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11S.足利高経公と上杉憲顕公

「宇都宮氏の第11代当主」の名前を「宇都宮基綱公」と、言います。この御方の母親は「足利高経あしかが・たかつね公」の娘で有り「高経公」は、後に「斯波しば姓」を、名乗りました。この「高経公の系統」が、本来の「足利氏の本流」でした。しかし「北条氏の身内」が、問題を起こした為に「北条得宗家」により「足利氏の本流」を、外されて「新しい本流・尊氏公の系統」と、同格の「別家扱い」の「待遇(降格扱い)」に、成りました。


後に「足利尊氏公」が「室町幕府」を開くと「幕府の最高機関」で有る「管領かんれい」と言う「役職」には「高経公」の幼い「4男・義将よしゆき公」が「初代・管領」として、就任しました。後見人は、父で有る高経公でした。この「管領職」には「足利氏の有力一門」で有る「斯波氏」と「細川氏」「畠山氏」の三家が、交代で就くことに、成りました。


この「足利高経公」の6代前の先祖には「大江広元公」が、居られ「広元公」は、元朝廷に仕えた「貴族」でした。しかし鎌倉に下り「源頼朝公」の側近と成り「鎌倉幕府創設」に、貢献しました。「広元公の4男」には「毛利季光すえみつ公」が居て、この御方の末裔から「中国地方の覇者」と成る「毛利元就公」が、現れました。


「観応の擾乱かんのうのじょうらん」と言う、南北朝時代(1350年頃)に起きた「足利政権の内紛(尊氏公と弟の忠義公の対立)」により「宇都宮氏・第10代当主の氏綱公」は「北朝の足利尊氏公の家臣」として、仕えて居ました。「氏綱公」の「氏」の字は「尊氏公」の「氏」の字を、賜わったものでした。


「宇都宮氏」は「鎌倉時代からの名家」だったので「尊氏公」と、歳が同じの従兄弟で有る「高経公の娘」が「氏綱公の元」へと、嫁いでまいりました。或いは先に、嫁いで居たので「氏綱公」は、尊氏公に従ったのかも、知れません。


そして「尊氏公」の下で、武功を挙げた為「観応の擾乱」では「足利直義公」方に、就いた、もう1人の「尊氏公の従兄弟」で有る「上杉憲顕公」から、剥奪した「上野・越後両国」の「守護職」を、与えられました。(1352年)そして「尊氏公の4男」で有り「正室の子」で有る「鎌倉公方・足利基氏公」の家臣として、仕えて居ました。


「氏綱公」は「薩埵山体制」の一翼を、担いましたが「尊氏公」が亡くなると、2代将軍と成る「足利義詮公と、弟の基氏公」の信任が、厚かった、親戚の「上杉憲顕公」が、赦免され、嘗ての敵で有る「憲顕公」が「上野・越後守護職の返還」を、求めて来ました。しかし氏綱公が、これを拒むと「基氏公の怒り」を買い、その追討を受けて、強引に「守護職」を、剥奪されました。


「基氏公」死後の1368年、これに不満を覚えた「氏綱公」は、武蔵国の「武蔵平一揆」に乗じて、反乱を起こしました。しかし今度は「基氏公の嫡子・足利氏満公」の追討を受け、戦に敗れ降伏しました。一命こそ助けられましたが、失意の内に1370年7月5日に、紀州の出陣中に45歳で、病死しました。


こうして「尊氏公の母親の家系」で有る「上杉氏」は、室町期の関東に於いて、圧倒的な力を、持つように成り「関東管領」職を、代々就任する家系と、成りました。


「氏綱公の嫡男」で有る「宇都宮氏の第11代当主で有る基綱公」は、その後「基氏公の息子・氏満公」に、臣従しました。「基綱公」は「室町幕府、4代管領・細川頼元公」の娘を娶り、嫡男で有る「宇都宮満綱公」が、生れました。


「基綱公の母親」は「足利高経公の娘」だったので「尊氏公」により「父親(氏綱公)」が、授けられた「上野・越後両国の守護職」を「2代将軍と鎌倉公方」により、強引に、剥奪されたことも有り「足利一族」としての「お詫び」も、有ったのか「第4代管領」で有る「細川頼元公」の娘が「基綱公の元」へと、嫁いで来ました。この様なことからも「宇都宮氏」は、まだ「足利将軍家」からは、目を掛けて貰えました。


「宇都宮氏」は、朝廷から代々「下野国司の職」を、授かる身分でしたが、武士から身を立てて「下野守護」を、務めた「小山氏」が、国内で勢力を、拡大すると「国司」の立場から、これを「牽制」しました。「小山義政公」の代に成り、小山氏が台頭すると「基綱公」は、度々これを鎮圧しました。しかし後に「義政公」が、宮方と通じて「謀反」を、起こしたときに「鎌倉公方・足利氏満公」に、その討伐を命じられて、出陣しました。しかし逆に「裳原の戦い」で、義政公に敗れてしまい、戦死しました。享年31歳でした。


1380年「父親(基綱公)」が、戦死したことにより「満綱公」は「宇都宮・第12代当主」として家督を、継承しました。しかしまだ、幼少でしたので、初めは叔父で有る「氏広公」が、補佐役として「当主の職務」を、代行しました。正確な時期は分かりませんが、やがて元服して「第2代鎌倉公方・足利氏満公」より「偏諱の授与」を、受けて「満綱」と、名乗りました。


