12S.平清盛と織田信長
今回は「下野岡本氏」の先祖を、殺害した人物について、取り上げたいと、思います。先程も出ましたが、初めに出る人物として「平清盛」が、挙げられます。殺された人物は「宇都宮氏の第5代当主・頼綱公」の母親の父君で有る「平長盛公」です。
「長盛公」は「保元の乱(1156年)」に、於いて「崇徳上皇」側に就いた為に、敗戦して、一家全員が「捕虜」と、成りました。そして、従兄弟で有る「平清盛」の手により、長盛公と父親、弟3人と共に、処刑されました。「長盛公の父親」は「清盛の叔父」で有り「長盛公兄弟」は「清盛の従兄弟」でした。しかし残念ながら全員、殺害されました。
全く、信じられない話です。いくら敵味方に、分かれたからと言って「親戚の者達」を、無慈悲に殺害しても、良いものでしょうか。その事件は「870年位前」の出来事でした。この処刑は、清盛と同じく、勝者側に居た「ライバル」で有り「河内源氏の嫡男」で有る「源義朝公」の、敗者側に居た「彼の父親と弟6人」を、殺害させる為の、見せしめでした。
「義朝公」も、苦渋の決断後に「自分の手で、親兄弟達の首を、跳ねた。」と、言うのですから、とんでもない「酷い話」です。仮に「やってしまった」としてもそれは、昔の人でしたので「自分がしたことの意味を、理解出来なかったのでしょう。」或いは「後世の作り話」かも、知れません。「その者」は、この手の「残酷な逸話」を余り、信用しません。
兎に角「平清盛」は「下野岡本氏の先祖」を、殺害しました。当然ながら殺された方の子孫としては、事実ならば「許せない行為」です。どうやら「長盛公の子孫」から見ると、平清盛とは「悪い親戚」でした。当然の如くに、殺害を命じた者を、嫌いに成りました。清盛の最後は「原因不明の熱病」に掛かり、そのまま他界したようです。享年64歳でした。
それは「〝殺された人の恨み″による、報いで有る。」と、言われました。しかし病状の記録から、大陸から伝来して流行した「〝マラリア″に、罹った。」とも、言われました。余り良い死に方では、なかったようです。
その後「彼の一族」は、現山口県下関市に有る「壇ノ浦の戦い(1185年)」に於いて、一族郎党の大部分の者が、全て死にました。一族の長で有る「清盛の悪行」の報いによる、結果でしょう。彼の一族が、このような結末を、迎えたと言うことは、やはりこの人物は、余り良いものでは、無かったように、思われます。
25年にも渡る「清盛政権」が、終わりを告げると、勝利を収めた「頼朝公」は、鎌倉に幕府を、開きました。「武家政権の確立」です。そしてこれ以降「3つの幕府の時代」が、始まります。
次に取り上げる人物ですが、時代が下って「戦国時代の話」です。とても有名な人物でした。殺害した人物の名前は「織田信長」です。信長が直接、手を下した訳では、有りませんが「殺せ」と、指示しました。殺された人物の名前は「武田信廉公」です。
「織田信長」と言う人物は「自称・平氏の出自」でした。そしてこの人物は、無類の「源氏キラー」でした。有名な「桶狭間の戦い(1560年)」では「室町幕府の最後の希望」で有る「足利一族の今川義元公」を、自国領に追い込んで、そのまま討ち取りました。「大金星」を、挙げたのです。
「義元公」が、討ち取られたことにより「源氏政権の室町幕府」は、完全に詰んでしまいました。その後「室町幕府最後の第15代将軍・義昭公」は、同じ「源氏の血筋」で有る「武田信玄公」を、頼りました。しかし信玄公は、上洛途上で亡くなりました。
その後「甲斐の武田氏」は「織田信長の鉄砲隊」により、壊滅しました。「長篠の戦い(1575年)」です。信長は「源氏の有望株で有る者」を、悉く潰したのです。彼は、無類の「源氏キラー」だったのです。「室町幕府の最後」は、織田信長が「将軍・足利義昭公」を、追い出して(1573年)幕府を、滅ぼしました。
「甲斐の武田氏」は「長篠の戦い」で、敗走すると「織田信長」は、徹底した「武田の残党狩り」を、指示しました。その結果「信玄公」の弟君で有る「武田信廉公」は、捕らえられ「勝頼公・自刃から13日後」に、甲斐府中に於いて「信長の配下」で有る「森長可」の家来「各務元正」と「豊前采女」により、殺害されました。享年51歳でした。
文献によると「信廉公」は「各務、豊前」らが、現れた時には、刀を膝に置いたまま、離さずに、警戒しました。そこで各務が一計を案じて「森長可」所有の名馬「百段」を、見せると偽って、信廉公を外へと誘き出して、隙を見て一太刀を浴びせ、豊前が止めを刺しました。
