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水は死なない ― ブルース・リー最期の日

作者: 博 士朗

 本作は、1973年7月20日――ブルース・リーの「最期の日」を、史実に基づきながらも文学的に再構成したフィクションです。

 彼の死因や真実は今なお議論され続けていますが、ここでは「終わり」ではなく「伝説の始まり」として、その一日を描きました。

 水は流れ、形を変え、生き続ける。ブルース・リーの哲学と魂を、少しでも感じていただければ幸いです。

プロローグ 最後の問いかけ

 ――私が死んだ日を思い起こしてください。あるいは、殺された日を。

 そのどちらであったかを最終的に決めるのは、あなたです。

 私はここにこうして語っている。だが、それは肉体を持つ私ではない。呼吸も鼓動も失い、ただ声だけが余韻となって漂っている。人はこれを「魂」と呼ぶのかもしれないし、あるいは「記憶の反響」と呼ぶのかもしれない。だが私にとってそれは、ただの「水」の流れにすぎない。水は川となり、海となり、雨となって循環する。死んでもなお、形を変えて続いていく。

 1973年7月20日。香港の朝は、いつもと同じように始まった。街角では屋台が湯気を立て、子供たちの声がこだまし、人々は新しい一日のために動き出していた。しかし、私の中には奇妙な静けさがあった。嵐が到来する前に鳥が一斉に飛び立つように、魂は先にそれを感じ取っていた。時の流れは、普段とは違う指先で私に触れていた。

 私は戦士であることの意味を、幾度も自分に問いかけてきた。戦うとは、拳を振るうことだけを指すのではない。本当の戦いとは、自分の本質を知り、恐れを受け入れ、真実に向き合うことだ。鏡に映る顔はいつも同じ言葉を囁いていた。水のようであれ、と。水は器の形を取り、壁にぶつかれば流れを変え、岩をも削る。水は自由であり、執着しない。私はその哲学を生涯の武器としてきた。

 映画は、私にとって単なる仕事ではなかった。『死亡遊戯』もまた、アクションの連続ではなく、哲学を世界と共有するための道具だった。観客に見せたかったのは拳ではなく、魂の姿だった。だがそのためには代償が伴う。名声は肉体を養うが、魂を飢えさせる。スポットライトは眩しいが、その裏側には常に影が伸びている。

 午前の会合では、多くの人が私の周りに集まった。握手を求める者、契約を口にする者、笑顔の裏に計算を隠す者。私はその一つひとつの手の温度を感じ取っていた。そこには善意もあれば、欺瞞もある。だが私は常に狭い道を選んできた。安らぎではなく、明晰さに続く道を。

 昼にはレイモンド・チョウと向かい合った。お茶の湯気が立ち上る中、彼は新しい企画について熱心に語った。彼にとって映画は利益であり、未来であり、権力を握る手段でもあった。だが私にとって映画は、ただ一つ――真実を映す鏡だった。窓の外には喧騒が広がっていたが、私の心は不思議なほど孤独だった。賑わいの中で孤立する感覚。人々が語るのは金と名声、私はただ「真実」を考えていた。

 午後、太陽は容赦なく街を照らし、私の頭には鈍い影が落ちていた。痛みは刃のように鋭く、訓練で鍛えた肉体をも容易く切り裂いていた。私はやがて、静かな部屋を求めてベティ・ティンのもとへ向かった。彼女は心配そうに私を迎え、イクエイジックという小さな錠剤を差し出した。彼女にとっては何気ない行為。しかし私にとって、それは哲学的な問いかけだった。戦士は心の明晰さによって生きる。その刃を、一瞬でも鈍らせてよいのだろうか――。

 だが私は疲れ果てていた。抵抗する力もなく、錠剤を口に含み、ソファに沈み込んだ。呼吸は緩やかになり、瞼は重く閉じていく。静寂が部屋を包み込み、街の喧噪は遠くにかすんでいった。

 その闇の中で、私は再び「水」の哲学を思い出した。水もまた休息する。流れを止め、源へ戻り、やがて雨となって地に還る。今私が感じているのは休息か、それとも最終的な屈服か。再生の前の静寂か、それとも無の前の静寂か。答えはわからなかった。ただ一つ確かなのは、人々はこの瞬間を永遠に議論し続けるだろうということだ。これは運命だったのか、暗殺だったのか、薬の副作用だったのか、それとももっと別のものか。

 けれども、真実はそれほど重要ではない。人生は私たちが所有するものではない。燃え盛る炎のように、風が吹けば消え、また別の場所で火を灯す。私の肉体は消え去るだろう。だが、動き、精神、哲学――それらは水のように形を変え、残り続ける。

 だから、私は問いを残しておきたい。

 ――私は死んだのか。殺されたのか。それとも、それは問題なのか。

 あなたがこれを読んでいるなら、その答えを決めるのはあなた自身だ。私はもう選べない。私にできるのは、ただ反響となり、精神となり、伝説となってあなたの中に流れ込むことだけだ。

 星は死なない。星は記憶の空に刻まれ、伝説になる。だからどうか、私を沈黙の中で思い出すのではなく、動きの中で思い出してほしい。悲しみの中でではなく、炎の中で。私は龍であり、水であり、そして記憶である。

 ――私の名はブルース・リー。

 そして、これが私の最後の問いかけだ。


第1章 運命の朝

第1節 静けさの兆し

 1973年7月20日。香港の空は、夜明けとともにゆっくりと色を変えていった。漁港には湿った風が流れ、屋台の鍋からは湯気が立ち上る。路地裏の子どもたちが木箱を叩いて遊ぶ音がこだまし、街はいつものように生命力を取り戻していた。

 だが、その活気のただ中にいて、私はひとつの「異音」を感じ取っていた。世界の音は響いているのに、心の奥底は不自然なほどに静まり返っている。まるで大嵐が迫る直前、空気そのものが呼吸を止める瞬間のように。

 私の魂は、その静けさを嵐の予兆と知っていた。理由も根拠もない。ただ戦士としての本能が告げていた。今日という日は、他の日々とは違う触れ方をしてくるだろう、と。

 窓辺に立ち、私は外の光景を見下ろした。人々は忙しく行き交い、朝食の包子を頬張り、新聞の見出しに目を走らせる。その姿は、昨日と変わらない平穏を映していた。だが私の眼には、その光景がすでに「薄い膜」で覆われているように映った。華やかな日常の背後に、名もなき重さが沈殿している。