「家督継承時」に、勃発した「小山義政の乱」の後「下野国守護職」は「結城氏」のものと、成りました。しかし1399年には、前年に就任したばかりの「第3代鎌倉公方・足利満兼(氏満の子)公」から「結城氏や小山氏」等と、共に「関東八屋形」に、任じられました。尚、翌1400年には、鎌倉公方と対立した「叔父の氏広公」が「反乱(栗原郡三迫の戦い)」を、起こしましたが「満綱公」が、これに加担した形跡は、見られませんでした。


「満綱公」は、1405年、宇都宮城下の下河原に「長楽寺」を、建立しました。長楽寺は、既に廃寺と成って居ましたが「満綱公」が、造立した本尊は「汗かき阿弥陀」として「宇都宮市一向寺」に、現存して「国の重要文化財」に、指定されました。男子が、無かったので、後継には「一族の武茂氏」から「持綱公」を、婿養子に迎えました。満綱公は、応永14年(1407年)10月3日、鎌倉にて32歳で病没しました。


「宇都宮氏の第13代当主・持綱公」は「宇都宮氏の一族」で有る「武茂氏の出身」でした。応永14年(1407年)に、急逝した「宇都宮氏本家の満綱公」には、男子が無かったので、その婿養子と成り「家督」を、継承しました。「第4代鎌倉公方・足利持氏公」に臣従して、その偏諱を受けて「持綱」と、名乗りました。


「持綱公」は「上杉禅秀の乱」では「関東の諸将」が、上杉方に付き、一族にも呼応の動きが、有る中で「室町幕府の討伐軍」に協力して、乱を鎮圧しました。その功により「上総国守護と京都扶持衆」に、任じられる等「幕府に重用」されました。しかし「持氏公」より「那須郡三依郷」を「長沼義秀に、譲って欲しい」と、懇願された時に、拒否したことから、持氏公に「警戒」されました。そして後の「小栗満重の乱」に、荷担したとして「討伐」を、受けてしまいました。


「持綱公」は「反鎌倉府の活動」を、命じる幕府からの「御内書」を、受けて居たと、見られました。応永30年(1423年)8月9日、一族の「塩谷教綱公」により、殺害されました。塩谷氏・芳賀氏ら「家中の親鎌倉府派」による離反だったと、見られました。そしてこの「教綱公」は「下野岡本氏」の先祖に、成ります。この教綱公も、報復を受けて「宇都宮・家臣団」に、殺害されました。


「父親の持綱公」が、殺害されると、子の「等綱公」は、家督を奪われて、諸国を放浪しました。しかしその後に、復帰を果たすと「宇都宮氏の第14代当主・宇都宮等綱公」と、成りました。このとき「第5代鎌倉公方・足利成氏公」が、関東管領で有る「上杉憲忠公」を「暗殺(享徳の乱・1455年)」したことにより、幕府から「成氏討伐令」が、下されると「等綱公」は「成氏討伐の兵」を挙げて、鎌倉から「成氏公」を、追放しました。


このときの「成氏公の怒り」は、相当のものでした。「康正2年(1456年)」古河に、逃れて「古河公方」と成り、態勢を整えた「成氏公」により「宇都宮城」は、包囲され「等綱公」は「成氏軍の圧力」と「重臣の裏切り」により、宇都宮城から追放されました。結果家督を、子の「明綱公」に譲り、出家隠棲しました。そして宇都宮に、戻れないまま、41歳で没しました。


「宇都宮明綱公」は「第15代当主」に、成りました。母親は「小山氏の娘」でした。「父の等綱公」が「古河公方」と、成った「足利成氏公」と不仲で「宇都宮城」を、追われ、奥州において「出家・隠棲」したので、後を継ぎました。 外交方針を、転換して「成氏方」に、鞍替えして「宇都宮氏の再興」に、腐心しました。しかし1463年、21歳の若さで、没しました。子が無かったので「等綱公の養子」で有る「正綱公」が「後継」と、成りました。


「宇都宮氏の第16代当主・宇都宮正綱公」は、一族の「芳賀成高公の息子」で有り、母親は「第13代当主の宇都宮持綱公の娘」でした。「下野岡本氏」の「初代・岡本富高公」の兄上で有る「芳賀高名(禅可)公」の5代目の末裔でした。この頃「越後守護」の上杉氏は「第9代当主で有る上杉憲忠公」が「第5代鎌倉公方・足利成氏公」に「殺される(享徳の乱)」と、弟で有る「上杉房顕ふさあき公」が、家督を継ぎました。「房顕公」は、関東地方に進出した「後北条氏」を、警戒したので「宇都宮氏」との同盟関係を、築くことに、決めました。


その為、自分の娘を「宇都宮正綱公」の元へと、嫁がせます。そして娘は「正綱公の4男」を、産みました。この息子は「孝綱公」と、名付けられました。しかし「宇都宮氏の後継者」には、成れませんでした。そして関係が断絶した、一族の「塩谷氏の当主」として招かれ「婿養子」に、入りました。


この御方の孫が「塩谷義通よしみち公」で、有り「下野岡本氏」の先祖に、成ります。まとめますと、越後上杉氏の初代・上杉憲顕公から10代・上杉房顕公までと、足利高経公と大江広元公は「下野岡本氏」の先祖です。

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