紫の目の婚約者
辿り着いた広間は、鮮やかに飾り付けられていた。
なにしろ不和の相手であった敵国と、同盟を結ぶのだ。
失礼のないように、素晴らしいもてなしをしなければならない。召使いたちは趣向を凝らし、壁や柱や天井に、美しい装飾品を散りばめたのだった。
柱に彫られたヴァルムートたちは、みな花の首飾りを下げ、壁には澄み渡る湖の絵が掛けられた。
余すところなく磨かれたシャンデリアは、まだ昼間だというのに、太陽に負けないぐらい輝いている。
広間の中央には父王が立っていて、誰かと話している。
相手は見たことのない顔だ。白髪交じりの男は、数人の護衛を連れている。
傍にはやはり、見知らぬ少年の姿があった。
ディアナよりも一回り年上の、青年になる前の男の子。
その姿に一瞬、どきりとする。
――――あの人だ。あの人がきっと、ラルフ王子だ。
どきどきと鳴る胸を抑えて、彼らの元へ向かう。
「おお、来たかディアナ。元気そうで何よりだ」
歩き出したディアナは、唐突に背中をばんばんと叩かれた。
驚いて顔を上げれば、父ではなく、ひげをもじゃもじゃに生やした叔父が立っていた。
「叔父上。いらしていたのですね」
「もちろんだとも。今日は二つの国が結ばれる、記念すべき日だ」
がははと豪快に彼は笑う。
その後ろから、ひょっこり誰かが顔を出した。肩口で切りそろえた金髪に、釣り目がちなをした少年だ。
「よおディアナ。お前婚約したんだって?」
叔父の息子――つまりいとこであるハリスだ。ディアナはあまり、この少年のことが好きではない。いつも馬鹿にしたような言い方をしてくるからだ。
ディアナは負けじと、彼に視線を投げる。
「そうよ。もう結婚する相手が決まっているの、いいでしょ?」
「そいつはなんともかわいそ……おっと」
「ハリス、今日ぐらい口を慎め」
叔父がハリスの肩を掴み、ディアナを見た。
「お前もそう緊張するな」
「し、していません」
「そうかそうか。それなら良かった」
彼はこちらの様子を気にした風もなく、また楽しそうに笑う。
本当のところ、ディアナはひどく緊張していたけれど、なんとか胸を張って歩いた。
ハリスがにやにやとこちらを眺めて来るが、無視を決め込む。
父の元へ辿り着くと、彼は義務的な、けれどどこか明るい笑みを浮かべた。
「ディアナか。それにお前たちも。ちょうどいい、紹介しよう。――こちらがオルグラントの王、グスタフ殿だ」
彼が示した先には、あの白髪交じりの男が立っていた。その目は底が深く、感情が見えない。
ディアナはわずかに息を呑んだが、きちんと背筋を正すと、ドレスの裾を持ち上げて正式な礼をした。
「初めまして。ディアナと申します。お会いできて光栄です」
「こちらこそ。ガレドニアの姫君」
そう答える声は、荘厳な響きを持っていた。低く事務的な、やはり感情のない声。
この男を敵に回さなくて正解だった。
ディアナは本能的に察した。父が締結にこぎつけた同盟は、正しかったのだ。
「こちらが息子だ。私には数人子どもがいるが、ラルフは長男にあたる」
グスタフ王は一つ首をふると、傍に立っていた少年を一瞥した。
「ラルフ、挨拶を」
言われて、少年が一歩前に出た。
「――初めまして、ディアナ姫」
それは黒髪に、鋭い紫の瞳をした男の子だった。
年は十七だと聞いている。自分にはずっと年上に見えるけれど、まだ子どもの面影を残していた。
ディアナはどきどきしながらも、なんとか先ほどと同じように、丁寧に挨拶をした。
「初めまして、ラルフ王子。どうぞよろしくお願いします」
「……小さいな」
かすかに彼が呟いた言葉に、ディアナはわずかに顔をあげた。
グスタフ王が面倒くさそうな視線をラルフに向ける。
ラルフはそれを受けると、ディアナに微笑みかけた。張り付けたような笑みだった。
「ディアナ姫、私はこの国のことをよく知らないのです。良ければ外を案内してもらえませんか?」
ディアナは一瞬、躊躇したが、なんとか気を取り直して笑みを返した。
彼は二人きりで話せるよう、こうしてわざわざ提案してくれたのだ。
「分かりました。――わたしで良ければご一緒に、」
「姫君」
明るく答えようとするディアナに、一人の男が耳打ちしてきた。
父の護衛、ガーランドだ。黒い髪に黒いひげを生やした、壮年の騎士である。
