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01S.下野(しもつけ)岡本氏 前編

☆その昔「源頼朝公」から絶賛され「源氏の御旗(白旗)」を、賜わった者達が居た。

「その者」の名字は「岡本おかもと姓」でした。彼は「昭和」の時代に、生まれた「自営業者」の息子でした。「彼の父親」が、言うには「先祖は侍」で有り「徳川様の旗本」でした。そして「彼の岡本姓」は、日本全国に有る、ごく有り触れた「名字の1つ」でした。


この名前は「日本全国に有る、名字の1つ」で有り、それぞれ「地方の岡本さん」には、それぞれ地方の岡本さん「独自のルーツ」が、有りました。その為、彼の一族と、地方の岡本さんとの関係は、ただ名字が、同じだけで「親戚関係」は、有りませんでした。


他者にも「ルーツ」が、有るように「その者」の家系にも「ルーツ」が、有りました。それは、何処かと言うと「それは栃木県」でした。昔の呼び名で言うと「下野国しもつけのくに」でした。彼の「岡本姓」は、栃木県の地名から、来て居ました。彼の先祖が、その土地「岡本郷」の領主だったので「岡本の地名」を、そのまま姓名として、名乗りました。


その為「その者」の一族は、特別に「下野岡本氏」と、言う名称で、呼ばれました。それは何でも、日本全国の岡本姓の中では「一番有名な、岡本姓で有る。」と、言われるからでした。


「徳川様の治世」が、約260年間、続いた時代のことでした。「その者」の先祖は「徳川様の旗本」で有り「水戸藩士」と、言う身分でした。徳川様と言えば「最古参の家臣」として、有名な「大久保氏」が、居ります。彼の一族で有る「下野岡本氏」は「大久保氏の親戚」と、言われており、大久保氏とは「仲が良い」と、伝わりました。


「その者」の「実家の本家」に、行くと決まって「御先祖様の自慢話」が、始まりました。その内容とは「うちには、とても有名な〝御先祖様″が、いらっしゃる。その御方の名前を〝大久保彦左衛門・忠教ただたか公で有る″」と言う「自慢話」でした。若い人は、その「御方の名前」を、知らない人が多いかと、思われますが、昔の時代劇で「一心太助」と言う「人気ドラマ」が有り、そこの「ご隠居様」として、登場しました。当時の人気ドラマで有り、そのご隠居様が「彦左衛門」でした。


「大久保彦左衛門・忠教公」と言えば、関ヶ原の合戦で、唯一「徳川様の本陣」に、於いて「敵将・真田幸村」の進軍を、迎え撃った「旗本のかがみ」と、言われた人物でした。また彼は、子孫に向けての「教えの書」で有る「三河物語」の著者としても、有名でした。


「大久保氏」には「3つの大名家」が、有りました。「大久保彦左衛門・忠教公」の家柄は「所領1万石未満の旗本」でした。「その者」の先祖の家柄も、所領1万石未満の旗本でした。その為、付き合い易かったのでしょう。そもそも「岡本氏も大久保氏」も、本来から親戚でした。それは共に「下野国の守護大名」で有る「宇都宮氏」の「庶流(名字の違う分家)」で有り、本来から同族だったのです。


宇都宮うつのみや氏」の名字は、3代の「朝綱ともつな公」より、名乗り始めた名字で有り、それ以前は「八田はった氏」を、名乗りました。「朝綱公」の父親の名前を「八田宗綱はった・むねつな公」と言い、あの大変有名な「鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝みなもとの・よりとも公」の「3人居た乳母」の内の1人で有る「寒河のさむかわのあま」の父親でした。


この「八田姓」は「常陸国・八田郷の領主」で有る為に、名乗ったようでした。また「寒河の尼」は「源頼朝公の配下」で、有名な「八田知家はった・ともいえ公の姉で有る。」と、言われました。


「下野岡本氏」の系統には「2つの本家」が、有りました。その本家の名字を「塩谷しおのや氏」と「芳賀はが氏」と、言いました。元々、彼の「下野岡本氏」の名字は、母親の名字を、引き継いだもので有り、本来の父性の名字が「塩谷」でした。その「塩谷氏の初代」の御名を「源頼純みなもとの・よりずみ公」と、言いました。その御方は「源氏の始まりの人」と、言われる「源八幡太郎義家みなもとの・はちまんたろう・よしいえ公」の孫に、当たる御方でした。


