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03S.塩谷(しおのや)源氏

「その者」の父親が、言うには「うちの家系は、源氏で有る。」と、言いました。しかし彼の父親は、既に他界して居るので、それ以上は、聞けません。試しにネットで調べると「彼の先祖」は、そこそこ「有名な一族」のようで、ネットで調べると、色々出て来ます。


「その者」の母親の方は、ただの百姓だったので、調べて見ても、何も出て来ません。「只の者は、何も無い」のです。「彼の先祖は、侍でした」が、分家の分家で有り、そのまた、分家のような「枝葉の一族」でした。幸い有名な「大木の枝葉」でしたので、自分達の先祖が「容易に探し易い」と言う、利点が有りました。


昔NHKの大河ドラマで「草、燃える」と言うものが、有りました。内容は「鎌倉幕府」を、開いた「初代・源頼朝公の御話」です。「その者」は、当時このドラマが、大好きでした。初めてNHKの「大河ドラマ」を、毎週楽しみに、見て居ました。彼は、このドラマで「源氏の一族」と、言うものを、初めて意識しました。


また登場人物で有る「北条時政公」や「北条義時公」それに「北条政子様」にも、興味を持ちました。後「頼朝公」の古くからの侍従で有る「安達盛長公」と、滅ぼされた「比企一族」何とも「印象深い人達」でした。当時は、そのドラマを、そのように、思いながら、見て居ました。


実は「その者」の一族を、良く調べて見たら、分かったことが、有りました。それは、この人物達は、実は「彼の御先祖様」で有り、または「親戚」でした。こんなに興味深いことは、有りません。


将軍でした「源頼朝公」や「足利尊氏公」は「河内源氏かわちげんじ」と、呼ばれた「源氏」の一族でした。元を辿れば「第56代・清和天皇せいわてんのう」の末裔が、名乗ることが、多い姓でした。「河内源氏」とは「河内国(現在の大阪府の一部)」に、根拠地を置いた「清和源氏の一流」でした。一般的に武士で「源氏」と言う場合が、この系統を指すと、言われました。「源」とは「皇室と祖(源流)を、同じくする」と言う、意味から来ました。


「清和源氏の一流」で有る「源八幡太郎義家みなもとの・はちまんたろう・よしいえ公」は「源氏の始まり」と、呼ばれた「大変有名な御方」でした。それは「源頼朝公」や「足利尊氏公」の御先祖様で有るので、そのように、呼ばれました。この御方は「関東の地」に、所領を持たれ、その地は現・群馬県の太田市や高崎市辺りと、末裔の1人は、栃木県の足利市辺りを所領としました。


その後、嫡男で有る「義親公」は「対馬守」に、任じられて、そのまま九州へと、赴きました。しかしそこで、何回か「酷い事件」を、起こしました。その為「刑罰」に、処せられました。義親公には、何人か子供が居りました。彼の子供で有る「為義公」や、未子の「頼純公」は、その代表でした。そして為義公からは、孫で有る「頼朝公」が、生まれました。そして、頼純公からは「塩谷しおのや氏」が、生れました。その一族は「その者」の先祖でした。


その後「義家公の所領」は、彼の4男で有る「義国公」が、継ぐことに成りました。「義国公の嫡男・義重公」は、先祖伝来の所領を、継ぐことに、成りました。そして姓名を「新田にった」に、改めました。そして、この「新田義重公」も「その者」の先祖でした。


この「御方の娘」は「甲斐の武田氏」に嫁ぎ、次の「武田家の当主」を、産みました。その子孫に「武田信玄公」が現れ、信玄公の弟「信廉公の娘」が、武田一門筆頭格に当たる「馬場氏の養女」と、成りました。そして「大久保彦左衛門・忠教ただたか公」の妻と成り、その子孫が「その者」の「先祖の本家」に、嫁ぎました。


「源義国公」の次男が「義康公」と、言いました。彼が、義国公の「新たな開墾地」で有る「現・栃木県の足利市」の所領を、引き継ぎました。その為、新たな地名から「足利氏」を、名乗りました。そしてこの義康公が「足利氏の初代」と、成りました。この義康公の跡を、継いだのが「義兼公」で有り、彼は早い時期から、自分に取って、最も近い有力者で有る、親戚筋の「源頼朝公」に、謁見を許されて以降は、就き従いました。


「鎌倉幕府」から「足利氏」は「頼朝公の御一門」として、大事にされ「北条時政公の娘・時子様」が、嫁いだりして、幕府内で力を持つように、成りました。結果的に「新田氏」よりも「強くて大きな勢力」に、成りました。


「塩谷源氏の祖」で有る「源頼純みなもとの・よりずみ公」は「頼朝公の祖父・為義公の弟君」でした。この御方は「平安時代の後期」の生まれでした。そして「その者」の「御先祖様に当たる妻が〝凄い美人″だった」と、言うのです。彼女の名前も、残って居ました。御名を「塩谷弥生しおのや・やよい様」と、言いました。また別名が有り、住んで居る「城の名前」から取って「堀江弥生ほりえ・やよい様」とも、呼ばれました。


「塩谷頼純公の正室」で有る「弥生様」は、その美しさから「下野国の国司」に、目を付けられ、弥生様を手にする為に、その者は「弥生様の父親」の「原重房」に、命じて「頼純公」を、討たせました。これを悲しんだ弥生様は、頼純公との子供で有る「月若丸(後の塩谷惟純)様」を、乳母に託して「逃がして」自分は、自害しました。それはとても悲しい「その者」の「御先祖様の物語」でした。ここで、注目すべきポイントが、1つ出ました。それは「塩谷源氏には、美女が居た。」と、言うことです。


その後、平安時代の末頃に「頼純公」から数えて5代目の「塩谷朝義公」には、男児が無く「娘婿」として、主君で有る「宇都宮氏の第4代当主・宇都宮業綱なりつな公」の男子を「婿養子」に、迎えました。そしてこれ以降は「宇都宮氏の一門」と、成りました。ここで大事なポイントが、出ました。それは「塩谷氏の6代目は、宇都宮業綱公の息子・朝業ともなり公で有る。」と、言うことです。


その後「頼純公」から19代目の「塩谷隆綱公」のときにも、同じように、男子が無かったので「娘婿」として、当時関係が悪化した「本家筋の宇都宮氏」との関係改善を、図る為に「宇都宮氏の第16代当主・宇都宮正綱まさつな公」の4男「孝綱公」を、婿養子として、迎えました。そして、この御方の孫が「塩谷義通よしみち公」と、成りました。


この「孝綱公の母親」は、越後上杉家10代当主の「上杉房顕ふさあき公」の娘でした。「その者」の先祖で有る、越後上杉氏の初代当主「上杉憲顕のりあき公」は「足利尊氏公」の従兄弟でした。そして後に16代当主には、あの「上杉謙信公」が、現れることに、成ります。ここで大事なポイントが、出ました。「塩谷義通公は、あの上杉氏の血を引いて居た。」と、言うことです。


「塩谷義通公」は「父・義孝公の長子」でしたが、母親が側室の「岡本氏の娘」だったので、正室の子供で有る弟の「義綱公」が、家督を継ぎました。しかし「豊臣秀吉」の「小田原征伐」に、直接参陣しなかった為に「秀吉に詰問されて」挙句に、所領を破棄して「出奔」しました。その為、その跡を「義通公の次男」で有る「保真やすざね公」が、跡を継ぎました。そしてその「御方の末裔」が「塩谷氏」を、継いで行くことに、成ります。そして初代から数えると「その者」の代で「塩谷氏37代目」位に、成ります。

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