表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/19

10S.平将門公と平長盛公

宇都宮氏の歴代当主の母親を見ますと、ここで度々取り上げました、歌人当主として名高い「宇都宮氏・第5代当主の頼綱公」ですが、この御方の母親は「平氏の一門」で有る「平長盛公の娘」でした。


「平長盛公」?と、言われても全然、知らない人が多いものと、思われます。「その者」も、余り知らない御方でした。大体、平氏と言えば「平将門公」とか「平清盛」が、有名ですが「平長盛公」とは、どうゆう御方でしょうか。一番、分かり易い言い方をすれば、それは「平清盛の従兄弟」でした。


「平安時代(1156年)」の終わり頃に、起こりました「保元ほうげんの乱」と、言う「天皇の皇位継承問題」や「摂関家の内紛」により、朝廷が「後白河天皇」方と「崇徳上皇」方に、分かれて「双方の衝突」に、至った政変が、有りました。


争いの結果「崇徳上皇方が敗北して」上皇は「讃岐」に、配流されました。この朝廷の内部抗争の解決に「武士の力」を、借りたので「武士の存在感」が、増してゆき、後の700年間に渡る「武家政権の成立」へと繋がる、切っ掛けの1つと成りました。


「平清盛」は「伊勢平氏」と、呼ばれた系統の嫡男で有り、この伊勢平氏は、関東地方に移動して「坂東平氏」と、呼ばれた「平氏の一派」でした。この坂東平氏が、これから台頭して来る「武家平氏」と、成りました。この「保元の乱」で、勝った武家の主導者の1人が「平清盛」で有り「源義朝公」でした。この「義朝公」は「頼朝公」の父親でも有り「塩谷しおのや源氏の祖」と成る「源頼純公の甥」でした。


そして、この「保元の乱」で、負けた方の「武家の主導者」の1人が「清盛の叔父」に、当たる「平忠正公」と、その息子達でした「清盛の従兄弟」の「平長盛公」と、3人の弟達でした。源氏の方では「義朝公の父親」で有り、頼純公の兄上でも有る「源為義公」と、彼の子供達「4男から9男までの6人」でした。勝った方も負けた方も、他にも居たのですが「下野岡本氏」の関係者と言うことで特に、この御方達を挙げることにしました。


この時代「平安時代の終わり頃」では、既に「敗者の死刑」は、禁止でしたが、この「清盛」が、この政変から死刑を「復活させた」のです。まず「自分の叔父」で有る「平忠正公」と、その息子達4人を、斬首しました。清盛に殺された「平長盛公」の娘は「宇都宮氏・第4代当主の業綱なりつな公」の元に嫁ぎ「第5代当主の頼綱公」を、産みました。その為「長盛公の末裔」は、辛うじて、この娘の産んだ子供達に、引き継がれました。


この「清盛」は、悪魔のような男で有り、清盛が自分の叔父と、従兄弟達を、殺した理由は「河内源氏の嫡男」でも有り「ライバル」とも言える立場の「源義朝公」が、捕虜で有る「義朝公の父親と兄弟達を、殺させる為に、敢えて自分の身内達を、先に殺して見せた。」と、言われました。


「為義公の嫡男・義朝公」は、父や弟達の助命を願ったのですが「清盛」が、御手本として先に「自分の身内」を、殺してしまったので「義朝公」も、やもえずに自らの手で「父親と弟達6人の首を刎ねた。」と、言います。


全く信じられない話です。「為義公の次男と三男」は「保元の乱」には、関与しなかったので、お咎めは、有りませんでした。この「為義公」の次男の名前を「源義賢よしかた公」と言い、この御方の次男が、有名な「木曾義仲公」でした。


「保元の乱」の数年後に、今度は「平治の乱(1160年)」と言う政変が、起きました。これは「朝廷内部の対立」により、発生した「政変」と、言われました。「義朝公」は「保元の乱」による「恩賞の不満」が、有ったと言われ、今度は「清盛」と、対立する側に、就きました。結果的には、またしても「清盛側が勝利」して、義朝公は敗れて、敗走しました。


