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06S.三河武士の大久保氏 後編

結果は、皆様もご存じのように「貞綱公」が、到着前にモンゴル軍が、台風の直撃を受けて、軍団が壊滅しました。「宇都宮貞綱公」は、戦わずして勝利を、得たのです。しかし実際、モンゴル軍と戦って貞綱公が、自ら勝利したので有れば、それは日本史上にも残る「英雄扱いだっただろう」と、思われます。


しかし残念ながら戦には、ならなかったようでした。その為、総大将で有る「貞綱公」の知名度は低く、その代わりに、やたらと「幕府執権・北条時宗公」の名前ばかりが「モンゴルの襲来」時に、出て来るのは、その為です。


その後「宇都宮氏」は、九州の防衛をする為に、北九州の「筑後の国」の守護代にも、任命されました。それは「モンゴル帝国の再襲来」に、備える為でした。また宇都宮氏の九州での他の所領の1つに「豊前の国」が、有りました。こちらは、もっと古い時代から「頼朝公の御命令」により、壇之浦で滅んだ「清盛一族の追討」をする為の拠点として、その国を宇都宮氏に、与えました。それは「頼朝公」の「3人の乳母」の1人で有る「寒河の尼」は「宇都宮氏の出自」でしたので、彼等一族は「源頼朝公」から、信頼されたのです。


2回目の「元寇」時に、駆り出された「6万人の兵達」は、手柄をたてようと、張り切りました。そして九州まで行ったのですが、結果的に「不戦勝」だった為に、恩賞も無く「ただのくたびれもうけ」でした。その不満が「後の鎌倉幕府の崩壊を、速めた。」と、言います。


「大久保氏」の先祖達も「モンゴルの襲来」のせいで、駆り出され「下野」に、帰る途中で「戻っても恩賞は、無いだろう」と思い「三河辺り」に、差し掛かった処で、その地が気に入り、根付いたのか。または「宇都宮氏」の「九州の所領」へと、行く為の「中継基地」として、その地を始めから、利用して居たのかも、知れません。


そして「下野岡本氏の親戚」で有る、同じ宇都宮氏の庶流「大久保氏」は「三河」に「本格的な移住」を、始めたのかも知れません。そして彼等は、世代を重ねて「三河の人」と、成りました。それから「大久保氏」は、そこで「極めて重要な出会い」を、することに、成ります。それは後に「新たな将軍家」と成る「徳川様の前身」で有る「松平氏」との出会いでした。


「宇都宮氏」は、平安時代の末頃から、豊臣秀吉の時代まで「下野国」を、統治しました。宇都宮氏は「鎌倉幕府の北条氏」のように、嫡男以外の子供を、他家に養子に出して、他家を一門化する政策を、取りました。「芳賀氏や塩谷氏」等が「良い例」で、元々両氏は家来でしたが「家柄が良いこと」も有り、認められ「宇都宮氏の一門」として、新たに迎えられました。また「芳賀氏」と、両翼でした「益子ましこ氏」も「第2代当主・宗綱公の母親」が、益子氏と言うことも有り、宇都宮氏とは、絆が強かったようです。


紀清両党きせいりょうとう」とは「下野国・宇都宮大明神の座主」で有る「宇都宮氏」の「家中の精鋭」として、知られた「武士団」でした。「〝東国武士の武勇″を、代表する武士団として有名」でした。紀とは「紀氏益子きうじ・ましこ」氏のことを指し、「第8代・孝元天皇」の曾孫で有る「武内宿禰の末裔」と、言われました。


また清とは「清原姓芳賀はが氏」のことを指し「第40代・天武天皇」の「御子・舎人親王」の曾孫で有る「清原夏野公の末裔」と、言われました。この両氏が「宇都宮一族の主流」だったので「宇都宮氏・精鋭部隊」のことを「紀清両党」と、呼びました。そして、この部隊は、あの「楠木正成公」からも、恐れられた「強い武力」を、持つ存在でした。


「足利尊氏公」は「北条氏」を、滅ぼすと「幕府」を、遠く離れた「京都の室町」に、置きました。それは宿敵と、成った「後醍醐天皇」が、京都に戻れなくする為でした。また「北条氏滅亡時」には、1000人以上の「北条氏一門・郎党」が、死んだので、そのまま「新しい幕府」を、鎌倉には、置きたくなかったのでしょう。「坂東武者の統治」には「鎌倉府」と言う「室町幕府の出張所」を、置きました。


そしてこの「出張所将軍」と、言えるのが「尊氏公の正室」が産んだ、2人目の男子で有る「足利基氏公」でした。「室町幕府2代将軍・足利義詮公」の同腹の弟でした。「宇都宮氏」も、室町時代に入ると、幕府の出張所で有る、この「鎌倉府の配下」に、置かれました。「室町幕府」は、仕組み上「2か所体制」と、成りました。


そのことも有り、月日が経つと「室町幕府」は「幕府側と鎌倉府側」との間で、対立関係が、起きました。「宇都宮氏」の内部でも「幕府側と鎌倉府側との内紛」が、起きました。その結果「第13代当主」で有る「宇都宮持綱公」は、一族の「塩谷氏当主の教綱公」に、殺害されました。そして報復として「教綱公」も、宇都宮氏の家中の者に、殺害されました。そんなことも有り「塩谷氏と宇都宮氏」は、関係が暫く、断絶します。


しかし「第16代当主」の「正綱公の時代」に「正綱公の4男」が「塩谷氏に婿養子」に、入ることに成り、関係が復活しました。その後は、別の一門で有る「芳賀氏」とも、関係が悪化して「宇都宮錯乱」と、呼ばれる「内紛」が、起こります。


「宇都宮氏」は、長い年月の間に、これら内紛により「弱体化」します。弱体化した大きな理由の1つに「一門(庶流・分家)の力が、強くなり過ぎてしまい、主従関係が、逆転した為」と、言われました。同族同志の謀反や殺し合いです。「宇都宮一族」は、或る意味「自滅」したのです。


その結果「宇都宮の一族」は「戦国時代」を、生き残ることが、出来ませんでした。結果的には「豊臣秀吉」と、その義弟の「忠臣蔵」で、有名に成った「内匠頭の先祖」で有る「浅野長政」のせいで「改易に成り」所領を、失いました。そして一門達は、路頭に迷いました。


しかし路頭に迷った「宇都宮氏と、その一門」は、同族で有り、既に独立して徳川様の配下と成った「大久保氏」に、助けられました。宇都宮氏は「先祖伝来の所領」を、失いましたが「徳川様の配下」として、生き残る道が、残されたのです。


同族同志で、殺し合いまでした一族でしたが、一方では「大久保氏」のように、一族を、助けてくれた同族も、居たのです。「宇都宮の一族」は、悪い面も有りましたが、良い面も有ったのです。


また「宇都宮氏」の一族は「征夷大将軍」を、育成したり、補助したりする定めを、持つ一族でした。鎌倉幕府の初代・将軍で有る「源頼朝公の乳母」と成り、将軍を育てたり、また室町幕府では、初代将軍で有る「足利尊氏公」に、付き従い、将軍の為に「観応の擾乱」時の勝利に、貢献したりしました。また江戸幕府では、初代将軍で有る「徳川家康公」と、その先祖達に付き従い、彼等を守って来ました。


このように「宇都宮の一族」は「征夷大将軍」を、育てたり、守ったりする役割を、天から与えられた「特別な一族」でした。それは「頼朝公」の他の「2人の乳母(比企の尼・山内の尼)」には無い「寒河の尼」一族にのみに、与えられた「特別な使命」だったのです。

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