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08S.宇都宮氏と藤原北家 後編

「薩埵山体制」崩壊後「足利尊氏公没後に、2代将軍と成った足利義詮公と、その弟・足利基氏公により、親族で有る上杉憲顕公に〝所領を返せ″と、迫られたこと」に、より「越後・上野守護代職」を、奪われたことも有り、激怒した「芳賀禅可公」が「上杉憲顕公」に、対して「クーデター」を、起こしました。しかし結果は、敗北。その戦で、多くの家臣達を失い「芳賀氏」は「弱体化」しました。更に「宇都宮氏」も、徐々に没落して「不遇の時代」を、迎えることに、成りました。


その後「宇都宮氏」は、一門の対立が発端と成り、同族間の殺し合い等が有り、徐々に「弱体化」します。宇都宮氏の「最後の当主」は「第22代・宇都宮国綱公」でした。この「国綱公」のときに、宇都宮氏は「豊臣秀吉に改易」されました。理由は「色々有る。」と、言われましたが、その1つに、国綱公には、当時「継嗣」が、無かったので、豊臣秀吉の五奉行で有る「秀吉の義弟・浅野長政」の「三男・長重」を、養子として、迎えようとしました。


しかし「国綱公の弟」で有る「芳賀高武公」が、これに猛反対をして、縁組を進めた、国綱公側近の「今泉高光公」を、殺害しました。「長政」が、それを恨みに思い、その讒言ざんげんにより「改易された」と言う話が、有力でした。他にも「太閤検地」のときに、秀吉が安堵した「下野国18万石」ではなく、実質その倍以上の所領だったと言う「石高詐称によるもの」と言う、説も有ります。


いずれにせよ「宇都宮氏」は「豊臣秀吉」と、その義弟で有る、後に「忠臣蔵」で、有名に成った「浅野内匠頭の先祖」に、当たる「浅野長政」のせいで「改易」に、成りました。そして「宇都宮氏の一族」は、路頭に迷ったのです。秀吉から「朝鮮での戦功次第では、再興を許す。」との話を、受けて「国綱公」は、宇都宮氏を再興すべき「慶長の役」にも参陣して「順天城の戦い」では、武功を立てました。しかし「秀吉の死」により「再興」は、叶いませんでした。


「国綱公」は、その後、諸国を流浪して「慶長12年(1607年)に、江戸浅草の石浜で、失意の内に、病死しました。」享年40歳でした。「嫡男の義綱公」は、成人後に「水戸藩士」と、成りました。徳川様の水戸藩は「下野国」に、近いことも有り義綱公は、その方角を見ながら「いつも無念で有る」と、思ったことでしょう。


そして「下野岡本氏の先祖」も「水戸藩士」でした。多分、同族で有る「大久保氏」の口添えのお陰で、故郷で有る「下野国の近くの水戸藩」に、多くの「宇都宮の一族」が、召し抱えられたのではないかと、思われます。


また「宇都宮氏」は、北九州にも所領を、持ちました。「豊前国」と「筑後国」でした。元々「源頼朝公」の「清盛一門の残党狩り」を、名目として、宇都宮氏に任せた拠点が「豊前」でした。その後「元寇の再来時」の為の「新たな拠点」として、定められたのが「筑後」でした。そしてこの地も「執権・北条氏」から、宇都宮氏に任されました。


「筑後・宇都宮氏」は「蒲池かまち」の姓を名乗り、現代では「松田聖子さん」が、この一族の出身で有り有名です。また「豊前・宇都宮氏」は「城井きい氏」を、名乗りました。しかし「豊臣秀吉の九州征伐」の際の、秀吉からの「領地替え命令」に、不満が有り「城井の当主」は「拒否」しました。それは「城井氏の本家」で有る「宇都宮氏」が、改易されたので、それを根に持ち「秀吉に、逆らった」と、思われます。


その為「新しく領主」として入った、秀吉の家来の1人「黒田官兵衛」との戦に成り、初戦は「城井氏が勝利」しました。しかし黒田は、まともに戦っては「勝ち目」が、無いことを知ると「城井氏」に「嘘の和議」を持ち込み、酒席の場を設けて、城井の当主が、酒に酔った処を、襲って惨殺しました。官兵衛に騙された「城井の一族」は、その後、虐殺されて「豊前・宇都宮氏の本流」は、ことごとく、殺されてしまいました。


「宇都宮氏」に取っては「豊臣秀吉とその一派」は、非常に「不吉な存在」でした。敵対勢力だったのです。「その者」が、子供の頃には「太閤・秀吉」と言えば、百姓から身を起こして「天下人」まで成った「日本の英雄だ」と、思いましたが、どうやら「下野岡本氏」の先祖達に取っては、とんでもない「負の相手」でした。彼も、認識を改めて「豊臣秀吉」が、嫌いに成りました。


