09S.安達盛長公と北条時政公
「安達盛長公」とは、平安時代の終わり頃に、平治元年(1160年)の「平治の乱」に敗れ「伊豆国」に、流罪と成った「源頼朝公の従者」として、仕えて居ました。また「頼朝公の挙兵時」には「各地の坂東武士団の招集」に当たり「鎌倉幕府の樹立」に、尽力しました。そして「盛長公」は「京都の公家」とも、深い繋がりを、持っており「藤原氏の末裔」を、称しました。
「盛長公の出自」は「藤原魚名流」と、言われました。この「魚名公」とは「藤原北家で、房前公の5男」でした。また「盛長公の妻」は、頼朝公の乳母で有る「比企の尼」の長女を、娶りました。その娘は「盛長公の嫡男・景盛公」を、生みました。そして「比企一族も藤原北家」で有り「平将門公」を、討取って、名を上げた「藤原秀郷公の末裔」と、言われました。
また「盛長公の孫」の「安達義景公」の娘が「宇都宮氏の第7代当主・景綱公」に、嫁ぎ「第8代当主の宇都宮貞綱公」を、産みました。この「貞綱公」は「下野岡本氏」の先祖に当るので、安達盛長公も、同じく「下野岡本氏の先祖」と、成りました。
「源頼朝公」には「乳母が3人」居りました。筆頭格が「比企の尼」で有り「寒河の尼」は「宇都宮氏・第2代当主・宗綱公の娘」でした。他に「山内の尼」と、呼ばれる乳母も、居りました。特に比企の尼は、20年間「頼朝公」に、米を送る等して、仕送りを、続けました。また彼女には「3人の娘」が、居て「娘婿(盛長公等)の3人」には「頼朝公への奉仕」を、命じて居ました。
また「比企の尼」には、男子が無かったので、彼女の甥で有る「比企能員公」を、自分の後継としました。この比企の尼は「頼朝公」からの信頼が、厚かった為に、彼女の後継で有る「能員公の娘」を「頼朝公の嫡男・頼家公の嫁」として、迎えました。しかし「比企一族」は「北条時政公」の焦りから、頼朝公亡き後に、粛清されました。
「比企一族」が、粛清されると「比企の尼」の長女が、母親で有る「盛長公の嫡男・景盛公」は、自分の娘を「3代執権・北条泰時公」の嫡男に嫁がせ「4代・5代執権」を、産みました。また「第4代・安達泰盛公」は、歳の離れた妹を「8代執権・北条時宗公」の元に、嫁がせて「9代執権・北条貞時公」を、産みました。
「北条一族」に、取って「安達一族」は「配偶者」を得る為に、存在した一族でした。そのことも有り「安達氏」は、唯一「北条氏」が「自分達と同格で有る」と、認められた「御家人」でした。また安達氏は、北条氏以外では「鎌倉幕府の最有力御家人の一族」と、成りました。しかし「安達氏の本流」は「鎌倉幕府の滅亡時」には、北条氏と共に「東勝寺(1333年)」に於いて、自害して滅びました。
「その者」は「比企能員の変」の内容が、俄かに信じられない「仕打ち」で有ると、思いました。それは「比企能員公」が、邪魔に成り「殺された」と、言うのは分かりますが「時政公の孫で有る頼家公」や、その息子で有る幼い「一幡様」を、その子の父の、叔父で有る「義時公が命令して」その子供を、殺害しました。
また「頼家公の母親」で有る「北条政子様」が、存命で有ったのに「弟の義時公」は「父親の時政公」と、協議して、刺客を放ち「甥の頼家公」を、暗殺しました。その辺の仕打ちが「現在人で有る」彼に取っては、全く理解が、出来ませんでした。
「北条義時公」は「自分の甥と、甥の子供」を、平気で殺害しました。そのことが、俄かに、信じられないのです。「その者」は「ことの真相」は「頼家公」が、権力を取り上げられた後は「頼家公と一幡様と政子様」は「時政公の庇護の元」で、人知れず静かに、暮らして「人生を全うしたもの」と、思って居ます。
それから「北条義時公」の「母方の祖父」の名前を、「伊東祐親公」と、言いました。この御方が初め、流人で有る「源頼朝公」の「監視役」を、務めました。そして「祐親公」が「京都御所の護衛」の為に「数年間」勤めをして、実家を留守にして居るときに「娘・八重」が「頼朝公」と、仲良く成り「男児を出産」しました。
京都から戻った「祐親公」が「娘・八重」が「流人の子供」を、生んだことに怒り、信じられないことですが、その子を取り上げて、その子の背中に、重石を括り付けて「川底に沈めて殺した。」と、言います。この話も事実で有れば、全く以って「酷い話」でした。
また、この「祐親公」は、頼朝公の初めての旗揚げ時の合戦後の「追討戦時」に於いても、同じ孫で有る「義時公」の兄で有る「北条宗時公の暗殺」を命じて、その孫も殺害したそうです。これも全く以って「信じられない酷い話」です。
「その者」は、このような話は、今の時代よりも「860年も昔の出来事」だったので、大半のことは「尾鰭を付けた〝荒唐無稽″な、作り話で有ろう」と、思われました。この「伊東祐親公」も「下野岡本氏」の先祖に、成ります。
「寒河の尼」は「宇都宮(八田)氏の第2代当主・宗綱公の娘」でした。彼女は、京都で生まれ育ちました。そして女官として「近衛天皇」に、仕えた経歴を、持ちました。そして「頼朝公の乳母の1人」と成り、やがて「小山政光公の妻」と、成りました。