 「魂は嵐の前にそれを知る」と、私は自分に言い聞かせる。戦士とは、剣を振るう者ではない。心を澄ませ、見えぬ兆しを掴む者だ。

 ふと、机の上の鏡が目に入った。そこに映る自分の顔は、いつもと同じでありながら、どこか遠い存在のようにも思えた。私は鏡に向かって小さく呟いた。

 「水のようであれ……」

 私が生涯を通じて語り続けてきた哲学。水は流れ、形を持たず、しかしすべてを穿ち、抱き込む。壁にぶつかれば流れを変え、器に注がれればその形を取る。だが本質は変わらない。自由であり、強靱であり、柔軟である。それが私の真実であり、戦士としての指針だった。

 だが、その朝の私は、普段以上にその言葉に縋りつく自分を感じていた。水のようでありたい。だが、流れを阻む見えない石が、今日に限って道をふさいでいる。心は不安を覚え、肉体は奇妙な重さに覆われていた。

 妻や子供の笑顔を思い浮かべた。スクリーンの中で躍動する自分の姿も思い出した。だが、心の奥に忍び込む静寂は、そうした思い出をも淡くかすませていく。

 「死は扉であって終わりではない」

 かつて私はそう語った。だが、その扉の向こうに今まさに手がかかろうとしていることを、この時ほど強く実感したことはなかった。

 街の空気には、甘い香りと鉄の匂いが入り混じっていた。蒸気、汗、ガソリン、そして人々の欲望。私はそれを一呼吸ごとに感じ取りながら、自分がこの都市の鼓動と奇妙にズレていることを悟った。周囲の時間は走り続けているのに、自分だけが深い水底に沈んでいる。

 ――これは運命なのか。それとも何者かが仕組んだ罠なのか。

 問いはまだ答えを持たなかった。だが、その答えを追い求める必要はないのかもしれない。重要なのは問いを抱き続けることだ。戦士は答えを求めて剣を振るうのではない。答えを求める過程そのものが戦いであり、成長であるのだ。

 私は拳を握り、軽く空へ向かって突き出した。筋肉はしなやかに反応し、鋭い痛みもなく応えた。動きはまだ確かに生きている。だがその奥に潜む沈黙が、確実に私を見つめ返していた。

 今日という一日が、試練となることは間違いない。私が大切にしてきたものを試し、軽蔑してきたものを暴き出す日になるだろう。名声、金、欲望――それらに囲まれながら、私はただ「真実」を求める。だが真実は、常に代償を伴う。

 朝の光はすでに高く昇り、街を照らしていた。人々の声はますます大きくなり、香港は一日の始まりを全力で迎え入れていた。だが私の心は、あくまでも静寂の底に沈んでいた。

 ――これは、静けさの兆し。嵐を呼ぶ前触れだ。


第2節 人々の視線

 午前の陽がさらに角度を変え、街の輪郭をくっきりと縁取ったころ、私は予定どおりの動線に身を置いた。入口にはすでに数人の記者が張りつき、フラッシュが白い音のように散っては消えた。カメラのレンズが私を追い、遠巻きの人々が波のように揺れる。そこに好奇はあっても悪意は見えない――少なくとも、表面上は。

 握手を求める手、ペンを差し出す手、サイン色紙を掲げる指先。私はその一つひとつに短い笑みを返し、掌の温度で人を見分けた。柔らかい手は期待を、固く湿った手は焦燥を、冷たい手は計算を帯びている。差し伸べられた掌は、どれも私に触れようとするが、私の芯には届かない。仮面が一枚挟まっているからだ。

 世界は人間よりも仮面を愛する――私はそう学んできた。仮面は安心だ。役割を明確にし、場を滑らかにする。けれど、仮面の裏で生きることはできない。仮面は呼吸を奪い、心の温度を均質に冷やす。私は狭い道を選ぶと決めた。安らぎに続く広い道ではなく、明晰に続く細い梯子。

 廊下の突き当たり、打ち合わせの部屋に通されるまでに、いくつもの視線が私を横切った。羨望、嫉妬、算段、称賛――それらは色の異なる糸のようで、足元の床に静かに絡みつく。私はそれを踏み越える術を知っている。視線に捕まらない技術。視線は動きに弱い。水面の反射が指で掴めないのと同じだ。私は水であろうとした。

 小さな打合せ室では、若いスタッフが資料の束を抱えて立っていた。彼らは私の言葉を待っている。言葉は通貨だ。ここでは発言が契約の重さとなり、うなずき一つが未来の形を変える。私はゆっくり椅子に腰をかけ、差し出された企画書に目を走らせた。

 「このシーンは、ただ殴って勝つという絵ではない。動きが意味を語らねばならない」

 私は静かに言った。

 若いスタッフの瞳が少しだけ輝く。彼は腕時計の秒針を一度追い、それから勢いよくメモを取った。彼の仮面は薄い。薄い仮面の下に、熱がある。私はそれを好んだ。

 移動のたびに、通路の隅に立つ者たちが入れ替わった。新しい顔、新しい笑み、新しい握手。名札の有無、靴の減り、声の調子。私は細部を観る。戦士の目は敵の肩の高さを見るだけでなく、爪の長さ、呼吸の音、視線の泳ぎ方を見る。人は全身で語る。沈黙もまた語る。

 「彼は、いま笑っている。だが眼は別のことに焦点を合わせている」

 私は心の中で印をつけた。

 「彼女は、言葉を一つ多く重ねた。理由のない言葉は、何かを覆うために添えられる」

 私は視線を返す。笑みは保つ。水は形を保ったまま、器の内側に薄く貼り付く。

 喧噪は、心を少しずつ削る。拍手や歓声は甘美だが、砂糖のように血糖を乱す。名声は身体を養うが魂を飢えさせる、という私の確信は今日に限ってことさらに強まり、喉の奥に苦味として残った。

 「あなたの名はブランドです」

 誰かが言った。

 「ブランドは不滅の価値です」

 私は微笑み、首を横に振りはしなかったが、心の中では一歩退いた。ブランドは仮面の別名だ。私は人であり、動きであり、水である。私は、いまここに呼吸している。仮面は呼吸しない。

