07S.宇都宮氏と藤原北家 前編
大部分の人達は「宇都宮」と言うと「栃木県の県庁所在地」としか、知らない人が、多いのではないでしょうか。しかし「宇都宮氏」は、古来より「下野の名族」と、言われた一族でした。「下野の統治」を、平安時代の末頃から、豊臣秀吉の時代までしました。
「宇都宮氏」の出自は「藤原氏」です。藤原氏とは「中臣鎌足公」を、初代として、その子で有る「藤原不比等公」が、跡を継ぎました。「鎌足公」と、言えば「大化の改新(飛鳥時代645年)」を、主導した人物として、知られました。それまでの「日本の政治体制」は「豪族(蘇我氏)」を、中心とした「支配体制」でした。それを「天皇中心の政治体制」へと、変えた人物でした。
この改革により「日本」と言う、国号及び「天皇」と言う「称号」が、正式なものと、成りました。そして日本で「初めての元号」で有る「大化」を、定めました。この「中臣鎌足公」と「2人の御子」が、作った「天皇中心の支配体制及び、元号の使用」は、この現在に於いても、まだ続いて居ます。それは、とても凄いことです。「太古の昔」に、作られた制度が、未だに「現在の日本」でも、稼働中なのです。
その「改革の指導」をした、中心人物が「中臣鎌足公」でした。彼と「若い両皇子(中大兄・大海人)」の協力により、推進されました。「中大兄皇子」が「第38代・天智天皇」に成り「大海人皇子」が「第40代・天武天皇」に、成りました。
「鎌足公・臨終」の際に「天智天皇」より「冠位の最上位」とされる「大織冠」と、共に「藤原の姓」を、与えられました。この官位は、天皇が臣下に、与えることが出来る「最上位の官位」でした。この称号を与えられた者は、数も少なく、また「〝中臣鎌足公″ただ1人」とも、言われました。
その後を、子息で有る「藤原不比等公」が、継ぎました。「不比等公」には、4人の息子が居り「宇都宮氏の先祖」は、その次男「藤原房前公」の出自に、成ります。「房前公」は「藤原北家の祖(自分の家が、兄の邸宅より北に、位置したので、そのように、呼ばれました)」で有り「宇都宮氏の先祖」で有る「関白・藤原道兼」公の先祖に、成ります。
「藤原道兼公」とは、平安時代中期頃の御方で、朝廷では「関白太政大臣」にまで、成られた御方でした。因みに父上も兄上も「関白」でした。藤原氏のエリートで有り「花山天皇(第65代)」を、唆して出家・退位させた「寛和の変(986年)」「関白」として、有名でした。しかし関白就任後は、僅か数日間で、他界しました。
その「道兼公の曾孫」に、当たる御方が「藤原宗円(兼綱)公」で有り、平安時代の後期に起きた「前九年の役(1051年~1062年)」のときに、その役とは「陸奥国(東北地方)の土着で、有力豪族で有る〝安倍氏″は、北最上川流域に柵や砦を築き、半独立的な勢力を、形成したので、その鎮圧をするまでの戦い」で有り、宗円公が源頼義・義家公親子の奥州安倍氏討伐での功により「宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)」の別当職に任じられ、その結果、後に「下野国」を、賜わることにより、その地の統治が、始まりました。
そして「宗円公」から数えて「3代目の朝綱公」の代により、本格的に「宇都宮氏」を、名乗りました。その直前までは「八田の姓」を、名乗りました。また宇都宮氏と言えば「屈強な武士団」を、有しており、その名を「紀清両党」と、呼ばれました。それは下野国・宇都宮大明神の座主で有る「宇都宮氏の家中の精鋭」として、知られた武士団で有り「東国武士の武勇」を、代表する者としても、有名でした。
