17S.徳川慶喜公と大正天皇、そして源平交代思想
「徳川慶喜公」と言えば「徳川御三家」の1つで有る「水戸徳川家」から出た「徳川様・最後の将軍」でした。この御方が「江戸幕府・最後の将軍」と、成られた結果、歴史上で名高い「大政奉還(1867年)」が、執り行なわれることが、出来ました。
「反幕府軍中枢」と、言える「薩長連合」は「徳川幕府及び、将軍」を、力尽くで、滅ぼしたくて、色々策を講じたようでした。しかし将軍家・第13代・第14代将軍の御台様の「御実家(島津と朝廷)」への「文の御力」のお陰で、流血を見ることも無く、無事安全に「徳川政権の天皇への移譲」を、執り行うことが、出来ました。
「西郷隆盛」等は、将軍を始末したくて、しょうがなかったようですが、この「慶喜公」が「第15代将軍」と、成られたことで、全く手出しが、出来なく成りました。それは「慶喜公の母親」が「皇族出身者」と、言うことも有り「明治天皇」からは、厳しく「手出し無用」と、言われたからでした。
この「薩長連合」の薩摩の「島津氏の先祖」は、九州人のように思われますが実は、その昔に、鎌倉幕府に仕えて居た「鎌倉の御家人」でした。「島津氏の祖」と、言われた人物の名前を「島津忠久公」と、言いました。この「御方の母親」が「比企の尼」の娘だったので「源頼朝公」からは、大変可愛がられて「頼朝公の御命令」で「南九州の守護」を、命じられました。そして、その地に下って行ったのが「九州の島津氏」の始まりでした。
また「長州の毛利氏」ですが、この者の先祖も「鎌倉幕府の御家人」で有る「大江広元公」の末裔でした。「広元公の4男」に「毛利季光公」と言う「現・神奈川県厚木市(毛利の荘)」の領主と成った者が、居ました。その地名より、この末裔は「毛利」を、名乗りました。「毛利」と言うのは「現・神奈川県・厚木市の旧名称」から、来て居たのです。
そして、この「季光公の末裔」が「中国・山陰地方」に、移住して、その者の中から「中国地方の覇者」と、言われた「毛利元就公」が、現れたのです。この両氏族は、元々関東に居た「頼朝公配下の御家人達の末裔」でした。また「大江広元公」から6代目の末裔に「足利高経公」が、現れるので、この「広元公」は「下野岡本氏」の先祖でも、有ります。
「慶喜公の御出身」で有る「水戸徳川家」とは、家康公が晩年に成り、お生まれに成った「末子達3人」を「特別」に、御引き立てをして「御三家」として、所領を与え、2代将軍と成られた「3男・秀忠公」に、後を託しました。「水戸家の祖」は、家康公最後の男児で有る「第11男・徳川頼房公」でした。他に水戸家では、2代藩主と成る「徳川光圀公」が、大変有名です。
「下野岡本氏」の直近の先祖が「水戸藩士」と、言うことも有り「徳川慶喜公」は、取り分け自慢したく成るような「立派な将軍様」でした。また「その者」の代から、最も近い「先祖の主君」で有り、将軍で在られたので、個人的にも尊敬して居ました。
また「徳川第8代将軍・吉宗公」の嫡男で有る「第9代将軍・家重公」ですが、この「御方の母親」の名前を「深徳院様」と、言いました。紀州藩士で有る「大久保忠直公の娘」でした。そして、この「忠直公の妻」が、大久保彦左衛門・忠教公の兄上で有る「忠為公の孫」でした。従って忠教公の兄上の5代目の子孫が「家重公」と、成ります。
そして、その嫡男で有る「第10代将軍・家治公」も同じ「大久保将軍」と、言えます。「大久保氏」は、こうしてしっかりと、徳川将軍家に「宇都宮氏」の血を、入れることが、出来ました。しかし残念ながら「家治公の嫡男・家元公」は、将軍宣下を受ける前に、他界したので「大久保将軍」は、この二代のみで、終わりを告げました。
「下野岡本氏」は、こうして幕末まで「将軍の旗本」として、生き残ることが、出来ました。そして「明治」と言う「新しい時代」を、迎えました。「下野岡本氏」は「源頼朝公」が、鎌倉幕府を開いてから「徳川慶喜公」が、政権を天皇に返還するまでの約700年間と言う長い期間を、将軍様と共に過ごしました。「侍の時代」が、終わってしまうと「大部分の侍達」が、没落しました。それは皆、所領を失ったからです。皆「等しく平民」に、成りました。
「その者」の「曾祖父の前の代」までは「侍」でしたので、話を聞くと、紋付き袴を着て、遊んで暮らして居ました。全く羨ましい話です。幾らか「家宝」を、持って居たので、売りながら金銭を得て、生活して居たようです。その為、末裔には、それが無くなり「貧乏」に、成りました。皆、子孫達は、身を呈して働いて居ます。