 屋外に出ると、陽が高く、コンクリートの匂いが立ち上った。信号待ちの群れが一斉に横断歩道を渡る。私は人波と歩幅を合わせず、半歩だけ遅らせて歩く。半歩の遅れは空気の抵抗を減らし、視線を泳がせる。気配のまだらがほどけ、人の輪から私は水のように離脱する。

 角を曲がると、古い看板の影が舗装の上に濃く落ちていた。影の中に入ると、熱がふっと引いた。私は呼吸を整え、脈拍を数え、肩の位置を微細に直した。体は正直だ。心が仮面を被っても、体は嘘をつかない。

 昼に近づくほど、声は大きくなる。言葉は浮力を持ち、人の群れを膨らませる。私はその浮力から距離をとる。距離は冷たく見えるかもしれないが、真実に近づくための必要条件だ。人は近すぎると見えなくなる。絵画に顔を押し当てても輪郭はわからない。

 私は、私と世界の間に、紙一枚ほどの間隙を保とうと努めた。その隙間に風が通り、冷たさが心の熱を整える。

 打合せの合間、廊下の端で少年が私を見上げた。彼は両手で古びたポスターを抱えている。ラミネートもされていない紙は角が擦り切れ、端に小さな破れ。少年は迷っていた。近づくべきか、退くべきか。

 私は彼に目で合図した。来なさい。

 少年は駆け寄り、息を弾ませながらポスターを差し出した。

 「サインを……お願いします」

 彼の声は震えていて、仮面を持たない透明さがあった。私は彼の手から紙を受け取り、丁寧に名前を書き添えた。

 「練習は嘘をつかない」

 私は短く書き、微笑んだ。

 彼は何度も頭を下げ、走り去った。背中の骨がまだ成長途中の角度で揺れる。私はその軌跡に、過去の自分を見た。仮面の要らない熱。

 再び部屋に戻ると、空気は少し重くなっていた。人が増え、約束が増え、数字が増える。数字は重力を持つ。ゼロが一つ増えるたび、床板がきしむ。

 「スケジュールは詰められるだけ詰めましょう。世界が待っています」

 誰かが言った。

 世界――なんと大きく、そして曖昧な名だろう。世界は私を待っているのか、それとも世界は私の背中に乗っているのか。私は水であろうとする。背負わず、抱えず、ただ流れ込む。だが、流れを狭めるせきは着実に積まれていく。

 窓の外、遠くの建設現場でハンマーの音が響いた。規則正しい打音は、心の拍と奇妙に干渉する。コン、コン、コン。私は拍に合わせず、呼吸の間隔を意識的にずらした。音に合わせると、心が外に乗っ取られる。戦士の呼吸は、自分の内部に基準を持たせる。

 「次の企画では、より広い観客層に――」

 提案は尽きない。

 「彼らはアクションを望んでいます」

 私は首を傾ける。

 「アクションは動詞だ。動詞には主語がいる。誰が動くのか。何のために動くのか。そこを外せば、動きはただの騒音になる」

 沈黙が一拍置かれ、それから小さな同意のざわめきが広がった。

 私は続けた。

 「観客は私が拳を振るうのを見るために来る。だが、拳の背後にある心を感じたとき、彼らの中に残るのは筋肉ではなく、意味だ」

 私は言葉を節約した。言葉は多いほど薄まる。水に砂糖を入れ過ぎると味は消える。必要な甘さの限界がある。

 部屋を出るとき、ガラスに映った自分の姿が一瞬だけ揺れた。姿勢、視線、口角。そのすべてが「整っている」。整っているものは脆い。小さな歪みで崩れる。私は意図的に肩の力を抜き、歩幅を半足分ずらした。完璧の仮面から一枚、薄皮を剥ぐ。

 廊下の先で、見覚えのある顔とすれ違った。彼はかつて一緒に働いた男で、いまは別のプロジェクトに関わっている。彼の笑みは整っていて、しかし眼の奥に小さな針の先が光った。

 「忙しそうだね」

 彼が言う。

 「君も」

 私は返す。

 沈黙が一秒、二秒。彼は視線を斜めに落とし、肩をすくめて通り過ぎた。

 嫉妬と野心は、よく似た匂いを持つ。嗅ぎ分けるには、呼吸を浅くしてはいけない。浅い呼吸は匂いを混ぜる。深く、静かに吸い、静かに吐く。水が岸を洗うように。

 午前の終わりが近づくと、私は自分の内側の静寂が、なおも薄まらずに残っていることに気づいた。むしろ、さっきより澄んでいる。騒音の中で沈黙が研がれることがある。磨かれた刃は光を吸い、余計な輝きを拒む。

 ――今日は、私の中の何かを試す日だ。

 仮面の街で、仮面を拒むこと。

 名声の海で、真実の底を泳ぐこと。

 広い道を避け、狭い道を選ぶこと。

 私は掌を開いた。掌には古傷がある。打ち込みの跡、裂けた皮膚の線。そこに今日の握手の温度がまだ残っていた。柔らかい期待、固い焦燥、冷たい計算。どの温度も、私の皮膚の上で同じく消えていく。水に落ちた白墨チョークの粉のように、触れた瞬間に輪郭を失う。

 私が握りしめるべきものは、ここにはない。私が握るのは、拳ではなく、意味だ。

 昼の会合の時刻が迫る。ドアの向こうで誰かが名前を呼ぶ。私は背筋を伸ばし、仮面を一枚、逆に「身につける」ことにした。仮面を拒むために必要な仮面――場を保つための最低限の役割。それを装着し、私は光の中へ出ていく。

 水は光の中でも水だ。形を変え、器を選び、しかし本質を変えない。

 ――さあ、次の視線へ。

 私は歩き出した。視線の海の、狭い水路を。


第3節 レイモンド・チョウとの会合

 正午の鐘が遠くで鳴った。街の喧噪は昼食の香りと混ざり合い、屋台からは油と香辛料の匂いが立ち上っていた。だが、私の胸の奥に響いていたのは腹の虫ではなく、言葉にしがたい「世界の重み」だった。陽が真上から差し込み、影は短く濃く、どこにも逃げ場を与えない。まるで今日という日そのものが、私の視線を正面から受け止めろと迫っているかのように。

