04S.清原姓芳賀氏と天武天皇
「下野岡本氏」には、定冠詞が付いて居ます。それは「清原姓芳賀氏庶流・岡本氏」のことです。「庶流」とは、名字の違う分家のことを言い「庶家」とも、言いました。岡本氏の初代の御名を「岡本富高公」と、言いました。鎌倉時代の後期から南北朝時代の頃に、父親で有る「芳賀高久公」の次男として、生まれました。そして独立の際には「芳賀氏の所領」を、分けて貰い、富高公は「岡本郷の領主」と、成りました。
その地名から、この名前を名乗りました。因みに「岡本郷って何処なのか?」「その者」は、興味を持ちました。その為、良く調べて見ますと今現在、栃木県宇都宮市の広域地名〝下岡本町・中岡本町・上岡本町″を、指す言葉として、残って居ました。」彼の先祖は、当時その辺りの所領を「父親から与えられた」と、思われます。
「下野岡本氏」は「芳賀氏の分家」でした。芳賀氏にも、定冠詞が付いて居ます。それは「清原姓」でした。即ち「清原姓・芳賀氏」です。しかし清原氏には、定冠詞が、有りません。それは何故でしょうか。それは「清原」を、名乗る前には、名字が無かったのです。ただ名前のみが、有りました。それは何故でしょうか。
それは「清原」を、名乗る前は「日本国の天皇」だったので名字が、有りませんでした。「清原姓芳賀氏の始まり」は「日本国の第40代・天武天皇」から始まりました。
「天武天皇」とは、西暦672年の皇位継承問題から起きた「壬申の乱」と言う、古代日本最大の内乱に「勝利して」皇位に就いた天皇でした。そして日本国最古の歴史書と言える「古事記」と「日本書紀」の編纂を、指示した天皇でした。「清原氏」は、この御方を起源として、始まりました。
御子の名前が「舎人親王様」と、言いました。この系譜で「天武天皇」から5代目のときに「夏野公」が、現れました。そして、この御方は「清原姓」を、望んだ為に、時の天皇で有る「第50代・桓武天皇」より、許しを頂いて「清原」を、名乗りました。この「清原夏野公」が「清原姓・初代」に、成ります。
それから平安時代の頃です。「夏野公」から数えて5代目に「清原吉澄公」が、居ました。その子の「高重公」が「第65代・花山天皇」の勅勘を、被ったので「下野国・芳賀郡大内荘」へと、配流にされました。その地名により後に「芳賀氏」を、称するように、成りました。「当時の文献」には、次のような記述が、有りました。
「清原吉澄公は「滝口蔵人(御所の警備員)」でした。そして息子の「高重公」も、それでした。しかし高重公は、何かをしてしまったようで、花山天皇を怒らせました。その為、彼は左遷されました。その場所が「下野国・芳賀郡大内荘」でした。
その後、子孫の「高澄公」が「前九年の役(1051年)」のときに「源頼義公の軍」に従い、軍功を獲得したことにより「高重公の罪」を、許され「第70代・後冷泉天皇」により、再び「滝口蔵人」に、任ぜられました。高澄公は「先祖の名誉」を、回復して以後13年間、京での生活をしました。それから拠点と成った「芳賀郡大内荘」へと戻り、本格的に「芳賀姓」を名乗り、そこで暮らしました。
この「初代・芳賀高重公」から「7代目の芳賀高親公」のときに「紀党の益子正重公」と共に「源頼朝公の奥州合戦(1189年)」に、参加して「宇都宮氏の第3代当主・朝綱公」の有力武将として、従軍しました。以後「宇都宮氏の属下」と成り「益子氏」と並び「紀清両党」として、武勇を誇りました。この「芳賀高親公」の跡に高秀公・高行公・高禎公・高俊公・高直公・高久公と、続きました。
「芳賀高直公」には、男子が居ませんでした。そこで主君で有る「下野の守護大名」「宇都宮氏の第7代当主・景綱公の4男・高久公」を、娘婿として迎えました。以降は「宇都宮氏の一門」と、成りました。「高久公の嫡男・高名公」は、出家して「芳賀禅可入道」を、名乗りました。そして彼の「5代目の子孫」で有る「正綱公」は「宇都宮氏・第15代当主の明綱公」が、嫡子も無く、早死にしたので、正綱公の母親が「第13代当主・持綱公の娘」だったことから「第16代当主」として、迎えられました。
