血に濡れた廊下
廊下の角を曲がったところで、ディアナは目を見張った。
幾つもの死体が転がっている。
白い廊下は血しぶきで赤く染まり、見るも無残に変貌を遂げていた。
倒れているのは、見知った召使いや騎士の姿だ。
「なに、これ……」
立ち尽くすディアナをよそに、少年は騎士の傍にしゃがみ込んだ。
「幾つか廊下を通ったけど、どれももう、こんなんだったぜ」
彼は騎士の礼服をまさぐり、短剣を抜き取った。
「……ふう。これは使えそうだな」
彼が短剣をしまうのを、ディアナは呆然と見ていることしかできない。
少年は立ちあがると、再びこちらの手を引いた。
外へ向かおうとする彼の手を、ディアナは引っ張る。侍女のソフィアのことを思い出したのだ。
彼女はもしかしたら、ディアナの自室で待っているかもしれない。
部屋へ行かせて欲しいと頼むと、少年は少しだけ迷ったのち、仕方なさそうに頷いた。
「ソフィア……!!」
部屋に辿り着けば、そこには惨状が広がっていた。
開け放たれた扉から、部屋が真っ赤になっているのが見えた。
大切な侍女は、壁に背を預けるようにして、血だまりの中座っていた。
彼女は俯いていて、もう動かない。
「そんな……そんな……」
「ここも探されているとなると、あんた相当危ないぞ」
少年が先ほどの短剣をさすりながら言う。
彼みたいに戦えたらいいのに。
そう思ったディアナは、はっとして顔を上げた。父から貰った聖剣が、ベッドの下にあることを思い出したのだ。
急いでベッドの傍にかかみこんだディアナに、少年は怪訝な目を向ける。
「おい、時間がない。何して……」
ベッドの奥に手を伸ばし、聖剣を取り出す。
少年がわずかに目を見張った。
「あんた、それ……」
「使えるわけじゃないけど、ただ持っていきたいの。大切なものだから」
少年は物言いたげな瞳をしたけれど、再び黙って、こちらの腕を引いた。
廊下は屍がひたすら連なっている。騎士達の中にはたまに黒い礼服も見えるが、ほとんどが、ガレドニアの茶色い礼服を纏っていた。
少年に腕を引かれるまま廊下を走って行けば、不意に誰かの声が聞こえた。
「ディアナ、ああ良かった。無事だったのか」
はっとして顔を上げれば、廊下の向こうに叔父が立っていた。
もじゃもじゃの髭が生えた顔に、ディアナはひどくほっとして、不意に泣きそうになった。
急いで駆け出そうとしたが、ぐいと腕を引っぱられる。
驚いて振り返れば、少年が鋭い瞳をして言った。
「あいつの剣の柄、血がついてる」
ディアナは小さく息を呑み、もう一度叔父を見た。
彼が腰に差した剣、その柄には確かに、血がついている。思わず後ずされば、叔父は穏やかな顔で言った。
「どうしたディアナ、こっちへ来い。子どもだけでは危ないぞ」
「こ、これ全部、叔父上がやったんですか?」
ディアナは必死に言い返したが、わずかに声が震えた。
叔父が不思議そうに言う。
「何か勘違いしてないか? 俺はお前を助けようとしてるんだ。――ああ、その子どもに騙されてるんだな」
「俺は騙してなんか……」
その言葉を遮り、ディアナはまっすぐ叔父を見据えた。
「これ全部、あなたがやったのかって、そう聞いてるんです」
そう言うと、叔父がふっと息を吐いた。彼の纏った空気が、わずかに変わる。繋いだ手を無意識にぎゅっと握りしめれば、少年がわずかにこちらを見た。
「全部、ではないな」
叔父の声はいつもと変わらぬ調子だが、先ほどと違い、底知れない何かが潜んでいた。
「まあ騎士たちにも手伝ってもらったからな」
ディアナは意味が分からず、眉をひそめた。
「騎士って……まさか、オルグラントの騎士を雇ってるんですか?」
「違うさディアナ。俺が動かせるのはもちろん、この国の騎士だけだ」
そんなはずはない。彼の言い分が正しいなら、自国の騎士が殺し合いをしたことになる。
「何言って……だってこの騎士達は、皆父上の……」
「分からないか? 兄上はグスタフ王の求める条件を呑まなかったんだ。だからグスタフ王は、名目上は同盟を結ぶことにしていたが、納得していなかった。それで兄上を排除して、ガレドニアに新しい王を立てようと考えたのさ」
ディアナの背中を、うすら寒いものが通り抜けていく。
叔父はあの人の良さそうな顔で、残酷に続けた。
「ガレドニアにも、それなりに戦力はあるからな。いくらグスタフ王でも、自分が王になって乗っ取るのは難しいと踏んだんだ。そこで騎士達が仕えるのにふさわしい、ガレドニアの新たな王として俺が選ばれた」
ディアナはもう、ふらつきそうだった。
いつも豪快な笑みで話しかけて来た叔父が、父の死に加担していたのだ。