 レイモンド・チョウと会う約束は、既に幾度となく繰り返されてきた日常の一部であった。だが、この日の会合はどこか違っていた。彼の声は電話越しからして熱を帯びていたし、言葉の端々に焦燥がにじんでいた。私はそれを敏感に感じ取っていた。人の言葉は飾れても、声の震えは仮面を被れない。

 彼のオフィスに入ると、まず私を迎えたのは煙草と紙の匂いだった。灰皿には吸い殻が積み重なり、机の上には企画書や契約書の束が無造作に広げられている。窓から射し込む光は紙の白を刺すように照らし、部屋全体が舞台のようにぎらついていた。

 「リー、来てくれてありがとう」

 レイモンドは笑みを見せた。だがその笑みの裏には、数字が踊っている。私はそれを読み取る。

 茶器が運ばれ、湯気が立ち昇る。二人で湯を啜りながら、話題はすぐに『死亡遊戯』へと移った。彼の口から次々と語られるのは、配給のスケジュール、観客動員数、マーケティング戦略、そして将来的な興行収益の見込み。数字は彼の言語であり、彼の武器だ。

 私は静かに耳を傾けながらも、別の次元で思考を巡らせていた。映画は金を生むかもしれない。だが私にとってそれは「鏡」だった。動きと哲学を通じて、自分自身を世界に投影する手段。観客は拳を見る。しかしその拳に込められた「心」を見抜く者がいたなら、それこそが私の本当の望みだった。

 「この作品が成功すれば、世界市場は完全に制圧できる」

 レイモンドの目は炎のように輝いていた。

 私は茶碗を静かに置き、言った。

 「映画は市場を制圧するための武器じゃない。魂を映すための鏡だ」

 一瞬の沈黙。茶の湯気が二人の間を漂い、時間がわずかに止まったように感じられた。レイモンドは笑みを絶やさず、軽く肩をすくめる。

 「もちろんだとも、リー。だが真実を届けるには、まず観客の目を奪わなければならない」

 「真実には代償がある」

 私はそう返した。

 「観客の目を奪うことはできる。だが、心を奪えるかどうかは別だ」

 窓の外からは街の騒音が押し寄せていた。車のクラクション、商店の呼び込み、遠くで響く工事の音。人々は取引を交わし、数字を追い、日々を消費している。その喧噪を聞きながら、私は痛感していた。――世界は脆い。築き上げられるもののほとんどは、風のように簡単に崩れる。だが真実だけは、嵐を超えて残る。

 会合が終わり、スタッフや秘書が部屋を後にしても、私はしばらく窓辺に残っていた。外の通りは人で溢れている。群衆の一人ひとりが自分の物語を抱え、目的地へ急いでいる。だがその群れを見渡している自分は、なぜか孤独だった。名声の只中にありながら、私は「ひとり」であることを強く実感した。

 孤独は決して恐怖ではない。むしろそれは戦士の宿命だ。仮面を剥ぎ取り、真実に近づく道はいつも狭く、そして孤独である。だが、その孤独を越えた先にしか見えないものがある。

 茶碗に残った茶葉が、渦を描いて底に沈んでいた。私はそれを見つめながら思った。――この日もまた、ひとつの渦に導かれているのだろう、と。流れは止まらない。水は道を選ばず、ただ低きへと流れる。だが、その先に待つものが運命か、それとも裏切りか、それはまだ誰にもわからない。

 私は深く息を吸い、窓の外に視線を向けた。群衆の顔はぼやけ、ネオンの約束はろうそくの炎のように揺れていた。

 ――名声は体を養うが、魂を飢えさせる。

 その言葉が胸の奥で繰り返され、昼の光に混じって溶けていった。


第2章 影の訪れ

第1節 疲労と痛み

 午後の陽は、容赦なく街を照らしていた。香港の高層ビルのガラスは鏡のように輝き、熱を反射して道行く者の背中を焼いた。コンクリートに溜まる熱気は呼吸を重たくし、通りの喧噪は耳の奥にまでこだました。だが、その喧噪の中で私が最も強く感じていたのは、街の音でも群衆の熱でもなかった。自分の内側で、じわじわと広がっていく「刃のような痛み」だった。

 昼の会合を終え、私は廊下を歩きながら、こめかみの奥に走る痛みに思わず立ち止まった。頭蓋の内側で、何かが膨らみ、軋んでいるような感覚。軽い疲労とは違う。これは「異物」だ。戦士の体は痛みに慣れている。骨の軋み、筋肉の悲鳴、呼吸の乱れ――そうしたものは訓練の一部であり、受け入れられる痛みだ。だが、この頭の奥に潜む重さは、私の知らない種類のものだった。

 足を止めれば止めるほど、人々の声が遠ざかり、代わりに自分の鼓動の音が強調される。コン、コン、コン。槌で打つような規則性を持ちながら、その間隔は微妙に歪んでいた。私は深く息を吸い、歩を進める。戦士の呼吸は、内側の乱れを鎮める術だ。だが、呼吸を整えても、痛みは消えなかった。

 「戦士は心の明晰さで生きる」

 それは私が繰り返し自分に言い聞かせてきた信条だった。だが、頭痛はその明晰さを曇らせようとしていた。視界の端が霞み、光の輪がちらつく。会話の内容は耳に届くのに、意味が滑り落ちていく。私は笑みを絶やさず、人々の話を受け流したが、心はすでに戦っていた。――相手は外の誰でもない。内側に巣くう影との戦いだ。

 午後のスケジュールは詰め込まれていた。プロデューサー、スタッフ、友人、知人。次々に人が現れ、握手を交わし、短い会話を交わす。彼らの言葉は、金、名声、未来、そして計画。だがそのひとつひとつの声が、痛みの波にかき消される。私は何度も思った。なぜ人はこれほどまでに未来を語るのか。未来は未だ形を持たぬ「水」のようなものだ。掴もうとするほどこぼれ落ちる。だが、彼らは必死に両手で水を掬い上げようとする。私はただ、静かにそれを見つめていた。

 群衆の中にいると、視線が絡み合う。称賛の視線、期待の視線、疑念の視線。人々は私を「龍」と呼ぶ。だが、龍であることは仮面にすぎない。私はただの人間だ。汗をかき、疲れを覚え、痛みに苦しむ。龍という名は外の世界が与えたものであり、私の内側の真実とは異なる。私は龍である前に、水であろうとする存在だ。

