18S.将軍の末裔
この物語は「前回の分」で、終了しました。しかし「初回の公開」からは大分経ち、大分手直しをして今回、新しく「再公開」しました。通常で有れば、これで終わって居たのですが「新しい分」として、追加したい話が出たので、加えました。
この物語は「その者」を、主人公として、或るときは「下野岡本氏」を主人公として、話を進めて来ました。実は「その第3者達」は、紛れもなく「自分自身を指した言葉」で、有り「私の先祖」で有り「私の親戚の物語」でした。それは「私の先祖・・・」で、始める文体では、羞恥が有ったので、第3者を設けたのです。その結果、このような形で、公開することが、出来ました。「私の系譜」は、たくさん居る子孫達の中の「雑多な1つの系譜」に、過ぎないものです。
「私の母親」は、今年90歳近い年齢で有り、2年前に足腰が弱く成り「寝たきり」に、成りました。そのことも有り、今は会社を辞めて「母親の介護」をして居ます。子供として「母親の最後」を看るのは「当然の義務」で有ると、思って居るからです。これは、長子だけではない「全ての子供の義務」なのです。
その為、今は「介護サービス」を、受けて居ます。週5日の「訪問介護」と、月2回の「訪問医療」と、寝たきりなので、関節が固まるので、週2回の「訪問マッサージ」も、受けて居ます。そして「訪問入浴」も、週2回、利用させて頂いて居ます。
「家の先祖は、源頼朝公の〝乳母(寒河の尼)″を、輩出しました。そして〝比企の尼″は、先祖に成ります。鎌倉幕府の有力御家人と成り、その幕府滅亡後は、次の将軍家で有る〝室町幕府″の有力御家人に、成りました。そして家の先祖は、悪い奴等に、改易されて所領を、失いました。しかし〝親戚の者″が、最後の将軍家で有る〝江戸幕府″の有力御家人で有ったので、その親戚の口利きが有り、家の家系は、最後の将軍家の〝旗本″として、仕えることが、出来ました。」
「家の先祖で有る〝大久保彦左衛門″が、彼の子孫の為に、書かれた書物が、有ります。その書物が有名な〝三河物語″です。そしてその書物の初めの部分には、彼の子孫に向けた〝戒め″が、書かれて居ます。それは〝絶対に主君で有る、徳川様を裏切るな″もし〝お主(子孫)達″が、裏切れば、自分達が、徳川様に仕えて来た忠義が、全て〝無駄な行為″として、終わるだろう。」と言う「強力な戒め」です。そのことが「徳川氏最古参の配下」で有り「三河武士の末裔」で有る「彼等の生き方の基本」だったのです。それは一代限りでは無く、何世代にも渡り、その戒めを守って「大久保の一族」は、生きて居たのです。
彼等は「自分達は、こんなにも忠義を尽くして、徳川様に仕えて来たのに、将軍家は〝新参者の配下ばかり″を、優遇して居る。」と言う「強い不満を持ち」愚痴を、子孫に零して居ました。自分達の「将軍家に対する貢献度」が、目に見えて上げられない「焦り」が、有ったのでしょう。しかしそれは、人として「当然の感情」なのです。
家の一族の系譜は「初代を源頼朝公として、室町将軍、江戸将軍家」と、700年間、将軍に仕えて来ました。その間に、手柄を立てて「源氏の御旗」を、頂いたり「将軍の一字」を、頂いたり「葵の御門入りの陣羽織」を、頂いたりしました。それは、将軍に仕えて来た一族としては「大きな誉れ」を、頂けたのです。
私は、或る意味「この物語の系譜の〝最後の当主″」に、成ります。侍の時代で有る700年が終わり、その後150年経ちました。今は頼朝公の末裔は無く。また尊氏公の末裔は、行方知れずです。しかし徳川様最後の将軍で有られた「徳川慶喜公」の末裔の1人が、私の前に現れてくれました。
