15S.明智光秀公と吉良上野介殿 後編
吉良上野介殿の「吉良氏」は、江戸時代の頃は、所領4200石の「高家・旗本」でした。「高家」と言うのは、没落して所領を失った「高貴な元大名」が、呼ばれた尊称でした。この時代では「9つの家」が、認められ「吉良氏」は、その筆頭でした。
「吉良氏」は「足利源氏の筆頭分家」で有り、一族の中では「将軍家に連なる身分」でした。足利一族の中では「将軍の家族」と言う「身分」を、与えられ、吉良氏自身には役職も無く、所領も兵隊も、所有しませんでした。そしていつも「将軍家の傍」に控えて「将軍家に、跡継ぎが居ないときには、吉良氏の子供が将軍家に入り、次の将軍に成る」と言う「役目」だけを、与えられました。
「室町幕府」には「管領」と言う、将軍職を補佐する役職が、有りましたが「そのような〝面倒な幕府の仕事″は〝他の庶流(名字の違う分家)″に、やらせれば良い。」と言う、理由により「吉良氏」には、何もさせずに、ただ「将軍の傍」に、控えさせた「特別な一門」でした。
まだ「室町幕府」が、存続して居れば「吉良氏」から「新しい足利将軍」が、出たかも知れません。しかし残念ながら「吉良上野介殿の時代」には、既に室町幕府は無く、将軍は、足利将軍では無い者が、成って居ました。その為「吉良氏の者」は、そのことを思うと「溜め息を付いた」ことでしょう。
「忠臣蔵」の刃傷事件が、起こったのは、西暦1701年。江戸時代の「第5代将軍・徳川綱吉公」の時代でした。加害者で有る「浅野内匠頭」は、浅野家の事実上の初代と言える「浅野長政から数えて5代目の末裔でした」浅野長政の妻は、豊臣秀吉の正室として有名な「ねね様の妹」でした。秀吉から見れば長政は「義理の弟」に、成りました。
この者は、初め秀吉に付き従い「甲斐国・府中21万5千石の大名」と、成りました。その後、関ヶ原の戦いでは「豊臣家を裏切り」初めから徳川様配下と、成りました。「嫡男・浅野幸長」が、手柄を経てたことも有り、その後「紀伊国和歌山37万石」へと「加増転封」と、成りました。
そして「甲府時代の所領の内訳」には、秀吉が直接、長政に「常陸国真壁5万石」を、隠居料として、与えました。その隠居地を「長政の3男で有る長重」が、引き継ぐことに、成りました。この長重が「宇都宮氏最後の当主」で有る「国綱公の養子」に、入る予定の者でした。この長重の子の長直のときに「播磨国・赤穂藩(5万3千石)」に、転封と成りました。そしてこの「長直の孫」が、あの有名な「浅野内匠頭」に、成ります。
あのとき「国綱公」が、この長重を養子にして「宇都宮氏」を、継がせることに、成って居たら、もしかして長重より4代目の子孫に、あの「浅野内匠頭の魂」を、宿した子孫が現れ「赤穂浪士」の話は、そのまま「宇都宮浪士」として、語られることに、成ったかも知れません。そして、この場合の「宇都宮氏」も同じように、その当主が「刃傷事件」を、引き起こしてしまい「切腹」を、命じられて、その代で「改易」に、成ったのかも、知れません。
それから「浅野氏本家」は「紀伊国・和歌山」から最終的に「安芸国・広島藩(42万6千石)」に、加増転封と成りました。そしてこの藩は、幕末まで存続しました。長政の嫡男・長幸には、子供が無かったので、長政の次男・長晟が、跡を引き継ぐことに、成りました。そして長政の3男が、後に「赤穂藩」と成る、長政の隠居地を、引き継ぐことに、成ったのです。ここで「浅野長政の子孫の系統」には、2つ有ったことに、成ります。
「忠臣蔵」のドラマを見ると「吉良上野介殿の嫡男」が「米沢・上杉藩」の当主に、成って居ました。「その者」も当時は、疑問に思いました。「なんで吉良の者が、上杉の当主に、成れたのか」と、言うことです。
それは「上杉氏と足利氏」は、既に初代の「足利尊氏公」の時代から、婚姻関係が、有りました。そしてその後も、続いて居ました。1664年に、この「吉良上野介殿」の義兄で有る「第19代・当主の上杉綱勝公」が、急死した為に、嗣子が居なかったので「米沢藩」が、改易の危機に、陥りました。
しかし「綱勝公の妹婿で有る、吉良上野介殿の嫡男」が「養子(上杉綱憲公)」に、入ることと成り「減知(所領30万石から15万石に成る)」されました。しかし改易は、免れました。「吉良上野介殿」の嫡男は「上杉氏の第19代当主の甥」でした。その為、吉良の息子は「上杉家に養子」に、入ることが、出来たのです。また「上野介殿」の4代前の先祖には「家康公の叔母」が、嫁いだことも有り、この時代の「吉良氏」は「徳川様の親戚」として、保護されたようです。
それから「吉良上野介殿」は、日頃から「自分の身」に、不満を抱いて居たのでしょう。自分の家格は、所領4200石の旗本で有り、嫡男は「上杉家の養子」に、入る事が出来ましたが「所領15万石の斜陽の大名」でした。そんなときに「タイミング良く」自分の不満を、ぶつけられる人物が、現れたのです。
「浅野内匠頭」は、不幸にも「先祖伝来の他者の恨みを、買って居ました」その為に、吉良氏と言う「恨みの解放者」のような「業を持つ人物」に、仕返しをさたのです。何故「忠臣蔵」と言う事件が、この「浅野家の元」で、起こったのか、それは単なる偶然では無いように、思われます。また「浅野氏の本家」が、最終的には「広島藩」と言う場所に「所領」を得て、落ち着きます。これも何かの意味が、有りそうです。その支配は、明治時代まで続きました。
浅野家の唯一の分家で有る「赤穂・浅野氏」は、無残な改易と成り、終わりました。そして「本家の浅野氏」も、その後に起こる近代戦争で、町に「新型爆弾」を、落とされそこが、壊滅しました。その頃までに「長政の末裔達」が、そこに住んで居たかは、知りませんが、その地は「浅野長政の子孫達」が、築いた町でした。
また近代に於いて、この国の「政府機関の1つ」に「国民の税金」を、搾り取る役職の人物が、居ました。彼は「親戚の総理大臣」と組んで、様々な税金制度を作り、国民のお金を、搾取し続けました。彼等は「国民生活」を、貧困に導いて居たのです。この一族は「浅野氏」と、同じように「他者の恨みを、買い続けて居ました。」その恨みは、何世代経っても消えることは無く。必ず因果は、芽吹き、その清算を、することに、成るでしょう。「安芸国(広島)」と言うのは「他者から恨まれる者が、生まれ易い土地柄」なのかも、知れません。