 午後三時を過ぎたころ、痛みはさらに強くなった。こめかみを指で押さえると、鼓動と同じリズムで鋭い波が走った。視界は暗くなり、光は鋭さを増す。私は人々に悟られぬよう、姿勢を正し、笑みを浮かべ続けた。しかし、心の中では問いが繰り返されていた。――これは単なる疲労か、それとも何かの兆しなのか。

 「リー、大丈夫ですか?」

 あるスタッフが不安そうに尋ねた。

 「大丈夫だ」

 私は短く答えた。戦士は弱さを見せぬものだ。だが、その言葉は自分への暗示でもあった。大丈夫だ、大丈夫だ――そう繰り返すことで、痛みの正体を曖昧にしようとしていた。

 会合の合間、私はふと窓辺に立った。遠くの山並みが陽炎に揺れている。街は喧噪を続け、人々は忙しなく動いている。だが、私はそこに「孤独」を見た。大勢の中にいても孤独。名声の中心にいても孤独。孤独は私を脅かさない。むしろ、私を真実へ導く。孤独の中でしか見えないものがある。私はその孤独を抱きしめるようにして、深く息を吸った。

 だが、呼吸は再び痛みに遮られる。鋭い閃光が脳裏を走り、視界が白く弾けた。手が震える。私は拳を握り締め、机の端を支えた。戦士にとって肉体は武器であり、同時に宿命だ。どれほど鍛え上げても、体は時に反逆する。だが、精神は揺るがない。私は心の中で繰り返した。

 「水は障害を削る。私もまた、この痛みを削る」

 夕方が近づくにつれ、人々の話はさらに加速した。新しい契約、新しい計画、新しい未来。彼らの言葉は渦を巻き、私を巻き込もうとする。だが、私の心はその渦から離れていた。私が求めているのは名声でも金でもない。私が求めているのは「真実」だけだ。だが、真実には常に代償が伴う。痛みはその代償のひとつなのかもしれない。

 ――痛みが告げているのは何だ?

 それは単なる疲労の警鐘か。それとも運命の前触れか。

 答えはまだ闇の中にあった。

 人々の声が途切れ、部屋に一人残されたとき、私は静かに目を閉じた。痛みは波のように押し寄せ、引いていく。私はその波に身を委ねながら思った。水は絶えず流れ、岩をも削る。ならば、この痛みもまた私を削り、新しい形へ導くのだろうか。

 ――それとも、これは水が尽きる合図なのか。

 その答えを知るのは、まだ早かった。だが、私の魂は確かに感じ取っていた。この痛みは、ただの痛みではない。これは「影」の訪れだった。


第2節 ベティ・ティンの部屋

 夕暮れの色が街に滲み始めた頃、私は喧噪を背にして歩いていた。昼から続く頭の痛みはさらに鋭さを増し、こめかみを締め付ける縄のように私を捕えていた。光はまぶしく、影は深く、鼓動は耳の奥で乱れた太鼓のように響いていた。人々の声、車のクラクション、ネオンの点滅――それらは遠ざかり、やがてただの雑音の膜となった。私は静かな場所を求め、無意識に足を向けた。

 たどり着いたのは、ベティ・ティンのアパートだった。ドアをノックすると、彼女はすぐに顔を出した。薄い色のブラウスをまとい、驚きと心配の入り混じった表情で私を迎える。

 「ブルース、顔色が悪いわ」

 その声には、計算も打算もなかった。純粋な驚きと憂慮だけが混ざっていた。私は軽く微笑み、肩をすくめた。

 「少し、頭が痛む」

 彼女はすぐに部屋へと招き入れ、ソファを指さした。私は腰を下ろすと、深く息を吐いた。部屋は外界の喧噪から隔絶され、カーテンの隙間から差す夕暮れの光だけが、静かに床に落ちていた。外の世界がまだ騒がしく回っているのに、ここは奇妙なほど穏やかだった。

 「どんな痛み?」

 ベティが水を差し出しながら問う。

 「刃のようだ。鋭くて、深い」

 私は額を押さえながら答える。

 「訓練でも、こんな痛みは感じなかった」

 彼女はしばらく考え、机の引き出しから小さな瓶を取り出した。中には白い錠剤がいくつか入っている。

 「イクエイジックよ。頭痛に効くはず」

 その言葉は軽かった。薬は日常のものであり、特別な意味を持たない。ただの処方薬。ただの小さな錠剤。だが、私にとっては違った。

 私は瓶の中の錠剤を見つめた。光を受けて小さく輝くそれは、まるで問いの結晶のようだった。

 ――戦士は心の明晰さで生きる。その刃を、自ら鈍らせるのか。

 私は自問した。痛みは耐え難い。だが、それでも明晰さを失うよりはましではないか。精神は武器であり、心は刃だ。その刃が曇れば、戦士は戦士でなくなる。

 私はしばらく黙って錠剤を手のひらに載せていた。ベティは不安そうに私を見つめ、促すように首を傾げる。

 「飲んで。無理しないで」

 その声は柔らかかった。そこに裏切りの匂いはなかった。だが、真実は常に代償を伴う。私はそのことをよく知っていた。

 やがて、疲労が私の決意を押し流した。私は錠剤を口に含み、水で流し込んだ。冷たい液体が喉を通り、体の奥へと沈んでいく。ソファに背を預けると、身体が重く沈み込むようだった。外の騒音はさらに遠のき、部屋の中には静寂が濃く積もっていった。

 呼吸は緩やかになり、目は重く閉じかける。意識の縁は霞み、思考は途切れ途切れになった。だが、その中でも私は問い続けていた。

 ――これは休息か。それとも屈服か。

 水は流れ、形を変える。しかし水でさえも休むときがある。源へ戻り、やがて雨となって再び降り注ぐ。私はその循環を信じてきた。だが、もしこれが循環の終わりだとしたら? もし、もう戻らぬ流れだとしたら?