「宇都宮氏の家紋」は「左三つ巴紋」に、成ります。この紋は「太鼓のマーク」として、お馴染みの「勾玉が、3個集まった形」でした。「宇都宮氏」のものは「尻尾」が、左を向いて居るので「左三つ巴紋」と、呼ばれました。元々この紋は「神社の社紋」でした。それは昔「神社の柱」は「3本1組」だったので、3本1組を、紐で束ねて、上から見ると「三つ巴紋の原型」に、成りました。それは昔、柱に使える「太い大木」が、無かったので、細い大木を「3本1組」にして、代替えとして、使用しました。
「宇都宮氏」は「宇都宮大明神の座主」だったので、そのまま「神社の社紋」を、自分達の「家紋」として、定めました。「その者」は、子供の頃に、この「左三つ巴紋」が、先祖の家紋だったことを、知らずに居ました。そして良く「お祭り」等で、太鼓を叩くときに、決まって出るのが「三つ巴紋」でした。
それは「子供心」には、可成り印象深くて、その紋を見付けると、見詰め続けて居ました。見た感想としては「何とカッコイイ図柄でしょうか」と、子供心に思いました。そして彼は、大人に成ってから実は、それが「御先祖様の家紋」で有ったと、知ると「とても嬉しかったこと」を、覚えて居ました。
「宇都宮氏の精鋭部隊」のことを「紀清両党」と、言いました。紀清両党の「紀」は、益子氏の本姓で有る「紀氏」から、そして「清」は、芳賀氏の本姓で有る「清原氏」から来ており、それらの一族で、構成された「精鋭武士団」でした。
また文治五年(1189年)の7月から9月に起こった「奥州合戦」では「益子正重公」と「芳賀高親公」が「宇都宮朝綱公」に従い「戦功」を、上げており「源頼朝公」から「源氏の白旗一流ずつ」を、贈られました。そのときに「頼朝公」より「お主らは、坂東一の弓取りぞ。」と「お褒めのお言葉」を、賜りました。このことが「後世」まで「芳賀・益子氏の栄誉」とされ「世にその武勲を知らしめる端緒」と、成りました。
「奥州合戦」とは「奥州藤原氏」が、初代清衡公以来、三代百年に渡り陸奥・出羽両国に、君臨して居ました。「三代秀衡公の時代」には「陸奥守・鎮守府将軍の官職」を、得ており、名実共に「奥州を支配する存在」と、成りました。「平氏討滅後の源頼朝公」に取っては、鎌倉政権を安定させる為には「潜在的脅威」で有る「奥州藤原氏」を、打倒する必要が、有りました。また「頼朝公」と、対立した義経公が「奥州・平泉」に、潜伏したことも有り「頼朝公の背後」を、脅かし続けて居た「奥州藤原氏の殲滅」を、目的とした戦いでした。
「宇都宮氏」は、鎌倉時代に「鎌倉幕府」からは「強大な軍事力」を、持つ存在とみなされ、度々重用される程に、成りました。紀清両党は「元弘の乱(1331年~1333年)」でも「第9代当主・宇都宮公綱」公に、従い戦って居ました。
この戦では「益子貞正公」や「芳賀高名(禅可)公」などが、活躍しており「楠木正成公」は「宇都宮氏は〝坂東一の弓取り″で有るとして、その両翼たる益子氏、芳賀氏ら〝紀清両党″は、戦場において、命を捨てることを厭わない。」と評し、宇都宮氏及び、紀清両党の武勇を恐れ、兵を退いた話は「有名」でした。その他にも「天王寺の戦い・千早城の戦い」などで奮戦して、活躍しました。
公綱公の嫡男で「第10代当主・宇都宮氏綱」公が「北朝」に、従った際には、芳賀禅可公・益子貞正公ら「紀清両党」も、氏綱公に従い活躍しました。「観応の擾乱(1350年~1352年)」では「春日顕時」に、隙を突かれ紀党益子氏の居城で有る「西明寺城」や清党の「八木岡城」を、落とされたりしましたが「薩埵峠の戦い」等では、活躍して「足利尊氏公の勝利」に、貢献しました。「清党の芳賀氏」は「薩埵山体制」下では「上野国・越後国」の事実上の「守護代」を、任される程に、成りました。




