05S.三河武士の大久保氏 前編
徳川様・最古参の配下で有る「大久保氏」と、言えば「三河武士」の代名詞で有り、とても有名でした。「三河」と言えば、現在では「愛知県東半部一帯」を、そのように、呼んで居るそうです。また「徳川家康公の生誕地」で有る「愛知県・岡崎市」が「三河武士発祥の地」と、されました。
徳川様も大久保氏も、確かに「三河」に、住んで居たのでしょう。しかし徳川様は、自らの出自を「新田源氏」と、宣言されました。「新田源氏」と言えば、群馬県太田市や高崎市周辺の所領を、引き継いだ「源義国公の嫡男・新田義重公の所領」でした。時代は「平安時代末期から鎌倉時代初期の頃」です。この御方の4男に「得川義季公」と言う、御方が居られました。この御方が「家康公の御先祖様」と、されました。
家康公の遺体は「駿河国・久能山」に、埋葬されました。しかし1年後には「下野国・日光山に、小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そうすれば、関八州の鎮守と成り、徳川幕府の安泰と、日本の恒久平和を、守るで有ろう。」と、遺言を残したそうです。
「家康公」は、わざわざ「自分の御魂」を、分霊してまで「栃木県・日光市」に、祀ったのです。彼は何故「下野国」を、選んだのでしょうか。その辺りは、有名な霊場だったようですが、選んだ理由は、自分の先祖が「その地の出自」と、設定したからです。家康公は「自分は〝足利源氏の親戚″で有り〝河内源氏″でも有るので、嘗て初めて、その地を所領とした〝頼朝公や尊氏公″の御先祖様でも有る〝義家公″に、肖り〝自分の御霊″を、分霊したのです。」
「家康公」は「自分は〝源氏の一族″なので、将軍に成り、武家を支配下に置き、自分の幕府を、開くことが、許されるのだ。」と言う「徳川幕府の正当性」を、主張したかったのです。「室町幕府」を、開いた「足利尊氏公」が、幕府を開いた当時、盛んに訴えた「〝源氏の者″でなければ、将軍に成ってはいけない。〝源氏の者″のみが、将軍に、成れるのだ。」と言う、主張でした。
「家康公」は「自称・源氏」でした。本当の源氏でなくても、当時は「大きな武力」を、持ったので、誰も逆らう者は、居ませんでした。しかし家康公も、尊氏公が初めて、幕府を開いたときのように、不安が有りました。そこで「自分は〝源氏の者″なので、幕府を開くことが、許されたのだ。」と、言うことを、他者に知らしめたかったのです。その為「源氏の聖地〝下野国″」に、自分の御霊を、分霊したのです。或いは、先祖とされた「得川義季公」が「日光辺りに所領」を、持って居たのかも、知れません。
「徳川家康公」の「家」の字は「通字」と、言われるもので有り、武士の慣習で有る、その家系を示す「文字」でした。徳川将軍家は「家」の字を、使いました。それでは、その出所は何処でしょうか。ここでまた「源氏の始まり」と、呼ばれた御方が、登場します。
その御名は「源義家公」でした。「鎌倉幕府」を開いた「源頼朝公」は、そのまま名字を、引き継ぎました。そして「室町幕府」を、開いた「足利尊氏公」の子孫で有る、将軍家は「義」の字を、引き継ぎました。元々「源氏の一族」は、この「義」の字を、通字として、用いました。そして「江戸幕府」を開いた「徳川家康公」は、最後に残った「義家公」の「家」の字を、引き継いだのです。
それは「自らも〝源義家公″の末裔で有る。」と、宣言したかったのでしょう。ここで「ムフフ」です。「その者」は「大久保忠教公の末裔」なので「三河物語」を、読んで居ます。それは元々「忠教公」が、子孫の為に残した「門外不出の物語」でした。呼んで良いのは「子孫だけ」でした。