「その者」の父の話によると、彼の系統は、大正時代に成ると「大正天皇」の侍従をして居ました。彼は、その話を聞くと「何故、家の先祖は、侍従に成ることが、出来たのか」と、疑問を持ちました。しかし彼の系統は、侍で有り「水戸藩士」だったので、侍従に成れたのではないかと、勝手に思って居ました。
それは「水戸家」が「将軍家」で、有りながら「尊王攘夷の家柄」で有ったからです。「その為、水戸家の家臣達は、優遇され〝天皇家の侍従″として、取り立てて頂けたのか」と、推論しました。しかし「その者」の先祖が、侍従に成れた理由は、良く分かりません。
今は「こうして〝下野岡本氏のルーツ″が〝清原姓・芳賀氏″だったので、先祖が皇室出身者(第40代・天武天皇)だったので〝侍従″に、成ることが、出来たのだ」と、思って居ます。また「その者」の家には「大正天皇とのエピソード」も、伝わって居ます。
「大正天皇」は、望遠鏡が大好きで有り、良く「侍従の顔」を、望遠鏡から覗き込んでは「〝その者″の先祖の顔」を、見て居ました。このときの望遠鏡は、多分「長い一本の筒状の物ではないか」と、思われます。そして宮様は「鬼ごっこ」が、大好きで有り、宮様が鬼と成り「その者」の先祖が「隠れる役」をしました。そして、鬼役で有る宮様が、彼の先祖を見付けると「これ、これ見付けたぞ」と言って、手にした望遠鏡で、その先祖の頭を、ポコポコと叩くと、その先祖が、手を出して、宮様から、お小遣いを貰いました。
今、現存する宮家は殆ど、この「大正天皇の子孫達」です。大正天皇の最後は・・・。また父君で有る「明治天皇」が、新潟に旅行に、行かれたときは「その者」の父方の「祖母の実家」が「新潟の大地主の出自」だったので、屋敷を宿屋替わりに、提供したそうです。そして皇居に帰るときに天皇が、宿を提供してくれた、お礼として「明治天皇の椅子」を「祖母の実家」に、置いて行かれたと、聞きました。その椅子が今でも、残って居るかどうかは、分かりませんが、そのような話を聞きました。
大正天皇は、事実上「下野岡本氏」で有る「その者」の先祖の系統の「最後の主君」でした。そしてこれ以降、その系統は「日本国の中枢」からは、一切遠ざかり、全く以って関りを、持たなく成りました。長かった「侍の時代」が、終わりました。しかし侍達は「源平交代思想」と言うものを、信じて居ました。
「源平交代思想」とは「侍の始まり」と、言われた「平清盛」の日本統治から、始まりました。それが終わると「源氏三代」の日本統治が、始まりました。そしてそれが終わると「自称・平氏で有る北条氏」の日本統治が、始まりました。そしてそれが、終わると「足利源氏」の統治が、始まりました。
それを終わらせたのが「自称・平氏で有る織田信長と、豊臣秀吉」と言う、源氏では無い者達の統治でした。「平氏の織田信長」は「源氏の明智光秀公」に殺され、光秀公は、下賤の秀吉に敗れました。そして豊臣家を滅ぼしたのが「自称・源氏の徳川家康公でした。」それに依り、徳川様の長い日本統治時代が、始まりました。
確かに「源平交代思想」と言う、日本独自の支配者体制が交代、交代で成立して居るように、思われます。そして「自称・源氏で有る徳川様」の長い日本統治が、終わりを告げると、今の日本国は「新政府」と言う、源氏では無い者達が、統治する時代が、長く続いて居ます。
徳川様の「自称・源氏の統治」は、約260年間続きました。そして源氏では無い者達が、統治している今の「新政府」は、明治・大正・昭和・平成・令和と、約150年間も、続いて居ます。この統治は「徳川様の治世」に、匹敵する年数に、相当すると、考えられ、これから後100年位は、この状態が、続くのではないかと、思われます。
またこの「新政府」は、得体の知れない「帰化人」達が、大量に入り込み、好き勝手に「日本国」を、運営して居るようです。今まさに「源氏では無い〝得体の知れないもの達″」の支配が、続くように、成りました。その為、急激に、その「統治が終焉」を迎えるかも、知れません。そしてその後に続く「新しい日本の未来」で有る「源氏の統治」が、始まるのです。
「源氏の統治」の象徴は「征夷大将軍」です。将軍本来の意味は「野蛮人を征伐する」とのことです。その為か、今の新政府の「愚かな移民政策」により、得体のしれない「野蛮人」が、大勢跋扈して居ます。「征夷大将軍」とは「武の象徴です。」好むと、好まざるとに関わらず、日本国が、日本国で有る限り、次の時代は「源氏の時代」が、来るのです。
そして後もう少しで、この日本国に「新たに御名」を轟かす、強い「征夷大将軍」が、現れます。或いは、もうその準備が、出来て居て後は、その出現を、待つばかりなのかも、知れません。そして、その「新将軍の元」には、いつも「宇都宮の一族」が、控えて居るのです。・・・。