その為この「芳賀禅可公」も「その者」の先祖に、成りました。そして初代・高重公から数えると、彼の代で「芳賀氏33代目」位に成り「清原姓で数えると39代目」位と、成りました。
「その者」の先祖を、辿って行くと、何と「日本国の天皇家」にまで、繋がりました。これは、中々凄いことです。その為「日本国の神」で有る「天照大御神様」は、彼の御先祖様に、成りました。天照大御神様は「孫のニニギノミコト様」に、仰いました。「天より出でて、地上を統治せよ。(天孫降臨です。)」それゆえ末裔で有る「天皇家」は、日本国を古来より統治する義務が、有りました。
「芳賀氏の御先祖様」は「天武天皇」でした。「その者」は、余りこの天皇を、良く知りませんでした。名前は、聞いたことが、有りましたが、殆ど何も知らない「天皇」でした。彼は現代人なので「昭和天皇や平成の天皇」は、良く存じて居りました。後、知って居る天皇と、言えば「明治天皇とか、後醍醐天皇」位でした。この御方達も、とても有名な方々でした。
「その者」の先祖は、源氏で有り、平氏でしたので、その御方達の出自で有る「清和天皇と桓武天皇」は、個人的には良く存じ上げて、居りました。しかしその方々よりも、もっと大切な天皇が、いらっしゃったのです。全くの「ノーマーク」でした。その御方は「飛鳥時代の御方」で、名前を「第40代・天武天皇」と、言いました。
この御方を調べると、中々「凄い天皇」でした。「第38代天皇」には「天智天皇」が、居られました。この御方の弟君が「天武天皇」でした。この2人は兄弟でした。元々、天智天皇の跡は、この弟君で有る天武天皇が、引き継ぐ筈でしたが、天智天皇の身分の低い側室が、生んだ息子を「我が子可愛さ」の余りに「次の天皇」に、選んだ為に「天武天皇の不満」が爆発、そして内乱が起きました。「天智天皇」は、結構強引な方のようで、回りに不満が有ったようでした。その為「大乱」に、成ったようです。
その「大乱の名」が、世に言う「壬申の乱」と、呼ばれるものでした。第38代・天智天皇の太子・大友皇子(第39代・弘文天皇)に対して皇弟・大海人皇子(第40代・天武天皇)が、兵を挙げて、乱が勃発しました。
反乱者でした「大海人皇子」が、勝利をすると言う、日本では例を見ない内乱でした。結果「弘文天皇」は、叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北して、首を吊り自害しました。「天武天皇」は「壬申の乱」に勝利して、次の天皇に、即位しました。
また日本で始めて「天皇」を、唱えたのも、この「天武天皇」だとする説が、有力でした。一説には天皇とは、もと天武と言う「只一人の偉大な君主の為」に、用いられた尊称で有り、彼のカリスマ性を継承する為に、天皇を「君主の号」とすることが、後に定められました。
また「日本」と言う国号を、初めて採用したのも「天武天皇」とする説が、有力でした。天武時代に成立して『日本書紀』編纂に、利用された『日本世記』の存在等が、理由と言われました。
「日本」と言う字に、込められた意義には「日」を中心にした、国と言う思想を、表したもので、神が天から降した「日嗣」が「代々の君主で有る」とする神話に、即したものとする説や、単に「東方の美称」と見るなど、諸説が有りました。また日本国最古の歴史書と言える「古事記」と「日本書紀」の編纂を、指示した天皇でも、有ります。
この天皇の名前には「武」と言う文字が、入って居るように「武闘派の天皇」でした。「壬申の乱」を、引き起こして「勝利」をして、力尽くで「天皇」に、成りました。またそのような強運を、持った天皇でした。そして「天皇」とか「日本」と言う言葉を、初めて作り「呼ばせた天皇」でした。また「日本国・最古の歴史書」を、作った天皇でも有りました。彼は「文武両道に長けた、優れた天皇」だったのです。
この「天皇の子孫」で有る「芳賀氏」が、武勇に優れて、仕えた「将軍・源頼朝公」から、認められると「源氏将軍のシンボル」とも言える「源氏の御旗(白旗)を、直々に与えられて、称えられた。」と言うのも、良く分かるような気がします。




