19S.桓武平氏・平忠常流・千葉氏庶流「相馬氏」
この物語は「全17話」ですが「第18話」を「あとがき」とすると、この「第19話」以降は「番外編」とでも、言えるようなものに、成ります。「この題材を、元にして〝新たな物語″を、作ろうか」とも、思いましたが「新・坂東武者の誉れ」の「新たな1ページ」として、加えることにしました。
私は、以前から「この一族」に、関心を持ちました。「私の一族」とは直接、関係が有りませんが「相馬氏」の一族とは、途中までは「共通の先祖」を、持ちました。それが、表題に成って居る「桓武平氏・平忠常流・千葉氏」です。
「相馬氏の一族」とは、現・福島県相馬市中村地区一帯を、治めて居た「所領6万石の守護大名」でした。この一族については、余り詳しくは、知りませんが、偶にテレビや、ネット等で「相馬野馬追」として、放送されたものを、以前見たことが、有りました。その「馬追」とは、その「土地の神社(中村神社)」で、毎年行われる「祭礼」でした。
「相馬野馬追の起源」は、鎌倉幕府誕生前に「相馬氏」の先祖で有る「平将門公」が、領内の「下総国相馬郡小金原(現・千葉県松戸市)」に、野生馬を放して、敵兵に見立てて「軍事訓練」をしたことに、始まりました。鎌倉幕府成立後は、このような軍事訓練が、一切取り締まれましたが、この馬追は「神事」と、言うことで、まかり通った為に、脈々と続けられました。その起源は「平将門公」由来だったのです。
この一族は、世間一般では「小さい大名」でしたので、知名度も低く、余り表舞台にも、出てこないので「ネットで知るまでは、全く知りませんでした。」しかし「私の先祖」を、調べる内に、この一族は「平将門公」の子孫で有り「千葉氏」の分家で有ることを知ると「急に身近な存在」に、変わりました。それは「この一族は、家の先祖の遠い親戚なのか」的な、見方に変わったからです。
この一族は「下野岡本氏」の先祖で有る「芳賀氏」や「宇都宮氏」の一族と、同じように「文治5年(1189年)」の「奥州合戦」で、戦功を上げて「源頼朝公」より、直々に「陸奥国行方郡(現・福島県相馬郡)」を、与えられました。また「元享3年(1323年)」に「相馬重胤公」が「行方郡小高(現・南相馬市小高区)」に、移住してその地を、本拠地としました。そしてこの方が「奥州相馬氏の祖」に、成りました。
この一族は、一時期「豊臣秀吉」に従い「徳川様」とは、敵対関係に、成りました。その為「関ヶ原の合戦」以降は「改易」されたりしましたが「徳川家光公」が、誕生の折には、何故か本領を安堵されました。そして幕末まで「外様大名」として、存続しました。それは「合戦時」に徳川軍に、参加することもなく、また豊臣軍に、参加して戦うことも無かったので、一時的に意地悪されて「改易扱いされたのではないか」と、思われます。
また、この一族は「平将門公」を冠した、その末裔の為か、歴代当主は「代々戦上手」で有り「奥州の覇者」と、言われた「伊達政宗公」との度重なる戦に於いても、怯むこと無く、抗争を繰り返しました。また「侍の時代」が、終わって「150年」経ったこの現在に、於いても「会津(福島県)」と言う地に於いて、未だに「その存在感を、誇示し続けて」居ます。
その「馬追の姿」を、見て居ると、現代人に「新皇様」と言う「平将門公軍団」の気概を「現在の我々」に、見せてくれて居るように、思われます。それは現在にまで、引き継がれた「新皇様の軍勢」そのものなのです。そのことも有り私は、彼等を気にして居るのです。
またこの「相馬氏」の居る「福島県」と言う地方は、有名な勇ましい少年部隊で有る「白虎隊」が有り、また幕末時代に、その名前を轟かした「新選組」も、この地方の出自でした。彼等主要メンバー達「近藤勇や土方歳三等」は、実は侍階級の者ではなく、その出自は、侍に憧れた「裕福な農民階級の者」でした。そして、その者達が「剣技の道場」に通い、そこで知り合った者同士が、後に有名に成る「〝新選組″の主要メンバー」に、成りました。
そして彼等は「道場主の伝手」が有り、その後「徳川様の幕臣」として、採用されました。そのことも有り「隊長の近藤勇」等は「侍として会津藩に、取り立てられた〝御恩″に、報いる為に〝徳川幕府の為″に、徳川の敵と成る〝尊王攘夷をする者″の粛清を、執り行う〝殺人集団″」に、成りました。有名な「坂本竜馬」等も、彼等に殺されたようです。
私の母親が、この福島県の近隣で有る「茨城県」の出身で有り、その母曰く「茨城県人は、一度怒ると、とても怖いのだぞ。」と、いつも言って居ました。「平将門公」は、この茨城県に在る「筑波山」に、拠点を持ったことも、有ります。
また同じ、近隣県で有る「栃木県」には「宇都宮氏」の所領が有り、その本隊で有る「紀清両党」は「勇猛果敢」で、有名でした。私が昔、仕事で行った「栃木県・鹿沼市」に、協力会社の老齢な社員の方は「近隣県人は、皆兄弟なのだ。」と、言われたことが、とても印象的でした。またこの辺りの方言は、茨城・福島県と、同じものです。
この「相馬の一族」で、注目に値するのが「殆どの侍時代に於いて、頼朝公より頂いた所領を、ただの一度も、失うこともなく、明治の時代まで、所有し続けたこと」に、有ります。彼等は「6万石の大名」でしたが、その所領を失うことなく「700年間」その地の領主で、有り続けたのです。それは他家には、決して真似することの出来ない「大きな誉れ」で有ると、思われます。
「相馬氏」は、その出自が、平氏で有る為「日本国の第50代・桓武天皇」の末裔に、成ります。平氏と言えば「源平藤橘」と、言うことで、それらは「日本の4大貴族」と、呼ばれて居ます。「橘氏」は、繁栄しなかったようで、その末裔を余り聞きませんが、その出自で、有名な武将が居られます。その方を「楠木正成公」と、言います。
「現在の皇居」入口付近に、とても大きくて、立派な「武者の銅像」が、置かれて居ます。その武者像が「楠木正成公」です。初め何故その武者が、このような場所に、設置されたのか、良く分かりませんでした。後で調べると、この方は「天皇家の南北朝時代」のときの南朝として、対立して居た「足利尊氏公」に、追い遣られた「後醍醐天皇」を、最後まで守り切った「南朝の守護神」として「天皇家」に、称えられた武将で有ったようです。また一概には「ここに居られる陛下は〝南朝の天皇″で有ると、知らしめる為に、置かれた。」とも、言われて居ます。
そして、桓武天皇の5代目の子孫に「平将門公」が、出現しました。そして「将門公の娘・春姫様(次女)」が、同じ平氏の一門の処に嫁ぎ、息子「平忠常公」を、産みました。その為この「子息の系統」を、特別に「平忠常流」と、呼びました。それは、彼の母親が「平将門公の娘」で有ったからです。
そして「平忠常公」から、4代目の「平常兼公」より「千葉氏」が、始まりました。その後「千葉氏の第3代当主・千葉常胤公」の次男・師常公より「相馬氏」が、始まります。そして、この「常胤公の末裔」で有る「千葉氏の第9代当主・千葉宗胤公」の娘が「下野の守護大名」で有る「宇都宮氏の第9代当主・宇都宮公綱公」の元に嫁ぎ「第10代当主・氏綱公」が、お生まれに成りました。この氏綱公は「下野岡本氏」の先祖です。