治承4年(1180年)8月の「頼朝公」による「反平家の挙兵時」大番役で有る「当主・小山政光公」が、在京中だった為に「寒河の尼」は、10月に当時14歳の末子「朝光」を伴って「武蔵国隅田宿の頼朝公の宿所」を、訪れました。寒河の尼は、頼朝公と、往事を語り「末子を、側近として奉公させたい。」と、願い出て頼朝公は、自ら「烏帽子親」と成り、元服させて、末子は「小山七郎宗朝」と、名乗りました。(後に朝光に改名)
夫の不在中は、妻がその権限を、取り仕切るのが「慣習」で有り、この「尼の行動」により「下野国・最大の武士団・小山氏」が「頼朝方」に、就きました。このことは「北坂東の武士団の去就」に「決定的な影響」を、与えました。寿永2年(1183年)2月、小山氏の参戦により頼朝方は「野木宮合戦」で、勝利しました。
この「朝光公」は、後に「下総国の結城郷」の領主と、成りました。そして「結城氏」を、称するように成り、結城氏・初代「結城朝光公」と、成りました。この「朝光公」は「頼朝公の乳母」で有る「寒河の尼の実子」でした。その為「頼朝公」からも大変、可愛がられました。
文治3年(1187年)12月に「寒河の尼」は「女性たりと雖も、大功有るによる也」として「頼朝公」より「下野国寒川郡」並びに「網戸郷の地頭職」に、任ぜられ「女地頭(領主様)」と、成りました。その賜わった地名により「寒河の尼」と、呼ばれたのです。
この「頼朝公の乳母」が「宇都宮(八田)氏の娘」だったので「下野・宇都宮氏」は「頼朝公」より「厚い信頼」を得て「鎌倉幕府の有力御家人」と、成りました。そのことも有り「北条時政公」と「牧の方」の娘が「宇都宮氏の第5代当主の元」に、嫁いで居ます。その娘は「第6代当主・宇都宮泰綱公」を、産みました。
「北条時政公」は「平治の乱」で、敗死した「源義朝公の三男・頼朝公」が、助命されて「伊豆国へと配流」された事により、その「監視役」に、成りました。後妻で有る「牧の方」の実家が「平頼盛公の家人」として「駿河国の大岡牧」を、知行としました。やがて「頼朝公」と「娘の政子様」が、恋仲と成ります。当初この2人の交際に、反対した「時政公」でしたが、結局「2人の婚姻」を、認めることと成り、その結果「頼朝公の強力な後援者」と、成りました。
「時政公」が、流人で有る「頼朝公」に賭けて「平氏政権に反旗」を、翻したことは「時勢を察知しうる〝優れた先見性″が、有ったからだ。」と、言われました。名も無い「東国の一豪族」に、過ぎなかった「北条氏」を、一代で「鎌倉幕府の最高権力者」にまで、押し上げた時政公とは「一体どのような人物だった」のでしょうか。
「北条時政公」の「北条氏」とは「不思議な一族」でした。その出自は「桓武平氏・平直方流」を、自称しましたが、本当の出自は不明でした。「時政公」は、ほぼ一代で「鎌倉幕府の天下一の権力」を、握ったにも関わらず「時政公の兄弟や、従兄弟」が、全く歴史上に登場してこない「粛清された記録も無い」点が、非常に異色でした。
その為「北条氏の得宗家」以外にも「名越・金沢・大仏」等の名前で、庶流が大きく枝葉を、広げました。しかし「北条一族」とは、全てこの「時政公1人の系統」でした。「鎌倉幕府の北条氏」とは、この「時政公一代のみの家系」で、成り立ちました。
歌人として有名な「藤原定家公」と親交が厚く「日本の三大歌壇」の1つと、言われた「宇都宮歌壇」を、築いた「宇都宮氏・第5代当主の宇都宮頼綱公」には、既に妻も嫡男も、居ましたが、新たに「北条時政公の娘」を、妻として迎えました。それは先妻が、亡くなった為に、後妻として迎えたのか詳細は、良く分かりませんでした。しかし「時政公の娘」を、新たな嫁として娶りました。
その嫁の母親は「時政公の後妻」として有名で有る「牧の方」でした。嫁の姉で有る「政子様や時子様」は、名前が残りましたが、この「新しい妻」の名前は、何と呼ばれたのか、分かりませんでした。
それから彼女は、男児を産みました。夫の「頼綱公」に取っては、4人目の男子でした。この男児の母親は「北条時政公の娘」だったので、4人目の男児は、特別に「宇都宮氏・第6代当主」と、成りました。名前を「宇都宮泰綱公」と、言いました。
また父親で有る「頼綱公の娘」は、仲の良かった「藤原定家公」の嫡男の元に、嫁ぎました。そして彼女は、3代目を産みました。「藤原定家公の末裔」は、宇都宮氏の血を、受け継ぐことに、成りました。また「6代当主・泰綱公」の妻は、2代執権・北条義時公の次男で「正室の子供」で有る「北条朝時公」の娘でした。そしてこの娘は「宇都宮氏・第7代当主・宇都宮景綱公」を、産みました。
また「北条時政公の次女・時子様」は、足利氏の第2代当主の「足利義兼公」に嫁ぎ、第3代当主・義氏公を産みました。この義氏公は「鎌倉幕府の3代執権・北条泰時公」の娘を娶り、この娘は「第4代当主・泰氏公」を、産みました。この泰氏公と「北条朝時公の娘」との間には「足利家氏公」が、生まれました。
この家氏公は、「斯波氏」の初代と言われて居り、子孫の「第4代当主の斯波高経公」の娘は「宇都宮氏の第10代当主・宇都宮氏綱公」に嫁ぎ「第11代当主・基綱公」を、生みました。
まとめますと「比企の尼」と「安達盛長公」そして「北条時政公」と、その娘「時子様」「北条義時公」それから足利源氏の第4代当主「足利泰氏公」までは「下野岡本氏」の先祖に成ります。




