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16S. 源氏の御旗と家康公の陣羽織

「関ケ原の合戦(西暦1600年)」時に「家康公の本陣」に、必死の覚悟で、突撃した「敵将・真田幸村」は「無人の荒野」を、駆け巡るが如くに、家康公本陣の深くまで、切り込みました。そこを守るのは「徳川家譜代の〝旗本衆の役割″」でした。このときに「歴戦の勇者」揃いで「屈強」と、言われた「家康公の旗本衆」が、総崩れに、成りました。


最も「臆病な者達」は、本陣から遠く「三里(約12km)」も、離れた場所まで、逃亡しました。 そんな中で「大久保彦左衛門・忠教ただたか公」のみは「自分の配下」を、激励しながら「敵将・真田幸村勢」に対して、果敢に立ち向かって、行きました。それは「大阪夏の陣」のときでした。


「決死の真田勢」の余りの凄まじさに「家康公」は、自害を決意するまで、追い詰められました。家康公を守る処か、我が身可愛さに、逃げ出してしまった者達は、戦後「厳しく処罰」されました。頼みとした「旗本衆」が、不甲斐無い中で、ただ1人だけ「忠教公の一隊」だけが、立ち向かってくれたことに「家康公の感激振り」は、とても凄かったようです。 「大久保彦左衛門・忠教公」は「三河以来の(譜代の家臣)の名誉」を、1人で守りました。


この「敵将・真田幸村」は、この戦いで「日本の歴史上」では、大変有名な人物と、成りました。自分には敵わない「巨大な勢力」に、御恩を受けた「主君の遺児(秀頼)」の為に、果敢に立ち向かって、行ったのです。本人は、例え敵わなくても「何とか、一矢報いたい」と、死に物狂いで、向かったのでしょう。そのことが「日本人の心に、響いた」のです。その為「敵将・真田幸村」は、その名を日本全国に、轟かしました。


この「真田氏」は、戦国時代に於いて「最強」と、恐れられた「甲斐・武田氏の家臣の一党」でした。彼の父親で有る「真田昌幸」は、主君で有る「信玄公」を、大変慕って居ました。昌幸親子は「信玄公の気概」を、心に秘めたのでしょう。そしてこの「武田を止める者は、これまた武田のみ」でした。


「大久保忠教公」は、この時に「武田の最強騎馬武者」の化身と成った「真田幸村」を、唯一引き留めることが、出来る資格を、持ちました。「忠教公の妻」は「信玄公」の弟君で有る「逍遥軒こと〝武田信廉公の娘″でした。」その娘は「武田一族滅亡」後、一門筆頭分家で有る「馬場氏」の養女と成り、馬場氏は徳川様傘下の家来と、成りました。


このときに「馬場氏」の新しき配属先の上司と成ったのが「大久保氏」でした。そして彼女は、縁が有り「彦左衛門の妻」に、成りました。「忠教公」は、新しき「武田の一門」として、迎えられました。「武田氏」は、滅亡しても「武田」でした。「戦国時代・最強」として「恐れられた一族」だったのです。


「家康公」が「葵の御紋入りの陣羽織」を、自分のことを死守してくれた「忠教公」に、下賜したとしても、それは当然のことでした。「家康公の命の危機」が、迫った時に、身を挺して守ろうともしない者を「譜代の家臣」と、言えるでしょうか。


「大坂夏の陣」でのこの件を以って、他の旗本衆が「忠教公」に、頭が上がらなく、成りました。良いところ無しの「他の旗本衆」は「鬼神の如く」に、突撃した決死の「真田幸村勢」に、立ち向かってくれた「大久保彦左衛門・忠教公」に、ただ感謝をしたことでしょう。


うちの先祖は、侍で有る。徳川様の旗本で有り、徳川様最古参の家臣として有名な〝大久保氏″の親戚だった。・・・。」「その者」の父が、言うには「大久保氏とは、そのような関係だった」のです。そして「彼の本家」の人達が、言うには「忠教公は〝とても有名な、家の先祖″」でした。


「大久保忠教公」は「関ヶ原の合戦時」には「徳川様・譜代の旗本」として立派に、その役目を果たしました。そして「家康公」より直々に「家康公の陣羽織」を、頂いたことに、成って居ます。しかし残念ながら「その者」の家系は、分家の、分家の、そのまた分家のような「枝葉の一族」でした。実際に家康公より直接、陣羽織を、頂いたかどうかは、良く分りませんでした。


また聞きたくても聞ける人が、もう居ません。しかし「宇都宮氏の一族」には「将軍の象徴」とも言える「〝魂の御印″を良く、頂きました。」それは恐れ多くも「将軍・家康公」から頂いた「陣羽織のみ」では、有りませんでした。


嘗て「源頼朝公」が「奥州合戦(西暦1180年)」の時にも「宇都宮氏の先祖達」に、手柄を立てた褒美として、頼朝公本人から直接「頼朝公の旗印」で有る「源氏の御旗(白旗)」を「お主らは、坂東武者の誉れぞ。」と、活躍を喜びながら、先祖達に授けて、頂きました。


「宇都宮氏の先祖達」は、このように「歴代の将軍達」から、それぞれ将軍の「御印みじるし」を、授けられて居ました。このことは、他家には無い「その者の家柄」のみに、許された「とても名誉なことで有る。」と、思われます。


「源頼朝公」は、この「源氏の白旗」を、こよなく愛しました。そしてこの将軍様は、独占欲が強く、この「源氏の白旗」は「自分だけの御旗で有る。」と、思って居ました。その為「頼朝公」が、旗上げ時に、やって来た「同じ源氏の一族」で有る「佐竹氏」が、同じように「源氏の白旗」を、高く掲げて、頼朝公の元に参じた時には「その白旗は、私専用の御旗で有るので、お主の白旗には、この〝扇の紋″を入れよ。」と言って、差別化を指示しました。


また「足利尊氏公」からは、直接「氏」の一字を賜り、当時の「宇都宮氏の当主」は「宇都宮氏綱公」と、名乗ることを、許されました。そして「観応の擾乱(西暦1350年)」時には、尊氏公に従い、敵方に就いた「上杉憲顕公」を、追い出して、恩賞として、新たに「上野・越後守護職」を、与えられました。また尊氏公の従兄弟で有る「足利高経公の娘」を、妻として迎え「嫡男・基綱公」を、得て居ます。「足利将軍家」からは「氏の一字と血を頂いた。」と、言っても良いでしょう。


そして「江戸幕府・将軍の徳川家康公」からは、天下分け目の「関ヶ原の合戦」時に於いて「敵将・真田幸村」から唯一、家康公を守り抜き「将軍・家康公本人から直接〝葵の御門入り陣羽織″を、頂いたのです。」


こうして「宇都宮氏の一族」は、歴代将軍家から、直々に「将軍様の魂」とも言える「御印」を、代々頂いて来ました。このことは「他家には無い、当家だけの誉れ」でした。

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