「俺は前もって、グスタフ王と約束を結んでいたからな。まあ多少不服とするところはあるが、仕方のないことだ。……分かったかディアナ。つまり兄を排除してもらう代わりに、俺は王位についた後、グスタフ王の望む交易をする。これが俺達の同盟だ」
ディアナは後ずさった。叔父はゆっくりと歩いてくる。
「お前は賢い子だ。俺の言う事を聞いてくれれば、手荒な真似はしない。――お前は当初の予定通り、ラルフ王子の婚約者としてオルグラントに行けばいいんだ。なに、国を出る予定が早まったと思えばいい」
「そ、そのあとわたしは……」
「殺されることはないさ。大人しくしていればな。まあどこかに幽閉はされるだろうけど、言う事さえ聞いていれば、いずれはあの王子の妻にしてもらえるだろう」
ディアナは瞳を揺らした。
そんなの、捕虜と同じようなものではないか。
「悪くない話だろう? お前は兄上の子なんだ。命があるだけましだと思うことだ」
「そうそう、大人しくしてた方がいいよ」
突然別の声が割って入る。
見れば、叔父の後ろからいとこのハリスが、ひょっこりと顔を出しているのだった。
彼はこちらを見ると、にやりと愉しそうな笑みを浮かべた。
「ディアナ、さっさと諦めた方がいいぜ。この城はもう父上のものさ」
ディアナはぎろりと彼を睨んだ。
「あなたも全部知ってたのね」
「当然さ。オルグラントの騎士を殺した武器――あれをグスタフ王がどこで手に入れたと思う?」
瞳を揺らすディアナを見て、ハリスが唇に弧を描いた。
「俺の父上が渡したのさ。ガレドニアの王族しか持てない剣――あれは父上も持っているからね。あの剣を使えば、簡単にお前の父親に罪を被せることができる」
ハリスは得意げな顔をして、転がった城の人々を眺めた。
「そういうわけだ。まあ殺されたあの騎士も不運だな。この計画のためだけに利用されて、命を落としたんだから」
「……あの騎士を殺したのも、あなた達?」
「違うよ」
ハリスが顔をあげる。その目がきらりと輝いた。
「グスタフ王さ」
ディアナは言葉を失った。
どういうことだ。それでは、あの王は――自分で自分の部下を殺したというのか。
「おっそろしい人だよねえ」
ハリスがにやにやと笑っている。
「俺も計画は知らされてたけど――死体を見てびっくりしたよ。胸をあんなにざっくりとさ。あの騎士は死ぬ直前、グスタフ王の顔を見たはずだ。どんな思いで死んだんだろうね」
面白そうに目を細める彼に、もうディアナは息もできなかった。
「ハリス、喋りすぎだ」
叔父がハリスを見下ろした。いつにはない鋭い目だ。
「えー、考えすぎだよ父上。どうせこいつ、北に送られるんだろう? 知ったところで何もできないって」
そう言って口を尖らせる彼に、叔父は表情を変えなかった。
「確かにな。それは運が良かった時の話だ。――さて、ディアナ……もう一度問おうか」
彼の瞳が、こちらを捉える。
「事と次第によっては、お前の命はない」
いつの間にか、叔父の後ろには二人の騎士が控えていた。茶色の礼服に、返り血がついている。
彼らはガレドニアの騎士だった。
あの広間で騒ぎが起こる直前、叔父はジルギスの助太刀に行く可能性のある者を、次々切り殺させたのだ。彼に防がれたため、仲間が助けに来るのが遅れてしまった。
唯一王のそばで護衛をしていたガーランドだけが、幸か不幸か、あの場に居合わせたのだった。
つまりはあの時、壁に並んでいたガレドニアの騎士は、すべて叔父の手の内の者だったということになる。
呆然と佇むディアナに、叔父は口を開く。
「選ぶと良い。オルグラントへ行き、ラルフ王子の婚約者として過ごすか――ここで死ぬか。……まあ俺には、どちらでも良いことだ」
辺りには死体が転がり、血だまりが広がっている。
ディアナはそれを見、再び叔父を見上げた。
オルグラントは、父を殺した国だ。目の前の叔父も、それに加担していた。彼らの言う事を聞くことは、捕虜になるということだ。
一生この件について抗議せず、大人しく従っていれば生きられる。逆らえば、死があるのみ。
「馬鹿馬鹿しい」
不意に、手をつないでいた少年が言った。
彼はやり取りの一部始終を見ていたが、結局口を挟まずにはいられなかったようだった。
「どっちも似たようなものじゃないか」
叔父が片眉を上げる。
「それなら、お前だったらどうするんだ?」
「外へ出て、勝手に生きるね」
はっとディアナは少年を見る。繋いだ手が、ぎゅっと強く握られた。
「逃げるぞ、お姫様」
二人は踵を返し、元来た道を駆け出した。カンカンカンと、廊下に二人の足音が響く。その後ろから、二人の騎士達が追って来るのが分かった。