 私は目を閉じ、内側に沈んでいった。記憶の断片が泡のように浮かんでは消える。少年時代の路地、サンフランシスコの空、撮影所の眩しいライト。拳を振るい、汗を流し、声を上げた瞬間の数々。すべてが過ぎ去り、すべてが今へと流れ込んでいる。

 ベティは近くに座り、落ち着かない様子で私を見守っていた。彼女の視線は揺れていた。心配か、不安か、あるいは予感か。だが彼女は何も言えなかった。沈黙が部屋を支配し、私の呼吸とともに時間がゆっくりと溶けていった。

 痛みはまだあった。だが、その輪郭は曖昧になり、遠くへ退いていく。私は自分の中で問いを繰り返した。

 ――これは救いか、それとも裏切りか。

 答えは出なかった。けれど、その問い自体が、私の魂を揺さぶり続けた。

 「水は死なない。ただ形を変えるだけだ」

 私は心の中で呟いた。

 そして、静寂の奥で眠りが私を包み始めた。


第3節 眠りと幻影

 ソファに沈んだ私の身体は、まるで重石を抱えた舟のように静かに沈降していった。錠剤の効果が始まったのか、あるいは疲労が一気に押し寄せたのか、意識の境界が薄く滲み、世界の輪郭が曖昧になっていく。耳に届くのは、遠くの街のざわめきではなく、己の呼吸が織りなす緩やかなリズム。胸の上下が大海の潮のように膨らみ、縮み、また膨らむ。だがその潮は今、満ちるのではなく引いていく方向に傾いていた。

 閉じた瞼の裏に、光の粒が現れては消えた。最初はただの残像に思えたが、それはやがて像を結び、景色を描き始めた。私は自分が香港の路地に立っているのを見た。幼い子供たちが縄跳びをしている。小さな笑い声が石畳に反響し、無邪気なリズムで空気を弾ませる。その中に一人、見覚えのある少年がいた。骨ばった肩、真っ直ぐな眼差し。そうだ、それは幼き日の私自身だった。

 彼は縄を飛び越え、拳を突き、脚を蹴り上げた。稚拙だが、そこには純粋な衝動が宿っていた。誰に教わったわけでもない。体が自然と戦いを欲し、世界と呼応しようとしていた。私は声を掛けたかった。だが口を開いても声は出ず、手を伸ばしても触れることはできなかった。少年は私に気づかぬまま、空へ拳を突き上げ続ける。その姿は、私が歩んできた道の原点だった。

 視界は次第に揺らぎ、別の場面へと移り変わった。映画の撮影所。巨大な照明が白い熱を放ち、カメラのレンズが冷ややかに光を反射する。私はそこに立っていた。黄色い道着を纏い、観客の記憶に残る姿で。動きは誇張され、音は増幅され、スクリーンの中の私は実物よりも大きく、強く、揺るぎない存在として映っていた。だが、その背後にいる私はただの人間だった。呼吸を乱し、汗をかき、時に痛みに顔を歪める。スクリーンの中の「ドラゴン」と現実の「私」の間には、越えられぬ隔たりがあった。

 さらに光景は変わる。今度は、見知らぬ老人が現れた。深い皺を刻んだ顔に、澄んだ瞳。彼は静かに私を見つめていた。近づこうとしたが、足は鉛のように重く、距離は縮まらなかった。老人はただ、穏やかに微笑んだ。

 「もしあなたが生きていたなら、今も真実を求め続けていただろう」

 声はかすかだが、確かに耳に届いた。

 「私は今、何者なのか」

 私は問うた。

 老人は答えた。

 「友よ、水になれ。死んでも、あなたは水だ」

 その言葉とともに、私は再び流れの中に身を投じた。水は適応し、岩を削り、やがて霧となり雨となる。死は終わりではなく、形の変化にすぎない。そう理解してきたはずなのに、今はその言葉が新たな重みを持って胸に沈んだ。

 気づけば、私は再び幻影の闘技場にいた。観客席は暗く、見えぬ群衆のざわめきが押し寄せる。リングの中央に立つのは、若き日の私だった。精悍な顔つき、引き締まった肉体。彼は構えを取り、私に向かって静かに頷いた。私は応えようと足を踏み出した。だが、体は鉛のように重く、動きは遅れた。拳を突き出しても、風を切る音は鈍く、彼の動きには到底追いつけなかった。若き日の自分は、まるで稲妻のように速く、しなやかに舞っていた。私はその姿を見つめながら、思った。――私が追い続けたものは、常に「真実」だった。そしてその真実は、若さや力ではなく、動きそのものの中に宿っていたのだと。

 鼓動の音が再び耳に響いた。だがそれは規則正しいものではなく、太鼓が遠い谷でこだまするように途切れ途切れだった。コン……コン……空白……そしてまたコン。リズムは乱れ、やがて音と音の間に不穏な沈黙が広がった。私はその沈黙の深さに、底知れぬ不安を覚えた。

 同時に、身体はますます重く、意識は水底に引き込まれるように沈んでいった。ベティの姿がかすかに見えた。彼女はそばに座り、落ち着かない様子で視線を逸らしていた。恐れが彼女の表情を覆っていたが、その恐れが何を意味するのか、彼女自身にもわからなかっただろう。

 私の内側では、夢と現実が溶け合い、境界が消えていった。記憶の断片、哲学の言葉、少年の姿、老人の微笑み、スクリーンの中の自分――それらすべてが渦を巻き、一つの流れに統合されていく。

 「これは休息なのか、それとも無への屈服か」

 私は再び問うた。答えはなかった。ただ、流れだけがあった。

 そして、私は悟った。人々はこの瞬間を永遠に議論するだろう。運命か、暗殺か、ただの薬か、それともそれ以上の何かか。だが、真実はそのどれでもあり、同時にどれでもない。水が一つの形に縛られないように、真実もまた一つに定められはしない。

 意識はさらに深く沈み、視界は闇に覆われた。だが、その闇は恐怖ではなかった。むしろ柔らかく、温かなものだった。私は最後の力を振り絞り、心の中で呟いた。

 「水は死なない。形を変えるだけだ」

 その言葉を最後に、私は静かに幻影の中へと沈んでいった。


第3章 静止した龍

第1節 夜の沈黙

 夕暮れの光がすっかり退き、香港の街は夜の装いをまとい始めていた。窓の外にはネオンが散りばめられ、色とりどりの光が水面に映るように揺れていた。しかし、その華やかさとは裏腹に、部屋の中には沈黙が重く垂れ込めていた。ベティ・ティンのアパートのソファに横たわる私の身体は、まるで深い湖に沈められた石のように動かず、呼吸だけがかすかな証として残っていた。