逃げる途中で「三男・頼朝公」は、歳が若かったことも有り、逃げ遅れて、捕まりました。「義朝公の次男」は、深手を負ったようで、逃亡中に亡くなりました。「義朝公の長男」は、逃亡中に「父親との再起」を約束して、別れたのですが、後日「義朝公の死」を知って「父親の仇」を、討つ為に京に戻り「清盛の命」を、狙ったのですが、失敗して捕えられ、六条河原において「処刑」されました。


「義朝公の最後」は、知り合いの親子の元に、逃げおおせたのですが、その家人が、恩賞欲しさに裏切り、義朝公が入浴中を狙い、襲って惨殺しました。その殺され方は、義朝公の孫に当たる「源頼家公」が、同じような状況下で、入浴中に叔父の「北条義時公」の手の者に、襲われ「惨殺された状況」と、良く似て居ます。


この「義朝公」は「その者」の先祖の甥に、当たります。そして義朝公の父親で有る「為義公」は「その者」の先祖の兄上でした。そして彼の先祖で有る「源頼純みなもとの・よりずみ」公も、別件で惨殺されました。


このようにして「鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝公」の父親と祖父、並びに叔父達と、兄2人は「非業の死」を、遂げました。このことが関係するのか「頼朝公」の息子達及び、孫達も同じように「非業の死」を、迎えました。


「鎌倉時代と鎌倉の武将達」が、現代人に取っては、余り「人気が無い」と言うのも、その辺りに、問題が有ったからでしょう。「全く酷い話」が、多すぎます。「その者」が思うには、これらの出来事は「今から860年も昔の出来事」で有り「作り話」も、多分に有ったのではないかと、思われます。


「宇都宮氏の第10代当主の名前」を「宇都宮氏綱うつのみや・うじつな公」と、言いました。この御方の母親は「千葉氏の第9代当主」で有る「千葉宗胤ちば・むねたね公の娘」でした。「千葉氏」は、平氏の出自で有り「桓武平氏・良文流」と、されました。「千葉氏の祖」の名前を「平忠常たいらの・ただつね公」と、言いました。この「忠常公の母親」の名前を「春姫様」と、言いました。


彼女の父親が、有名な「平将門たいらの・まさかど公」でした。その為、千葉氏の系統は、特別に「平忠常流」と、呼ばれました。忠常公の曾孫の「平常兼たいらの・つねかね公」が「千葉氏の初代」とされ、その9代目の当主が「千葉宗胤公」でした。この御方の娘が「宇都宮氏・第9代当主の宇都宮公綱きんつな公」に、嫁いで「第10代当主・氏綱公」が、生まれました。(1326年のことです。)


「平将門公」と言えば、関東一帯を制圧した「新皇様」として有名でした。「平将門の乱」の首謀者で有り、この乱は「平安時代」に起きた「朝廷へのクーデター」でした。平将門公は「桓武天皇の血筋」を、引きましたが「出世の見込み」が、無いままに、京の「藤原忠平ふじわらのただひら公」の兵として、仕えました。その後「父の良将よしまさ公」が、亡くなると「親族同士の領地」を、めぐる争いに、巻き込まれました。


「将門公の祖父」で有る「高望たかもち公」は「上総国(今の千葉県)の国司」として、赴任しました。「国司」とは「朝廷から派遣された行政官のこと」ですが、当時は「彼等の裁量権」が、大きくて「やりたい放題」でした。「高望公」も、任期が終わっても、その土地に居残り、小武士を集めて「財力と武力」を、蓄えました。


そして「良将公」が、亡くなり「将門公の代」に、成ったときに「親族間での領地の奪い合い」が、起りました。この争いの中で「将門公」は「叔父」を、殺害しました。そして朝廷とも、争うように成りました。「歴史の資料」から、分かったことですが、将門公が「関東一円の国司」を、攻めて「印綬」と言う、朝廷が国司に与えた証明書を「奪う行為」を、続けました。