「城からあまり離れ過ぎないよう、お願いしますよ。騎士の中に、妙な動きをする者を見たと言う情報がありますから」
ディアナは目を瞬かせた。
「今日に限ってそれはないわ。きっと何かの間違いよ」
「だったら良いのですが」
苦笑を浮かべる彼に、ディアナは微笑み返す。
彼は父に忠誠を誓っている。
きっと目を光らせるあまり、何か要らぬ誤解をしたのだろう。
今日は城の内外に見張りの騎士がたくさんいるのだ。何も心配する必要はない。
「大丈夫よガーランド。少し歩くだけだもの」
ディアナが声を潜めて返せば、ガーランドは何か言いたげな顔をしたものの、結局父の元へと戻って行った。
さんさんと太陽の輝く、穏やかな日だった。
ガレドニアの城に中庭というものはない。周りが渓谷に囲まれているので、そこら一体が庭のようなものだ。
運が良ければ、ごくたまにヴァルムートと、そこに乗る「はぐれ者」を見ることができる。
空は青く、いい天気だ。明るい草を踏み分けながら、二人は城の傍を歩いていた。
「本当に美しい国ですね、ここは」
ラルフが辺りを眺めながら言う。
渓谷に広がるこの国には、辺りを挟むように巨大な崖が立ちはだかっている。その上から幾つもの滝が零れ落ち、さらにいくつもの湖となって繋がっているのだ。
一番大きな滝は、城の裏側に流れているものだ。水しぶきの音がここまで聞こえてくる。
名も分からない白い鳥が、広がる視界のはるか先で、小さな蝶のように飛んでいた。
ラルフが小さく呟く。
「先ほど、ヴァルムートの姿を見ました」
ディアナは思わず視線を上げる。
あなたも!? 実はわたしもさっき……」
「噂には聞いていたが、ヴァルムートを見たのは初めてです。あれを見て、我が父が言っていたことが分かりました」
ラルフはひたすら渓谷を眺めている。
その鋭い瞳に、眼光が宿った気がした。
ディアナはわずかに眉根を寄せる。
「御父上……グスタフ王は、何を仰っていたんですか?」
「我が父は、あなたの父ジルギスとの交渉に失敗したのです」
「失敗?」
意味が分からなかった。
自分達はこうして婚約を結んでいるではないか。交渉は成立し、婚約の上に同盟が締結されたのだ。
ラルフは静かにこちらを見た。
「ディアナ姫、あなたは幼すぎる。私には年の離れた妹がいるが……あなたはあいつと同じぐらいの年だ。正直私は、こんな結婚納得いかない」
その言葉に、ディアナは驚いて口を開く。
「だ、だけどこれは、」
「だがまあ、大きくなれば話は別だ。それまでの辛抱だろう」
わずかに目を細めるラルフを見て、ディアナは瞳を揺らした。
つまりは彼にとって、自分は恋愛の対象外なのだろう。当たり前だ。ならば大きくなってから、魅力的な女性になればいい。そう思うのに、心を何かうすら寒い物が駆け抜けていくのだった。
ラルフはこちらを見たまま、探るような口調で尋ねてくる。
「あなたに一つお聞きしたい。私の妻になる気はありますか?」
急に何を言い出すのだろう。ディアナは慌てて答えた。
「は、はい。もちろん」
彼の目を見て、はっきりと言葉を続ける。
「わたしはガレドニアの王女ですから」
「ふうん、ガレドニアねえ……」
ラルフはうっすらと目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「もしも、もしもの話だ。――片方しか選べなかったとしたら、どうしますか?」
「片方……?」
彼が何を言いたいのか、はっきり分からない。食い入るように彼を見つめ、唇を開いたその時。
甲高い悲鳴が、城の方から聞こえた。
二人ははっとして顔をあげた。悲鳴は侍女のもののようだ。
「誰か、だれか来て――人が……!!」
ディアナはぱっと駆け出した。その後ろを、慌ててラルフが追って来る。二人が急いで城に戻れば、そこにはもう人が集まっていた。
吹き抜けになっている回廊の一つ、そこで侍女が震えていた。
彼女の視線の先には、礼服の騎士が倒れて死んでいた。
黒い服の色からして、この国の者ではない。グスタフ王の護衛の一人らしかった。
犯人はうまいこと、相手の急所を狙ったらしい。死体の胸からはどくどくと血が流れ、床を真っ赤に染めていた。
陽射しの降り注ぐ回廊で、それはあまりにも場違いな光景だった。