さらわれた赤子
北に連なる山脈を、風が吹き抜けていく。
夜の城は静かだ。鉱山に囲まれたオルグラントの城は、冷たい空気に包まれていた。
空には凍るような月が昇っている。城の奥の部屋では、赤子が眠っていた。
窓辺のゆりかごは、音も無く揺れている。
闇に潜むようにして、ひたり、ひたりと足音がやってくる。見張りをかいくぐり、黒い影が部屋に潜り込んだ。人目を忍んで一歩、また一歩と近づいてくる。
ローブをまとった老人は、この世の終わりのような目をしていた。尽くした王に裏切られ、すべてを奪われた老人には、もう失うものはなかった。その瞳は憎悪に燃え、今復讐を果たさんと、ゆりかごに手を伸ばした。
――――殺してやる。
老人は赤子を掴み上げた。
――――あの男の最も愛した者を、この手で奪ってやるのだ。
月の光が、窓から差し込んで来る。
赤子はふと目を覚ました。二つの大きな瞳が、まっすぐに老人を見つめ、そうして無邪気に微笑みを浮かべた。
不意に、老人の眼が揺らぐ。彼は唐突に悟った。これは自分の欲しかったものだ。
長い人生の中で、とっくに諦め、遠い昔に捨てたもの。これはきっと自分にとっての、最後の希望だ。
「誰だ!!」
唐突な叫び声に、老人ははっと視線を上げる。
「そこで何している!!」
慌てて赤子を抱き上げる。そのどっしりとした重みに、胸に温かい何かが広がって、不意に泣き出したいような気分になった。
窓の外には、馬鹿みたいに美しい満月が輝いている。
「オディロンだ!!」
「追え!! こっちだ――」
走って来た騎士達は、はっとしたように目を見開いた。振り返った老人の瞳に、月光が突き刺さっている。彼の目に迷いはなかった。
ばさりとローブが翻る。
赤子の泣き声が響き渡った。飛び交う怒号。瞬く間に増えていくたいまつの灯り。
老人は城下を駆け抜け、南東の森へと走って行った。向かう先も知らず、ただただ夜の闇を駆け抜けて行く。
森は深い。この闇と神秘に包まれた場所は、人間の手の届かない場所だ。老人は走った。その姿は木々に呑まれ、はためくローブは闇にまぎれた。
青く黒い夜の森に、赤子の泣き声が響き渡っている。無垢で大きな泣き声を、枝葉を広げた木々達が聞いていた。
ただよう霧は、哀れな二人を覆い隠した。
「泣かないでくれ」
いつしか老人は、そうこぼしていた。腕の中の赤子を、壊れ物でも扱うかのように、抱きしめる。王の愛した赤子を盗み、希望を奪った老人は言った。
「今度こそ、誰にも奪わせてなるものか」
月の光が、木々の隙間から差し込み、二人を照らしている。老人は、赤子の目に映る光を見た。
それがすべての始まりだった。