領地争いに勝利した「将門公」は、関東を制圧しました。そして「独自の国司」を、任命して、朝廷に対して、ますます反旗を、ひるがえして行きました。やがて将門公は「菅原道真公」からのお告げが、有ったとして、自らを「新皇」と、名乗るように、成りました。これは、自分が「天皇に成る」と言う「宣言」で有り、朝廷としては、決して認めることの出来ない「狂気の沙汰」でした。


「将門公の勢力」は、強大で有り、同時期に起きた、瀬戸内海の「藤原純友の乱」も有り、脅威を感じた朝廷は「将門軍を朝敵」として、討伐を命じることに、成りました。そして「平将門の乱」と「藤原純友の乱」は、合わせて「承平天慶のじょうへいてんぎょうのらん」とも、呼ばれました。


940年、朝廷は「藤原忠文ふじわらのただふみ公」を「征東大将軍」に、任命しました。同時に「近隣諸国の武士達」にも「将門討伐」を命じて、そこに「平貞盛公と藤原秀郷公」が、立ち上がりました。「将門軍」は、苦戦を強いられました。自らの本拠地で有る「猿島郡(茨城県)」に、敵を誘い込もうとしますが「貞盛・秀郷の連合軍」は、これに乗らず「焼き討ち」を、掛けて相手を「追い込む作戦」に、出ました。


多い時には「手勢5000人」も、居た「将門軍」ですが、この時もはや「400人足らず」に、成りました。「将門公」は「貞盛と秀郷」らに、討たれて「平安京で晒し首」に、されました。関東を、独立させてから僅か2ヶ月で「将門公の天下」は、終わりを迎えました。「平将門の乱」が、起きた原因は、明確には分かりませんが「親族同士の幾度となく続いた、領地をめぐる争いが発端だ。」と、言われました。


平真樹たいらのまき」と「源護みなもとのまもる」の「土地の境界線問題」で「将門公」は、平真樹に頼まれて、源護を襲撃しました。このときに源護の3人の息子や、義理の息子で有る「平国香」等を、討ち取りました。源護の訴えで、朝廷から呼び出されますが「朱雀天皇の元服」による「大赦」で「無罪」と、成りました。恐らく、この頃から朝廷との因縁が、深まったと思われます。また、この事件が「平将門の乱」の始まりと、見られました。(935年頃の出来事です。)


また親族間の対立が、続いた或る日「藤原玄明ふじわらのはるあき公」が「常陸の国司」と、対立して追われる身と成り「将門公」を頼り、訪ねて来ました。常陸の国司は「玄明公」の引き渡しを、要求しますが、将門公が、これを拒んだ為に、争いと成り、ついに彼は、その国司を、倒してしま居ました。一度国司を倒した将門公は、これまでの朝廷に、対する不満が、一気に爆発したかのように、歯止めが効かなく、成りました。そして次々と「国司」を、倒して行き、遂には「関東制圧」を、成し遂げました。


この「土地の権利」を巡る「抗争や相続争い」また「他の氏族との争い」に、関わったことが、結果的に「国司を倒すこと」に、繋がってしまい「朝敵」と、見なされました。そして「後戻りが出来なくなった」と、言う見方が一般的です。自らを「新皇」と名乗った「将門公」は、後の世の武将達に、大きな影響を、与えました。


「律令制が、揺るぎ始めた」時代背景も、有りましたが、武士達が朝廷に「脅威」を、与えることが、出来ることを「証明」した一連の事件は「源氏」による「鎌倉幕府」を、代表とした「武家政権の時代」を、後押ししました。そして「新皇」を、宣言すると言う「大胆な行動」は「武士達に勇気」を、与えました。それから「自分達も、天皇や、天皇に代わる政権を、持つことが、可能なのかもしれない。」と言う、希望を持たせました。「平将門公」と「平長盛公」は「下野岡本氏の先祖」に、成ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