 ベティはソファの傍らに座り、落ち着かない手つきで私の額に触れたり、肩を揺すったりしていた。彼女の目は不安に揺れている。だが、言葉は出なかった。声にしてしまえば、その不安は現実になる。だから彼女は口をつぐみ、ただ私の様子を見守り続けた。彼女の胸の内には、説明のつかない「異常」が確実に芽生えていた。

 私は浅い眠りと深い闇の間を漂っていた。耳の奥で響くのは、己の鼓動――しかしそれはもはや一定のリズムではなかった。ときに早まり、ときに途切れ、遠い谷で太鼓が反響するように、規則性のない音が繰り返された。コン……コン……間を置いてまたコン。沈黙はその間に忍び込み、私の存在を少しずつ侵食していた。

 暗闇の中で、私はかすかな幻を見た。小さな子供が香港の街角で縄跳びをしている。無邪気な笑い声、乱れた息遣い、宙を切る縄の音。それは紛れもなく幼き日の私だった。だが私は声を掛けることも、手を伸ばすこともできなかった。少年は私の存在を知らず、ただ未来に待つ嵐を予感することもなく遊び続けている。その姿は愛おしく、そして痛々しかった。

 私は悟った。――人は自分の始まりから逃れられない。幼き日の自分を見つめることは、未来の自分を見つめることでもある。今、このソファの上で痛みに沈んでいる私もまた、あの日の少年が流れ着いた姿にすぎない。

 ベティはその間も動き続けていた。水を持ってきて口元に近づけたり、冷たいタオルを額に当てたり。だが、私の身体は応えなかった。彼女の心臓の鼓動が早まるのが、空気の震えとして伝わってきた。

 やがて、ドアを叩く音が響いた。強く、急かすようなノックだった。ベティが立ち上がり、ドアを開けると、レイモンド・チョウが駆け込んできた。彼の顔は蒼白で、目は血走り、声は切迫していた。

 「ブルース!」

 彼は私の名を呼び、一度、二度と肩を揺さぶった。しかし、私は目を開けることはできなかった。意識は深い闇の中にあり、声は遠くにかすれていた。

 ベティの声は震えていた。

 「彼が……呼吸が浅くなって……」

 彼女の言葉は途切れ途切れで、恐怖にかすれていた。チョウはさらに強く私の肩を揺すった。だが、私の身体は重く、応えることはなかった。

 部屋は一気に緊張に包まれた。ネオンの光がカーテン越しに揺れ、赤や青の断片が壁に滲んでいた。外の街はまだ盲目のまま、笑い声と取引の声に満ちていた。だが、この小さな部屋の中では、時間そのものが止まりかけていた。

 私はその時、内側でひとつの確信を得ていた。――肉体はここで止まる。だが、魂は続く。死は終わりではなく、扉である。扉の向こうには暗闇ではなく、新たな流れが待っている。水が循環するように、私の魂もまた形を変えて流れ続ける。

 意識の奥で、私は自分に問うた。

 「これは死なのか、それとも新たな始まりなのか」

 答えは風のように曖昧だった。だが、恐怖はなかった。ただ、静けさが広がっていくばかりだった。

 チョウの声とベティの慌ただしい足音が遠ざかり、私はさらに深い闇へと沈んでいった。鼓動は遅く、呼吸は浅く、世界は私を手放そうとしていた。だが、その瞬間でさえ、私は一つの願いを胸に抱いていた。

 ――私を静寂の中で思い出すのではなく、動きの中で思い出してほしい。

 夜の沈黙は、生の終わりを告げるものではなかった。それは、伝説の始まりを包み込むための静寂だった。


第2節 鼓動の消失

 部屋の中は、張りつめた沈黙に覆われていた。ネオンの明滅がカーテン越しに赤と青の斑を壁に投げかけ、その色がまるで心臓の鼓動のように瞬いては消えていく。しかし、そのリズムに同調すべき私の胸の奥は、もはや一定の律動を失っていた。

 レイモンド・チョウの声が、焦燥に満ちて私を呼んでいた。

 「ブルース! 聞こえるか?」

 肩を揺すられ、身体はわずかに揺れる。しかし、私は応えられなかった。肉体はまだここにあるのに、意識はすでに遠くの岸辺に漂い始めていた。

 ベティは声を震わせ、助けを呼ぶように窓際へ走った。だが、その声は私の耳に届くよりも早く、深い水底へと吸い込まれていった。私の内側では、ただ一つの音――鼓動だけが残っていた。だが、その鼓動も、もはや安定した響きではなかった。

 コン……コン……

 間を置いて、またコン。

 そして、長い空白。

 私はその空白に怯えなかった。不思議と恐怖はなかった。代わりに静かな納得が広がっていた。戦士の人生は、常に一瞬一瞬の戦いの連続だ。ならば、最後の瞬間もまた一つの戦いである。

 暗闇の中を歩く自分を幻視した。長い廊下、壁には灯りがほとんどなく、ただ足音だけが響く。トン……トン……その音も次第に遅くなり、やがて闇に吸い込まれていく。廊下の果てには扉があった。だがその扉を開くか否かは、私にはまだわからなかった。

 その途中で、私は自分の若き日の姿を見た。力強い眼差し、燃え立つような肉体。彼は私に向かって微笑んだ。その姿は炎のように鮮やかで、生命そのものに輝いていた。私はその姿を見て、安堵した。――最後に見るべきものは、痛みでも死でもなく、生命そのものなのだ。

 現実の部屋では、チョウの声とベティの泣き声が重なり合っていた。だが、私に届くのは遠い残響だけだった。私は内なる静けさに包まれ、外界の混乱から切り離されていた。

 鼓動はさらに遅くなった。

 コン…… ――そして沈黙。

 私は理解した。これは「終わり」ではない。これは形を変える瞬間だ。水が蒸気となり、雨となり、大地に戻るように。私もまた、新たな流れへと還っていくのだ。

 最後の光景は、笑顔だった。若き自分の笑顔。スクリーンの中で輝き、観客の心に刻まれたあの笑顔。私はそれを見届けながら、静かに瞼を閉じた。

 ――鼓動は消えた。

 だが、沈黙の中で新しい響きが始まっていた。伝説という名の響きが。


第3節 星の記憶

 ――静寂。

 鼓動の音が完全に途絶えた瞬間、世界は一度、すべての色と音を失った。まるで深海に沈んだかのように、感覚は閉ざされ、ただ虚ろな闇だけが広がっていた。だが、その闇は死の象徴ではなかった。むしろ、すべてを受け入れる大いなる胎内のように温かく、柔らかく私を包み込んでいた。