この「森長可と各務元正」は「源氏の出自」でした。特に、各務は「信廉公」と同じ「源義光流」でした。それが本当の事ならば、信廉公は、同族に殺されたことに、成ります。殺した者達は、自分達も「源氏の出自だ。」と言い、「信廉公」に近づき、隙を見て切り殺したのでしょう。この「森長可の弟」が、有名な「森蘭丸」でした。
「甲斐の武田氏」は、滅亡すると、暫くして「その所領」が、徳川様のものに、成りました。多くの「武田家臣達」が「徳川様の配下」と、成ったのです。「武田四天王の1人」で有り「武田の筆頭分家」で有る「馬場氏」は「徳川様の配下」に、加わると「大久保氏」の処に、配属されました。「信廉公の娘」は、父親が殺されると「馬場氏の養女」と成り、若き「大久保忠教公」の元へと、嫁ぎました。
その後「忠教公の末裔の1人」が「大久保氏」と同族で有り、同じ旗本の「塩谷源氏の末裔」で有る「下野岡本氏」の「その者」の先祖の処に「甲斐源氏の血」を引く娘が、嫁いで来ました。それを機に、自分達の家紋を「左三つ巴紋」から「丸に花菱紋」へと、変えたのでしょう。
今でも盛んに、取り上げられる「時代劇のヒーロー」で有る「織田信長」や「豊臣秀吉」と言う人物は「下野岡本氏の先祖」に取っては、ただ不幸を招くだけの、極めて「不吉な存在」でした。信玄公の弟で有り「逍遥軒こと武田信廉公」は「下野岡本氏」の先祖に、成ります。
「その者」の直接の先祖では、有りませんが「下野岡本氏」の「第6代当主・正親公」には「2人の息子」が、居りました。しかし「佐野沼尻の戦い(1584年)」と言う「佐竹・宇都宮連合軍」が「後北条氏」との戦により、その息子達を失うと言う、悲劇が起きました。「正親公の落胆」は、非常に大きなものでした。その為「彼の姉」が、産んだ「3人の甥達(義保・保真・保忠)」を「自分の養子」に、向かえて「義保公」を「自分の後継」としました。
この流れで行くと「後北条氏(小田原の北条氏)」も「悪い武家の範疇」に、入るのですが「宇都宮氏の第10代当主・氏綱公」の母親は「千葉氏の第9代当主・千葉宗胤公の娘」でした。この時代の「千葉氏宗家」は「後北条氏」に、仕えて居ました。「豊臣秀吉」による「小田原征伐(1590年)」のときには、後北条氏の為に、千葉氏宗家は、良く戦ったのですが「後北条氏」が、負けてしまい、その結果「豊臣秀吉」に「千葉氏の所領」を、全て没収されました。そして、このときに「千葉氏宗家」は、滅亡しました。
「千葉氏」が、この時代まで、存続出来たのは、この「後北条氏の協力」が、有った為で有り、一概に「後北条氏」を「下野岡本氏」から見て「悪い武家で有る」とは、言えない状況でした。「下野岡本氏・第6代当主の正親公」に取っては、大変気の毒なことでしたが、ここでも「豊臣秀吉」が、絡んで来ました。
また次の話も「その者」の「直接の先祖」では無いのですが「宇都宮氏の分家(庶流)」の話です。「九州の豊前国・宇都宮氏」は、拠点を「城井の郷」に、置いたことにより「城井姓」を、名乗りました。この「城井氏の第16代当主」の名前を「城井鎮房公」と、言いました。
この「城井氏」は「豊臣秀吉の九州征伐(1586年)」の結果、秀吉に「所領変え」を、命じられました。しかしその結果が、気に入らず、その地に「固執」しました。それは「城井氏」の本家で有る「宇都宮氏」が「秀吉」により、一方的に「改易」されたので、彼に抵抗したのでしょう。
そして「新たな領主」として来た「黒田官兵衛と長政親子」と、戦に成り「城井側」が、勝利しました。そして「黒田側」は「戦では敵わない」と、悟ると「黒田官兵衛」は、「偽りの和議」を提案して、酒席に誘い、彼等が酔った処を襲い、悉くを、殺害しました。
幸い「城井一族」の「完全消滅」までには、成りませんでしたが、かなり酷いことを「黒田親子」がしたのです。その結果「豊前国の宇都宮氏」は、滅亡しました。「宇都宮氏の一族の中でも」他家に攻められ「汚い謀略」により惨殺され、攻め滅ぼされたのは、この「豊前国・宇都宮氏」位ではないでしょうか。
この官兵衛親子は「鎮房公の祟り」に遭い、代々黒田氏の当主は「短命・夭折」を、繰り返して「黒田本家の血統」は、早々に男系女系とも「断絶」しました。その後に、この所領を継いだ「黒田の親戚」も同じように「夭折や急死」を、繰り返して、不幸な当主で、有り続けました。また民の間では「黒田家の不幸」は「城井一族を、虐殺した報いとか、祟りで有る。」と、噂されたようです。「黒田官兵衛は、豊臣秀吉の有能な家来」でした。




