始まりは森の中
あの日森の中を突っ立っていた僕は、これからどんなに大変な生活が待っているか想像もしなかった。
冒険者のスカウトを断り、騎士団からの誘いも断り、傭兵にもならず。商売人にはなれないし、なんなら農家もだめ。
女神様は僕を見てどう思っているのだろう。笑っている? 憐れんでいる? もしかしたら気にも留めてないかも。
会えるのなら、会ってみたい。そんな気持ちで始めた旅は、今歩いているような森の中で始まったのだ。
――――――
起きたら森だった。いや、僕は寝ていたのかすらもわからないが、気が付くとカブトムシとかクワガタがいそうな森の中に立っていた。
電車と車で何時間か移動しないと嗅げない自然の香り。はっとして自分の服装を確認する。文字が印刷されたいつもの半袖シャツに長ズボン。長袖じゃないと虫に刺されるんだっけか。早くここから移動しないと。
リアルな夢だな、と思った。木々の隙間から見る太陽は、真上で日の光を振りまいている。とても元気に見えたが、それほど暑くはない。
体感の気温は、現代じゃ短くなってしまった春に似ている。今何時だろう? ポケットにあるスマホを取り出して……あれ。
「ない。あれ? 前、お尻、ない。あれ、なんだろこれ」
スマホの代わりに入っていたのは、くしゃくしゃに丸められた紙。ハンカチを入れたまま洗濯したみたいになっていた。そこそこ大きかったので、念のため広げて確認してみる。
「なんだこれ……読めんなこれは」
そこには何かしらの、おそらく文字が書かれていた。しかしまあ、ハングルでもアルファベットでも、ひょろひょろっとしたアラビア文字でもない。何語だ? これは。
夢なのに紙の質感がリアルだ。コピー用紙となんら変わらないが、文字からは明らかな異文化を感じる。
それにしたって、何もかも唐突だな。ほっぺたをつねると痛い。……なんだか不安になってきた。
記憶力のチェック。僕の名前は流千縁、1月21日生まれの20歳。出身は……日本。
……どこだ? 日本って。どんな場所だったっけ。
両親の名前は? 家族構成は? 苗字は同じだから、そっちはわかる。けど名前は? おかしい。確実に、絶対に覚えているはずなのに。
「夢。きっとそういう悪い夢なんだ。多分そう。きっとそうだ」
鼓動が耳にまで伝わってくるような感覚だった。そして薄々感じている――夢というにはあまりにも現実的すぎると。忘れてはいけないものまで忘れてしまったという危機感が、悪夢にしては妙にリアルだから。
自分のことを考えたくなくなってきたので、ひとまず紙を折りたたんでポケットに入れた。現状ではっきり妙なのはこの紙だ。何が書いてあるのかを理解できたら、状況がよくなるかもしれない。僕は……ここで野垂れ死ぬわけにはいかないから。なんでそう思うのかは忘れちゃったけど。
獣道に沿って10分ほど歩いていくと、人の手で切り開かれたであろう道が見えてきた。傾斜がないので山じゃないとは思っていたが、それも当たっていそうだ。
アマゾンの奥地みたいな森じゃないとわかって、ようやく肩の力が抜けた気分。……アマゾンって何か覚えてないけど。僕はなんで妙な例えを思い浮かべるんだ?
さてさて人を探しますかと思った束の間。道の先から何かが走ってくるのがぼんやり見える。動物かと考えたけど、姿はどう見たって二足歩行の人間だ。なんだ、人がいるのかと呟きそうになるものの、様子を見て疑問を抱く。
やけに必死になって走っているような、というか4人ぐらい追いかけてきているような。……暴漢か!? ええ、こんな場所に!?