 私はそこに留まることなく、漂うように流されていった。闇はやがて無数の光を孕み、夜空の星々のように瞬き始めた。その一つひとつは、私が生きてきた断片だった。少年時代の香港の路地、アメリカでの孤独な修行、汗に濡れた道場、初めてのスクリーンデビュー、観客の歓声――それらが小さな星となって輝き、闇を埋め尽くしていた。

 「星は死なない。ただ記憶の空に刻まれる」

 その言葉が自然と心に浮かんだ。私は自分が今、まさに星々の中へと溶け込もうとしていることを悟った。

 星のひとつが大きく光り、私はそこに吸い込まれるように引き寄せられた。映し出されたのは、幼き日の自分が父の影を追いかける姿だった。竹刀を振るい、転び、泣きながらも立ち上がる。あの時の痛み、悔しさ、そして立ち上がるたびに芽生えた誇り――それらが胸に蘇った。少年は未来を知らない。だが、その未来は今ここに繋がっている。私はその姿を見て、思った。――この原点がある限り、私は永遠に消えない。

 次に輝いた星は、スクリーンの中で舞う自分だった。観客が息を呑み、目を見開き、拳の一撃に歓声を上げる。だが私は知っていた。スクリーンの中の「ドラゴン」は虚構であり、実際の私は肉体の痛みと葛藤に満ちていたことを。それでも観客は、その虚構の中に「真実」を見いだした。動きは嘘をつかない。拳は哲学を語る。だからこそ、私は彼らの記憶の中で星となったのだ。

 さらに別の星が瞬き、そこには家族の顔が浮かんだ。妻の笑顔、子供の瞳。そこには名声も仮面もなく、ただ愛だけがあった。私は彼らの未来を見届けることはできない。だが、愛は星の光となって残り、彼らを照らし続けるだろう。

 光はさらに増し、星々は互いに繋がり合い、一つの大きな川のようになった。私はその流れの中に身を任せた。水のように、ただ流れ、ただ循環する。死は終わりではなく、形の変化だ。私は水であり、そして星である。

 やがて、遠くから声が聞こえた。老いた男の声――幻影の中で出会ったあの老人だ。

 「友よ、水になれ。死んでも、あなたは水だ。そして今、あなたは星でもある」

 私はその言葉に微笑んだ。水も星も、形は異なるが本質は同じ。消えることなく、ただ形を変えて続いていく。

 現実の世界では、部屋の中が慌ただしく動いていた。ベティの悲鳴、チョウの呼びかけ、外から聞こえる車の音。だが、それらはもう私には届かない。私はすでに「星の記憶」となり、彼らの心に刻まれる存在へと変わりつつあった。

 私は最後に願った。どうか、人々よ、私を静寂の中でではなく、動きの中で思い出してほしい。悲しみの涙の中でではなく、炎のような情熱の中で。私は龍であり、水であり、そして星だ。

 ――星は死なない。

 ――伝説になる。

 その言葉とともに、私は完全に光の中へと溶けていった。


エピローグ 永遠の問い

 ――私は死んだのか。それとも、殺されたのか。

 いや、あるいは、それが問題なのだろうか。

 暗闇を抜けた先で、私は再び問いを口にしていた。だが、答えは風のように形を持たず、ただ問いだけが残響として広がっていく。生と死の境界を越えた今、その問いは私自身のためではなく、あなた――この物語を読み、私を思い起こす者のために残されている。

 肉体は香港の一室に取り残された。人々は慌て、叫び、名前を呼んだ。記者たちは走り、記事は書かれ、世界は私の死を事実として刻んだ。だが、その「事実」の背後には常に複数の物語があった。偶然か、病か、陰謀か。誰もが推測し、誰もが議論した。けれども、その真実を決定づける者は存在しない。

 私がここから語るのは、真実の断定ではない。むしろ、真実は水のように形を変え、掴もうとする手をすり抜ける。あなたが「死」だと思えば死だろうし、「殺害」だと思えばそれもまた真実だろう。だが、そのどれもが究極的には重要ではない。

 重要なのは、私が生きた瞬間の一つひとつだ。汗を流した道場の床、観客が息を呑んだ映画館、愛する者たちの微笑み、そして孤独の中で問い続けた哲学。それらが積み重なり、やがて記憶となり、伝説となる。

 私は何度も語った――「水のようであれ」と。水は容器に従って形を変え、障害に合わせて流れを変える。だが、本質を失わない。私は今、肉体を失い、時代を越え、あなたの記憶の中に流れ込んでいる。これこそが「水の哲学」の最終形だ。死でさえも、私を止めることはできない。

 ネオンは消え、街の喧噪は去り、私の名前は新聞の活字に並んだ。だが、名はやがて紙からも消える。時が流れれば、どんな記事も風化する。残るのは文字ではなく、心に刻まれた反響だ。あなたがスクリーンの私を思い出すとき、拳の一撃を心に再生するとき、その瞬間に私は蘇る。

 だから、私は願う。私を語るとき、死を語るのではなく、生を語ってほしい。沈黙ではなく動きを。悲嘆ではなく炎を。私は龍であり、水であり、星である。龍は一瞬の咆哮を残し、水は形を変えて流れ続け、星は夜空に刻まれて輝き続ける。

 「私は死んだのか?」

 「私は殺されたのか?」

 ――その問いは永遠に答えを持たないだろう。だが、その問いを抱き続けるあなたの心の中で、私は生き続ける。

 星は死なない。星は記憶の空に書き込まれ、伝説になる。

 だからどうか、炎のように、動きのように、私を思い出してほしい。

 最後に、もう一度だけ言わせてほしい。

 ――友よ、水になれ。死んでも、あなたは水だ。



 最後まで読んでいただきありがとうございます。

 本作はブルース・リーという存在を「死」で終わらせるのではなく、「水」「星」「伝説」として語り継ぎたいという想いから執筆しました。

 彼が残した言葉――「Be water, my friend」 は、時代を超えて私たちに問いかけ続けています。

 ぜひ感想やレビューを通じて、あなた自身が思う「真実」を共有していただければ嬉しいです。

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