「頼純公の兄上」が、有名な「源為義みなもとの・ためよし公」と、言う御方で有り「鎌倉幕府の初代将軍」として有名な「源頼朝公」の祖父に当たる人物でした。「頼朝公の父君」で有る「義朝よしとも公」は「塩谷源氏初代・頼純公の甥」と、言うことに、成ります。ここで大事なポイントとしては「塩谷しおのや氏は、源氏の一族で有る。」と、言うことです。


「その者」が「子供の頃」に、父親に「うちは、源氏の家系で有る。源氏の血が、流れて居るのだ。」と、聞かされたことを、覚えて居ます。その当時は余り、気にしなかったので「あぁそうなの」程度で、聞き流して居ました。彼の母親が「茨城の百姓」の生まれだったので、この父の元に、嫁入りするときに、彼の父の父親が「うちには〝源氏の血″が、流れて居るのだ。」と、良く自慢気に、彼の母親に話を、聞かせたと、聞かされました。彼は、そのことについては「単なる先祖の自慢話」に、成るのですが「何も無いよりは、家には有るので、それは〝大変素晴らしいことだ″」と、思いました。


戦国時代のときに「下野岡本氏」の先祖で有る「塩谷義通しおのや・よしみち公」と、言う御方が、居りました。この御方は「塩谷家の長子」でしたが、母親が「側室の岡本氏」だったので、次の当主には、成れませんでした。そして自分の妻も、同じ「岡本氏の娘」だったので「自分の息子達3人」を「妻の実家」で有る「岡本氏」に、養子に出しました。


自分の妻の「実家の岡本氏」は「第6代・岡本正親まさちか公」が、当主でした。その御方には、2人の息子と弟が、居たのですが、関東に進出した「小田原の北条氏」と戦に成り、息子2人と弟を、相次いで失った為に、後継者が、居なく成りました。そこで「正親公の姉」が、産んだ「塩谷義通公の息子達3人」を、自分の養子として、引き取り、後継としました。


その後を、継いだのが「第7代・岡本義保よしやす公」でした。その弟の名前が「保真やすざね公」と「保忠やすただ公」と言う、御方でした。この「3男・保忠公」が「その者」の先祖でした。


「鎌倉時代の後期」から「南北朝時代」に「岡本氏の初代」が、誕生しました。その御方の御名を「岡本富高とみたか公」と、言いました。父親で有る「芳賀高久公」の次男でした。「高久公の嫡男」が「芳賀高名たかな公」と、言いました。この御方が、出家すると「芳賀禅可ぜんか入道」を、名乗りました。


この御方は、室町時代の初期の頃に「将軍・足利尊氏公」の「足利家の内紛(観応の擾乱)」時に「将軍・尊氏公」に従い、敵対した「尊氏公の弟・直義公」と、尊氏公の従兄弟で有る「上杉憲顕公」を、追い出して「尊氏公の勝利」に、貢献した人物として、有名でした。そして、この御方から5代目の子孫に「宇都宮氏・第16代当主の正綱公」が、現れるので「その者」の先祖でも、有りました。


元々この御方達の父親で有る「芳賀高久公」は、婿養子として「芳賀氏」に、入りました。義父に当たる先代の「芳賀高直公」には、男子が無かったので、この御方の主君で有り「下野国の守護大名」で有る「宇都宮氏の第7代当主」で有る「景綱かげつな公」の4男を「芳賀家の婿養子」として、迎えました。そして以降は「宇都宮氏の一門」と、成りました。


ここで大事なポイントとしては「初代・岡本富高公は、宇都宮景綱公の孫で有る。」と、言うことです。そして、この「景綱公の3男・泰宗やすむね公」は、後に「武茂むも氏」を名乗り、ここから「大久保氏」が、生まれました。

☆本稿の「歴史的なもの」は、全て「パソコン上」から検索して、引用して記述しました。「下野岡本氏」については「その者」が、その家系だったので、家系に伝わって居ることと、検索して知った内容に、共通した部分が多かったので、ほぼ「正しいもの」と、認識して居ます。

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