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第105話「「本物」の心は」

 ニクジャガを一口食べ、飲み込んだケントの頬を何かが伝った。

 

「え——」

 

 箸を持っていない方の手で、ケントはそれを拭う。

 指先で光る透明な液体。

 透明な液体は止まることなく次から次へと流れ、顎を伝ってテーブルに落ち、テーブルクロスを濡らす。

 

「そんな、私が、泣いて——」

 

 ケントが源二を見る。源二は何も言わない。

 だが、そのまなざしは穏やかなもので、決してケントを跪かせよう、や打ち負かそう、といったものではなかった。

 

 鼻をすすりながらケントがニクジャガをもう一口食べる。甘味と塩味、そこに出汁や素材の甘みが複雑に混ざり合った味が喉を通り過ぎていく。

 同時に、自分の中にあった勝利への執着も溶かされ、腹の中へ落ちていく錯覚を覚える。

 

「おふくろの味……」

 

 ニクジャガを食べながら、ケントはぽつりと呟いた。

 プリントフードが当たり前の世界で、本物の食材を使って料理ができる人間と言えば腕を義体化した専門の料理人だけ。当然、ケントの母親が自分の腕を切り落としてまで料理をすることはなく、ケントは料理人が作った料理だけを食べて育ってきた。

 

 それなのに、源二が作ったニクジャガは何故か母親の存在を思い出させた。

 政略結婚で、ただ跡取りを生むためだけに嫁ぎ、ケントを産み落とした後用済みとばかりにどこかへ消えた母親の顔などケントは覚えてすらいない。

 それでも、母親がいたらこのニクジャガを作ってくれたのではないか——そんな錯覚を覚え、ケントはミソシルの椀を手に取った。

 

 一口すすると塩味の効いた温かい液体が喉を通りすぎ、身体を内側から温めていく。

 いや、身体だけではない。効率を重視し、冷え切り、凍り付いた心を溶かしていく。

 

「これが、無駄の効果……」

 

 張りつめていた心が溶かされ、不思議な安心感が全身を包み込む。

 もう気張らなくていい、生きたいように生きればいい、そう言われた気がして、ケントはそこからは無言で源二の料理を口に運んだ。

 

 得られなかった母親の温もり、自分のためだけに用意された、当たり前なのに特別な感情、そしてそれを誰かに分け与えたいと思う心——。

 

「……ヤマノベさん、」

 

 最後の一口を食べ終え、ケントは源二に声をかけた。

 

「ニクジャガはこれだけですか?」

「? いえ、まだたくさんありますよ?」

 

 おかわりですか、と尋ねる源二に、ケントは首を振った。

 

「このニクジャガを——ここにいる全員に」

 

 これを一人で全部食べるのはもったいない。せめてこのフロアにいる全員とこの味を共有したい。

 今までこんなことを考えたことすらなかったのに、この料理だけは全員で分かち合って楽しみたい、とケントは心底思った。

 

「——ええ! もちろんです!」

 

 源二が明るく笑って厨房に戻る。

 数分後、大鉢に盛られたニクジャガがテーブルの中央に置かれ、料理人たちは小皿を手にテーブルに集まっていた。

 

「もしかしておたくさんら、本物の肉じゃが食べたことないだろ? だったら一度は経験しとけってもんですよ」

 

 源二が料理人たちの皿に肉じゃがを盛りつけていく。

 全員に行き渡ったところで、ケントは立ち上がって料理人たちを見た。

 

「これが『本物』の料理です。心して味わってください」

 

 まさかケント自らそんなことを言うとは思っていなかった料理人たちが戸惑いながらもニクジャガを口にする。

 直後、食堂内を静かな波が通り過ぎた。

 

「……これが……」

「本物の、味……」

 

 ケントに料理を提供するうえで、自分たちが作る料理の味は経験していたからこれが初めての本物の食材でできた料理というわけではない。

 だが、この味は料理人たちが経験したことのないものだった。

 

 醤油、砂糖、みりん——和食の基本の味付けだから経験はあるはずなのに、一度も味わったことのない味。

 一口食べるごとに味と共に温かい感情が心に満たされていく。

 ケントが言った「本物」の意味がこのニクジャガには全て詰め込まれていた。

 

 料理とはただ技術だけではない、相手に楽しんでもらいたいという想い、健康でいてほしいという願い、幸せになってほしいという祈り——それらすべてを合わせて「料理」と言うのだと、料理人たちは思い知る。

 

 今ではただ生命維持の手段として行われている食事に、昔はこんなに重い意味があったのかと気づき、今までの自分たちの料理がいかに表面だけをなぞった軽いものだったのかと恥ずかしくなる。

 