「藤原氏の始まり」は「中臣鎌足公」です。時代は、飛鳥時代の頃です。「鎌足公」には、2人の子息が、居ました。長子が「定恵(じょうえ/じょうけい)」と、言う名前の子息で、出家して「僧侶」に、成りました。次子が「不比等ふひと」と、言う名前で、この御方が「藤原の姓」を、引き継ぎました。


この「定恵様」と言う、息子ですが「鎌足公の長子が、出家をした。」と、言うことは、この時代では「前代未聞の事態」でした。何か深い事情が、有ったのでしょうか。いずれにしても「次子で有る〝不比等公″」のみが「藤原姓」を、継ぎました。


「不比等公」には「4人の息子」が居り、長男の名前を「藤原ふじわらの 武智麻呂むちまろ」と、言いました。この「武智麻呂公」の血筋を「藤原南家」と、呼びました。日本で1番多い姓名で有る「佐藤さんや、工藤さん伊藤さんの先祖」と、言われました。この武智麻呂公が、事実上の不比等公の後継者と、成りました。


「不比等公の嫡男」でしたが「政治的な能力」は、1つ違いの弟「房前公」の方が、出来が良かったようでした。また「武智麻呂公の血筋」を「南家」と呼ぶのは、彼の屋敷が、弟の房前公の家より、南側に有ったので「藤原南家」と、呼ばれました。


そして「不比等公」の次男の名前が「藤原ふじわらの 房前ふささき」と、言いました。この「房前公の血筋」を「藤原北家」と、呼びました。藤原四家の中では「最も繁栄した藤原氏」と、言われました。「彼の末裔」と、言われる「武家の名前」を、上げれば「宇都宮氏」の他に「上杉氏」「伊達氏」「小山氏」「結城氏」「安達氏」「比企氏」等が「末裔」と、言われました。


また朝廷では「北家嫡流」が、3代に渡り、天皇の外戚の地位を、保ち続けたことが「同家の優位」を、確固たるものにしました。これが以後の「北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白」と言う図式を、決定付けることに成り、この系統による「摂関政治」が、後の「道長・頼通父子の時代」に「全盛」を、極めました。その子孫は「五摂家」と呼ばれ「近衛・一条・九条・鷹司・二条」に、別れました。そして「公家の最高家格」を、引き継ぎ、この「五家」が、独占しました。


そして三男の名前が「藤原ふじわらの 宇合うまかい」と、言いました。「宇合公」の血筋を「藤原式家」と、呼びました。宇合公が、朝廷の役職で有る「式部卿」を、したので、そのように呼ばれました。


それから最後の四男の名前が「藤原ふじわらの 麻呂まろ」と、言いました。この「麻呂公」の血筋を「藤原京家」と、呼びました。その由来は、彼が「朝廷の役職」で有る「左京太夫」だったので、そのように、呼ばれました。また公家でも、武家でも、出自が圧倒的に、多いのが「藤原北家」でした。そして、その武家の中には「自称も、可成り多い。」と、言われました。


それから「藤原北家」には「文才の有る方」が多く、存在したのではないかと、思われます。「源氏物語」を、書いた「紫式部様」や「新古今和歌集」や「小倉百人一首」を作った「藤原定家公」この「定家公」とは、同時代の人で有り、近い親戚筋で有る「宇都宮頼綱(第5代当主)公」は、優れた歌人としても有名でした。その御方は、カルタの世界では「日本三大歌壇」の1つに、数えられた「宇都宮歌壇」を、築いた御方としても、知られました。そして「三河物語」を、書いた「大久保忠教公」も、そうでした。いずれも「藤原北家の出自」でした。


また「藤原氏」では、有りませんが「清少納言様」は「清原氏の一族」でした。「天武天皇」は「古事記」や「日本書紀」を、創った天皇として、有名で有り、特に「古事記」の解釈は「天武天皇の解釈が強い」と、言われました。また「下野岡本氏の先祖」には、江戸幕府の詰所に於いて「奥右筆おくゆうひつ」と言う役職に就き「幕府の機密文章の作成や管理」をしました。


「文章を書く」と、言うことは、誰にでも出来ることですが「下野岡本氏」に取っては「特別な意味」を、持ちました。実は「その者」が、こうゆう形で、投稿を始めたのも「下野岡本氏の家系には、どうやら文才が、有るようだ」と言うことを、知ったからで有り、その内容は、兎も角として「自分もやってみたい」と思い、それを始めたようでした。

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