レストラン開業を夢見、修行のために働いていた店が営業制限からそのまま閉店してしまったのが一番の原因だ。一応は協力金なども出ていたらしいが、それでも経営は難しいと判断した店主は閉店を決断、源二も職を失うことになった。

 

 それからは必死で再就職先を探したもののかねてからの不況で三十歳を過ぎた源二はなかなか採用されることもなく、ようやく採用してくれた会社はブラック企業。固定残業代は出るものの基本給は低く、固定残業代以上の残業を強いられる月の方が圧倒的に多い。上司は昭和気質の体育系で怒鳴る、物に当たるは当たり前、しかし労働基準監督署へ駆け込む余裕すらない毎日。

 

 正直なところ、源二はこの仕事を今すぐにでも辞めたかった。だが、辞めたところで次が見つかるはずもなく、長引いた就職活動でレストラン開業資金のためにと少しずつ貯めていた貯金も底をついてしまった。生きるためには辞めるにも辞められない、家と会社を往復するだけの日々。

 

「……嘆いていても仕方ない、今日も行くか」

 

 そんな源二にも、一つだけ楽しみがあった。

 今日も行くかと決めた瞬間、源二の足取りが少しだけ軽くなる。

 

 薄暗い住宅街を抜けると、夜遅くなのに未だに活気のある商店街が見えてくる。

 夜なので多くの店舗はシャッターを下ろしているが、近くに歓楽街がある影響か、飲食店はまだ営業を続けている店の方が多かった。

 

 その中の一つ、とある立ち食い蕎麦屋に源二は足を踏み入れた。

 

「大将、やってる?」

 

 暖簾を掻き分け源二が店の中に入ると、それなりに高齢の店主が「開いてるよ!」と景気よく答える。

 

「山菜一つ、かき揚げととり天もよろしく!」

 

 源二が券売機で食券を買いつつも「いつもの」注文を口にすると、店主も「あいよ!」とそば釜に麺を放り込む。

 その間に、源二は様々な客がそばを啜るカウンターの隅が空いていたのでそこに身を滑り込ませた。

 

 隣にあるウォーターサーバーからセルフサービスで水を汲み、一口飲んだところで熱々の山菜そばと天ぷらが盛られた皿が目の前に差し出される。

 

 割り箸を割り、源二は一口、そばを口にした。

 まず、鰹の効いた出汁が口の中に広がり、続いて手打ちそば特有の、挽きたてのそばの香りが鼻を抜けていく。山菜は大抵の店なら水煮をそのまま乗せる場合が多いが、この店は山菜の味付けにもこだわっているのか、出汁が効き、仄かに甘辛く味付けされている。この味付けがそばの汁に混ざり、深みを増している。こんな深夜にも営業するような店だとそばも手打ちではなく機械打ちの方が多そうなものだが、この店は丁寧にも手打ちでそばを作っているようで、一口食べればそのそば粉の香りが香り高く口の中に広がっていく。

 

 ほう、と源二が息を吐く。

 この店のそばは、いや、この店は源二にとって癒しだった。どれだけ疲れていてもこの店に入り、そばを食べると疲れが吹き飛んでしまうような錯覚を覚える。そばの味もさることながら店主や常連客の温かさが身に染みる、それがこの蕎麦屋だった。仕事に疲れてボロボロになり、どうでもいいと思いながら偶然踏み込んだこの店は源二を優しく包み込み、癒してくれた。いくら朝早くても夜遅くても、この店は温かく源二を迎え入れてくれる。

 

 この店は早朝から深夜まで、客が少なくなる時間を閉めてそれ以外の時間を営業時間とする営業形態を取っている。だから店主が休息をとる時間はあるといえばあるのだが、一体いつそばを打っているのか、いや、休んでいるのかと思いたくなるほど店主は働いている。

 以前、店主に訊いてみたもののそこは「企業秘密」と笑われて謎のままだが、このそばの味はいつ来ても変わることはなかった。

 

 しかし、何口かそばを啜って、源二はふと違和感を覚えた。

 そばの味に変わりはない。しかし、出汁の香りがいつもと違うような気がする。

 まるで、使っている鰹節が違うような——。

 

「大将、鰹節変えた?」

 