流石に「大久保氏」は、徳川様、最古参の配下でした。「徳川様の出自」についても、詳しく記載されて居ました。その本が「世間一般」にも、広まってしまったせいで、今では誰もが、知って居ました。徳川様は「ただの自称・源氏」だったのです。わざわざ栃木県にまで行って、分霊までしちゃいましたが、ただの「自称・源氏だった」のです。それで「ムフフ」です。
皆さんも「良く知った」と、思いますが「大久保氏」も本当は「生粋の三河者」では、有りません。出自は、栃木県です。実は「下野国」の出身でした。「大久保氏」の家紋は「上り藤に大の字」です。「通称・大久保藤」と、言われて居る家紋でした。注目すべきは、家紋に「藤紋」が、使われて居ることです。
「藤紋が入って居る」と、言うことは「出自が、藤原氏で有る。」と言うことを、主張して居ます。それは「何処の藤原氏なのか」と、申しますと「摂関家・藤原北家道兼流」と言う、系統に成ります。その代表でしたのが「下野の名族」と、称えられ呼ばれた「大族・宇都宮氏」でした。
「藤原道兼公」とは、平安時代・中期頃の御方で、朝廷では「関白太政大臣」にまで、成られた御方でした。そして父上も、兄上も「関白」でした。「藤原氏のエリート」で有り、道兼公は「花山天皇(第65代)」を、唆して、出家・退位させた「寛和の変(986年)」関白として、有名でした。
その「道兼公の曾孫」に、当たる御方が「藤原宗円(兼綱)公」で有り、その御方が、平安時代の後期に起きた「前九年の役」で「源頼義・義家公親子の奥州・安倍氏討伐」に、付き従い、手柄をたてたことにより「宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)別当職」に、任じられました。その結果、宇都宮氏の本格的な「下野統治」が、始まりました。
また「宗円公」から、数えて「3代目の朝綱公」の代から、本格的に「宇都宮氏」を、名乗りました。そして「朝綱公の父親」の名前を「八田宗綱公」と、言いました。「頼朝公」の乳母の1人で有る「寒河の尼」の父君で有り、その尼の弟が、有名な「八田知家公」でした。そして「知家公」は「朝綱公の弟」です。
「大久保氏」は「宇都宮氏の第7代当主・景綱公」の3男で有る「泰宗公」が、下野国の「武茂郡(現・栃木県_那珂川町)」の領主に、成ったことから「初代・武茂泰宗」を、名乗りました。そして泰宗公から5代目の「泰道公」のときに「宇津姓」に変えて「初代・宇津泰道」と、名乗りました。その後、6代目の「宇津忠茂公」のときに「大久保(大窪)」姓に、改めました。
その初代と成る「大久保忠茂公」の孫が「大久保彦左衛門・忠教公」でした。そして三河に移住したのは、泰宗公の孫の「泰藤公」のときでした。では何故その地に、移住したのでしょうか。「その者」は、その大きな理由として「モンゴルの襲来に、よるもので有る」と、思いました。
余り良く、知られて居ませんが「2度目のモンゴル襲来時」の「日本軍の総大将」の名前を「宇都宮貞綱公」と、言いました。この「貞綱公」は「宇都宮氏の第8代当主」でした。「第7代当主の景綱公」の嫡男で有り「初代・岡本富高公」の伯父上に、当たります。また「第16代当主・正綱公」の母上が「貞綱公の末裔」だったので「その者」の先祖でも、有りました。
「モンゴルの襲来」は、1度目を「文永の役(ぶんえいのえき・1274年)」と言い、2度目を「弘安の役(こうあんのえき・1281年)」と、言いました。起きた時代は、鎌倉時代で「鎌倉幕府・第8代執権・北条時宗公」のときでした。「貞綱公」が、出陣したのは、2度目の「弘安の役」のときでした。そのときに「執権・時宗公」の御命令により「6万人もの御家人達」を、引き連れて、九州に出陣しました。