「助けてぇっ!」
悲鳴のような懇願が森に響く。間違いない、僕がここに立っていたから発せられたのだろう。いやでも相手は刃物を持ってるし、僕なんかじゃどうにもできないぞ。
しかしながらショッキングな状況で自分のことなどどうでもよくなる。元から夢みたいな状況だったし、この出会いも縁だろう。
僕はすぐに全力で駆け出していた。僕に意識が向いていたのか、目の前まで来た女性は盛大に転ぶ。それを見た僕はぎょっとしながらも暴漢たちの前に立ちふさがった。
「そこをどきな兄ちゃん。抵抗しなきゃ命だけは勘弁してやるぜ。盗賊が盗るのはなにも命じゃあねえ」
いや勘弁してもらえないだろ。じゃなきゃ刃物とかいらないし。しかも盗賊ときた。そんな職業、創作の中ぐらいにしかないと思ってたけど。
女性は肩からさげた大きめのカバンを、大事そうに抱えていた。なるほど、この荷物と金を目当てに。
というかこいつら、刃物は刃物でもファンタジー感のある剣を持っているぞ!? どうなってる? 法律で持っちゃいけないんじゃなかったか? まさかここは……外国? いやいやそんな。また夢だという疑惑が生まれた。
「ぼさっとすんな! どきやがれ!」
怒号を聞き意識が一気に引き戻される。威勢よく突っ込んでくる盗賊の1人は、剣を持っていない方の手を大きく振りかざしていた。
暴力なんて振るいたくはないけど、非常事態だし、正当防衛ってことで許されるだろう。
せめて僕が活躍する気持ちのいい夢であってくれ――そう思いながら、覚悟を決める。
間合いに入れてからのカウンター。それを狙ったキックは、盗賊の脇腹へ吸い込まれていく。
めき、とめり込むような感触を覚えた瞬間だった。
「うぎゃあっ!」
え。何その声。
理解するのに一瞬時間がかかった。足がぶつかった盗賊の姿はそこにはもうなく、道の脇にある木の幹にぐったりと叩きつけられていた。なんだこの馬鹿力は。……死んでないよね?
ずん、と空気がひりつくのを感じる。その場にいた全員の盗賊が、ただの人間に仲間をふっ飛ばされたと理解したのだ。
逆に僕は、身に余る力を感じて動悸が止まらなかった。口をあけて、目をぱちくりさせているんだから、全く人を蹴り飛ばした風には見えないだろう。
「くそっ、レアスキル持ちかよ……!」
「ビビるな! 一斉にかかれ!」
狼狽えた盗賊はすぐに表情を戻す。お互いを相当信頼し合ってるらしい。
そこからは……ありえない事象の連続だった。一般成人男性が動けるレベルを超えているし、思考も異常な速度だ。夢のような時間、と言うべきか。
躊躇なく剣を振り抜く相手を、じっくり観察できる程度の余裕があった。スローモーションというものを身体で感じている。
振り抜かれる直前、こちらからぐっと距離を詰め手首を掴む。腕に思い切り肘を叩きつけると、苦痛の声と共に、カランと音がした。
「ちょっと借りますよ」
相手より先に剣を拾い上げ、素早く脚を振り回す。ブン、という重い音と共に、その大柄な体格をふっ飛ばした。またひとりと仲間が倒され、相手も焦っているのではなかろうか。
僕は残った盗賊の片割れに剣の切っ先を向け、こう告げる。
「とっととあの2人を連れて帰ってくれませんか」
最初は素手だったが、今はこちらも武器を持っている。殺しはしていないが、まだ戦うのであれば……なんて考えが、相手にも伝わったようだ。
「引くぞ! レアスキル持ちには分が悪すぎる!」
残った盗賊は手早く気絶した人を担ぎ、飛ぶように逃げていく。……気絶だよな。気絶であってくれ。
レアスキルとやらの意味はわからなかったものの、盗賊を追い払えたんだから上々だろう。ヒーローになった気分を味わえる夢だったのか。こうなると、覚めるのもちょっともったいないかも。
この剣だって盗品かもしれない。持っていくよりかは、ここに置いておくか。
「……あの」
「えっ!?」
驚きすぎて変な声が出た。そういえば、この女性を助けるために盗賊を追い払ったんだった。戦いに夢中てすっかり抜けちゃってたな。
転んだせいで足を痛めたのか、彼女は座ったまま僕を見上げている。首が疲れるだろうし、僕はかがんで会話を続けた。
「あ、大丈夫でした? 転んでましたけど」
「いえいえ、私は大丈夫です。本当に助かりました。この辺は安全だったと聞いていたので、気が抜けていたのかも。このご恩は忘れません!」
「そんな、お礼なんて。僕も追い払えてびっくりというか。今どき盗賊なんて見かけませんもんね」
女性は少し首をかしげた。え、案外いるの? 盗賊って。
「あれほどお強いのですから、スーパーレアランクのスキルをお持ちなんでしょうか? まさかそんな方に助けていただけるなんて」
「いえいえそんな……大したことないですよ」
ランク? スキル? 馬鹿みたいな戦闘力が得られたのはスキルというやつのおかげなんだろうか?
「最初は変な格好でろくに荷物を持ってないし、幽霊か何かかと……」
「あはは……ちゃんと生きてますよ。多分」
「多分!?」
女性はつけていた眼鏡をかけ直し、座ったまま僕の顔から足元をじろじろと見つめる。足はあるよ。
ほっとした彼女に追い打ちをかける真似はしたくないが、どうしても疑問に思ったことを尋ねてみることにした。
「ところで、スキルってなんですか?」
「えええええ!?」
僕の旅は、自分の常識のなさを知ることから始まるのだった。