 特にニクジャガはかつおや昆布から引いた出汁を使っていない。確かにかつおや昆布も原料に含まれているがアミノ酸や酵母から抽出したエキスなどを混ぜ合わせた顆粒だしを使って出汁を引く手間を省略している。それなのに、「手を抜いた」という感じは全くしなかった。手順を省略しているのに、その分料理としての重みを感じた。

 

 それを感じられたのは料理人たちも自分の手で食材を調理するという経験があったからかもしれない。フードプリンタで当たり前に出力された料理を食べている人間には気づけないものだったかもしれない。

 

 それでも、このニクジャガは今まで食べたどの料理よりもおいしく、温かかった。

 

 これが本物の料理人、と料理人たちが尊敬のまなざしで源二を見る。

 

「おいしいです」

 

 誰が口にしたのだろうか、その言葉を皮切りに料理人たちが源二を取り囲み、口々に言葉を投げかける。

 

「こんな料理、食べたことない」

「顆粒だしなんて手抜きの食材だと思っていたのに!」

「生身なのに、調理が完璧すぎて尊敬します!」

「でも——すごく懐かしい」

 

 初めての味なのに、心の奥底から湧きおこる懐かしい感覚。故郷を思い出させる——郷愁。

 料理を口にしただけでそんな感覚に陥ることができることに、料理人たちの興味は尽きなかった。

 

 料理人たちもただ作業として料理を作っていたわけではない。ミスは許されない、そういうプレッシャーはあったがケントにおいしく食べてもらいたいという気持ちは確かにあった。

 しかし、源二の料理は料理人たちのその感情をはるかに上回っていた。ケントに対してだけではなく、食べた人間すべてを包み込む——愛。

 

 この時代では無駄の極みと思われていた感情が、食べる人間を癒していくことに、もう誰も無駄とは言うことができなかった。

 

「ヤマノベさん、貴方の料理に対する姿勢は本物です。そして料理とは——たった一口食べただけで、こんなにも人間を温かくすることができるんですね」

 

 ケントが源二の前に立ち、片手を差し出す。

 

「完敗です。貴方に本物を見せてみろと言った時点で私の負けは確定していましたが、ここまで完膚なきまでに叩きのめされて立ち上がろうとするのはただの負け惜しみです。貴方の覚悟、料理に対する想い、食べる相手に対する敬意、その全てが——今の人類に必要なものです。それを、確かに実感しました。いや——」

 

 そこまで言って、ケントは一度言葉を区切る。

 

「貴方がどうやってこの時代に迷い込んだのかは私にも分かりません。ビッグ・テック社の実験の結果と言ってしまえば一言ですが、そんな簡単に済ませられるものではない気がします」

「それは——」

 

 ケントの言葉に源二がほんの少し顔を強張らせる。

 源二がタイムスリップした人間であることをケントが気づいていてもおかしくはない。メガコープ同士スパイを送り込んでいるだろうし、その結果ビッグ・テック社が突き止めたことをベジミール社が知っていても不思議ではない。

 それでも、ケントの言葉に少しだけ身構えてしまう。

 

「貴方がこの時代に来ることは必然だったのかもしれません。運命とか、オカルトなんてと笑われるかもしれませんが……貴方はこの時代に火を灯すために来るべくして来たのかもしれない、と」

 

 情報と機械という冷たさが当たり前となったこの世界で、料理という炎で人々の心を温め、立ち上がらせるために源二はこの時代にタイムスリップしたのだと、ケントは何となくだが確信していた。

 

 偶然と言えば偶然かもしれない。だが、源二が調味用添加物を使ってかつての味を取り戻したことで、人々の心に火が付いた。

 

 それは警備隊からの報告でもう把握している。

 

「貴方はたった一人で数百人の心を動かした。聞こえるでしょう、彼らの叫びが。貴方を返せという咆哮が、このビルを揺るがしている」

 

 そう言われて、源二は床がかすかに揺れていることに気が付いた。

 地震というほどのものではない。だが、明らかに震えている床に、先ほど聞こえたような気がした叫びを思い出す。

 

 源二を取り戻したいという人々は高層ビルを揺るがすほどに集まり、戦っている。

 たった一人の人間のためだけに、何人もの命が犠牲になることをいとわず、強大な力に牙を剥いている。

 その事実に、源二は自分を過小評価していることに気付かされた。

 

 ——この時代に、火を灯す。

 

 今、はっきりと見えた源二の役割。

 

「ベジミール社は今後『食事処 げん』を全面的にバックアップします。吸収合併ではなく、支援という形で全国に料理の温かさを伝えたい」

「ホウライさん……」

 

 ケントの宣言に、源二は背筋が伸びる思いで頷いた。

 新しい時代を作る、その第一人者として責を負う——。

 それが自分に課された使命だというのなら、全うする。

 差し出されたケントの手を握り返し、源二はもう一度大きく頷いた。

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