 思わず、源二は店主にそう尋ねていた。

 源二の質問を聞いた瞬間、店主が「あちゃー」と言いたそうな顔をする。

 

「やっぱ源さんには分かるか。いつもの鰹節を切らして、でもそばは打ってあるから家で使ってる鰹節を使ってるんだ」

 

 家のやつもいい本枯れだぞ、と言い訳する店主に、源二も満足そうに頷いた。

 

「ああ、まずいとかそんなんじゃないんだ。この香り、大将がこだわり抜いて選んだ感じがするから」

 

 家で使うものと店で使うものが同じということはあまりないだろうが、店主は家で使う鰹節もこだわっていて、こだわっているからこそ代わりで使用しても問題ないと思ったのだろう。

 それが分かっているから源二も「味が落ちた」とは一切思わなかった。むしろ、店主のこだわりを感じることができて、幸せすら覚える。

 

 ああ、こんな店を持てたらよかったのに、と源二はふと思った。

 源二が料理人を目指したのはひとえに常人に比べて鋭く繊細な鼻と舌を持っていたからである。その味覚と嗅覚から源二は料理に魅入られ、料理の世界に踏み込みたいと思っていた。

 尤も、件の新型ウィルスのせいで今はしがない社畜であるが。

 

 作り置きされているはずなのにサクサクの衣のかき揚げととり天も平らげ、そばの汁もその最後の一口を胃袋に収め、源二は満足そうに腹を叩いた。

 

「ごちそうさん。今日もうまかったよ」

 

 そう言い、源二は店の外に出た。

 夜遅くまで開いているこの店があるから、源二は頑張ることができている。

 

 今は生きるだけで精一杯かもしれないが、いつかは自分も店を構える側になって人々に温かい料理と笑顔を提供したい、そんなことを考えながら帰路に就く。

 

 一度は夢を諦めた源二ではあったが、夢自体完全に諦めたわけではない。いつかは、どこかで、小さくてもいいから人々が笑顔で帰ることができるような店を作りたいという思いが源二の胸をちりちりと焦がす。

 

 どうしよう、なんとか融資を受けて開業してみようか、そんなことを考えながら源二は出汁の香りを思い出す。

 

 いつもの出汁も、今日の出汁も、どちらも源二にとって特別な存在だった。

 店主の「温かくておいしいそばをすぐに提供したい」という気持ちがひしひしと感じる、ただ身体を温めるだけではなく心まで温めてくれるような、そんな夕食に明日も頑張ろうという元気が出てくる。

 

「……あのそばを食べるためだったら……明日も頑張りますかね」

 

 いつかは自分の夢を叶えるための力を付けるために。

 そう、自分自身に喝を入れ、自宅へ向かい始める。

 

 商店街を出て、交差点に出た時だった。

 横断歩道に出た源二を、突然ハイビームが襲う。

 

「!?」

 

 真横から突然眩しい光で照らされ、源二は思わず足を止め、目を庇うように腕を持ち上げた。

 一台の乗用車が真っすぐ源二に向かって突っ込んでくる。運転手は眠っているのか、それとも飲酒運転で正常な判断力を失っているのか。ブレーキ音も聞こえなかったので運転手はアクセルを踏み込んだままかもしれない。いずれにせよ、本来なら停止するはずの車がスピードを落とすことなく源二に迫ってくる。

 

 源二が横断歩道に出た時、信号は青になっていた。

 それなのに横から車が突っ込んでくるとは、これは明らかな信号無視。

 

 危ない、と思うものの大音量で鳴り響くクラクションに足が竦んで動けない。

 脳内を駆け巡るのは走馬灯だろうか。料理人を目指して修行していたころの思い出や幼い頃に両親に初めて作った料理を振舞って褒められた時のことが映像になって脳裏を駆け抜けていく。

 

——ああ、そういえば俺が料理人になりたいって思ったのは両親が俺の料理をうまいと言って食ってくれたからだっけ——。

 

 そんな思いが胸を過り、同時、視界をまばゆい光が覆いつくす。

 俺の人生はここまでなのか、せめて、両親に俺の店で俺の飯を腹いっぱい食わせたかったな、という諦めにも似た感情が源二の心を覆いつくし——。

 

 

「——っ!」

 

 目が、覚めた。

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