「その彼」は30代前半の若者でした。彼は「訪問入浴」の「介護スタッフ」に成って、居られました。そこの事業所長が「歴女」で有り、私の先祖話を、喜んで聞いてくれたりしました。また彼女のスタッフの1人の若者に、私が「私の家系は、源氏の一族の端くれ、なのだ。」的なことを、話したことが、有りました。その後、彼が家に、来てくれたときに、彼も「家も、源氏の一族です。」と、答えてくれました。
そして何と、彼は「僕の祖母の祖父は〝徳川慶喜公″です。」と、教えてくれたのです。そのとき私は、驚きました。こんな身近な場所にも、居られたのです。そこの「訪問入浴スタッフ」は、家が母親と、言うことも有り「女性2人と男性が1人」と言う、チームで有り、男性スタッフが、車を運転して、家まで来てくれました。その「男性スタッフ」が、恐れ多くも「慶喜公の末裔」だったのです。
彼が色々、教えてくれました。まず彼は「学生の時に〝ロッククライミング″をして居たと、話してくれました。またそれが、趣味だと言いました。」また「知り合いに、スペイン人が居る為、今スペイン語を習って居る。」と、教えてくれました。また他の男性スタッフが、教えてくれましたが「会社の飲み会が、終わった後の〝二次会″は、カラオケでは無く、その彼が好きだと言う〝ダーツ″を、遣りに行く」と、教えてくれました。
私は「その彼」の趣向を聞くと「私自身は直接、慶喜公には、会ったことが有りませんが、その彼の趣向が実に〝慶喜公の気質″を、物語って居るように、思いました。」彼は非常に「慶喜公臭い人物」だったのです。それを「私の身体の中に流れる、その遺伝子が、教えてくれました。それは、私の中には〝本物の慶喜公″を、知って居る遺伝子を、持つからです。」
慶喜公の末裔の1人で有る「その彼」が、言うには「自分は慶喜公の孫の孫で有り、彼の母親が、慶喜公の孫の娘で有る。」と、教えてくれました。また彼の母親の実家が、愛媛県で有り、今年の10月頃に「徳川家、第15代将軍・徳川慶喜公」と、直接会話して、接したことが有る「唯一の生存者で有る」彼の祖母が、亡くなったそうです。彼は、とても残念そうに「祖母の死」を、教えてくれました。
私は、その話を聞くと、驚きました。それは「まだ〝最後の将軍″を、知って居る人物が、この世に生きて居たのです。」それは私が、このような物語を、書いて居たので、密かに「教えてくれたものだ」と、思って居ます。また「その彼」から直接、教えて頂いた「慶喜公」は「兎に角、写真が大好きで有り、カメラ好きで有ったようです。」また写真の勉強をする為に「香港に渡り、そこに一時期、住んで居た。」ようです。そして末裔で有る彼が、言うには「良く慶喜公は〝殺されず″に、生きて居た。」と言うのが、末裔達の本音だったようです。香港に行ったのも「国内に居ると自分は、殺されるかも、知れない。」と言う、危機意識を、持ったからでしょう。
「家の先祖の系統は、長い間〝大久保彦左衛門″の訓示通りに〝主君(将軍)″の為に、気の遠くなるような、長い時間、仕えて来ました。そして侍の時代が終わり、今の時代を含めて「850年」経ちました。すると「将軍の配下」で有る、一族の系統の「1つの家庭」に、その系統の「最後の当主」で有る、私が居ました。
私の母親は、今「寝たきり状態」と成り、動くことが出来ません。そこに850年の時を超えて、やっと「征夷大将軍」の分身とも言える「末裔の1人」が、我が家を訪ねてくれました。そして私の母親に「労いの言葉」を、掛けて下さり「入浴」を、手伝ってくれます。「湯加減は、どうですか。何処か痒い所は、有りますか。大丈夫ですか。」等と、気遣いながら、私の母親を、お風呂に入れてくれるのです。
「その彼」は、長い間「将軍の配下」で有った者の「末裔の1人」の母親を、お風呂に入れる為に、その会社のスタッフと成り、家の家系に、来て下さいました。私は、そう思って居ます。それは、大変有難いことです。家に、いらっしゃったのは「意味」が、有ったのです。そのとき、私は「家の先祖は、報われた。」と、思いました。




